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001 空前の犬ブーム到来

「ステア様が浮気をしているかも知れないの。どうしよう、エミリア様」


 幼馴染のハンナからそう明かされたのは、今日参加した慈善事業イベントでのこと。


 貴族の妻ばかりが居並ぶ会場。その入り口に設置された受付にて、孤児への寄付を募る募金箱の前に立ち、淑女らしい穏やかな笑みを浮かべている時だった。


 外から吹き込む風がまだ少しひんやりとする上に、笑顔を貼り付ける事を余儀なくされているという過酷な状況。出来れば、温かい場所で訪れた人たちにお茶を振る舞う係を希望したいと、密かに誰もが願うだろう。


 しかし私は『貴族の夫を献身的に支える妻の会』のメンバーになって半年ほど。ハンナに至ってはまだ三ヶ月目という新人だ。


 よって、夫の仕事を邪魔しないためにも、先輩夫人と仲良くする事は絶対だ。なんなら、そこで仕入れた情報を夫に報連相し、仕事に役立ててもらえたら妻としての株もあがるというもの。


 先輩夫人=夫の知り合いの妻、という図式が成り立つ以上、彼女たちの命令には逆らえない。


 笑顔で腹の探り合い、足の引っ張り合いが常習と化していた独身令嬢たちを、高みの見物とばかり眺めていた時代を卒業し、晴れて奥様と呼ばれるようになった私は、先輩夫人のご機嫌取りに精を出す日々を送っている。


「私、離縁されるのかしら」


 声を潜めたハンナが口にした言葉に、小さく息を呑む。それから私は静かに頭を振った。


「離縁だなんてあり得ないわ。そもそも浮気してるなんてどういうこと? ステア様がそんなことするかしら?」


 私は彼女を励ましつつ、指摘する。


 ハンナとラインマイヤー商会の嫡男ステア様が、大恋愛の末結婚した事を一から十まで知る身としては、到底信じられない話だから。


「最初は私もそう思ってたの。でもおかしいの。 数ヶ月前までは毎週末欠かさず二人きりのお出かけをしてたはずなのに、最近は誘っても断られてばっかりなの」


「もしかして赤ちゃんが?」


 私は隣に並ぶハンナのお腹を見つめる。


 相変わらず誰もが羨む美貌を持つ彼女のウエストは、ポキリと折れそうなくらい細い。ただ、その下のお腹は特に目立っていないような。


「残念ながらまだよ。そもそも嬉しいお知らせがあったら、真っ先にエミリア様に伝えるに決まってるし」


 それもそうだと納得する。

 私達は無二の親友なのだから。


「それに健康は特に問題ないわ。だからお出かけに誘ってるんだし」


「となると……」


 確かに妻から誘うお出かけを断るだなんて、怪しいかも知れない。


 私は夫をお出かけに誘った事がないけれど、ステア様とハンナに当てはめた場合、絶対におかしいという確信はもてる。


 けれど、ステア様は我が国でも一位二位を争う、大きな商会の次期会長。


「お仕事が忙しいから疲れちゃっているとか?そう言えばステア様は、新たな取引先を開拓しているとか、そんな話をしてなかったっけ?」


「ええそうよ。事業の方をさらに拡大しようと日々奮闘されているわ。それでも怪しいのよ」


「何かその、ハンナがそう思ってしまった証拠があるってこと?」


 私は言葉を濁し、ハンナに問いかけた。


 周囲に人がいないとは言え、流石に公共の場で『浮気』という言葉を使うのは、相応しくないと思ったからだ。


「決定的な証拠を見つけたの」


「え」


 ハンナの言葉にショックを受け固まる。

 そして即座に復活し、私はたずねた。


「そ、それは、つまり他の女性と仲良くしている所を見ちゃったとか、使用人の若い女性に気安い態度を取ってるとか?そういう感じ?」


 私は浮気の『決定的な証拠』と聞き、浮かぶ事案を片っ端から挙げていく。


「他の女性と仲良く……」


 ハンナに悲壮感漂う顔で見つめ返され、私は、やってしまったと自分の失態に気がついた。


「ごめん。というかステア様はハンナに一途よ。だってそうじゃなかったら、毎日あなたのお父様を待ち伏せしないでしょう?」


 私はかつて二人の関係をどうしても認めないハンナの父、リルケ伯爵に来る日も来る日も頭を下げ続けていたステア様の事を思い出す。


 その期間実に一年ほど。


 ステア様の熱い想いがリルケ伯爵に伝わり、伯爵令嬢と商会の息子という、身分違いの恋はめでたく成就されることとなったのである。


 私は、そんな二人の身分差を乗り越えたラブストーリーに寄り添い続け、まるで自分の身に起きた事かのように、怒ったり、悲しんだり、喜んだりしてきたので、何だか他人事とは思えない。


 正直なところ、私は夫となる人と王命による政略結婚をした。


 私の夫となるシュナイダー侯爵家のユリウス様は、代々王家に仕える名門貴族で、我が国の政務を取り仕切る筆頭文官を排出する家の嫡男だ。


 対する私は我が国こと、リーデルシュタイン王国の王女。


 国内有力貴族と王族が縁繋がりなることは、国の繁栄に欠かせない。よって私は、王女として実に模範的な政略結婚を果たした事になる。


 そんな経緯で結婚相手を見つけた私は、まるで恋愛小説のように、運命的な出会いを果たし、波瀾万丈の末結ばれたハンナとステア様とは、夫に対する想いが違う。


 なぜなら、私が物心つく前の二歳の時、六歳の彼との婚約が、国民に大々的に公表されたから。


 だから自分は二十歳になったらユリウス様の妻になる。それを不服に思うという感情すら知らないまま、大人になった。


 それでも、十六歳で社交界デビューを果たし、舞踏会でダンスカードに名を連ねる青年の噂話で友人たちが色めく時期は、私にも何かドラマが起きるかもと期待した。


 けれど、シュナイダー侯爵家を守り立てるべく、堅実な青年に成長したユリウス様には、青年紳士にありがちな浮いた話の一つもないという状況。


 参加する舞踏会で私は、ユリウス様と最初と最後に黙々とダンスを踊るルーチンワークをこなすだけ。


 そもそも、国内に多大な影響力を持つシュナイダー侯爵家を敵に回そうと企む家は皆無だし、身分以外に取り柄のない平凡な王女である私に色恋を仕掛けるチャレンジャーがいるわけもなく。


 ある意味平穏が一番の幸せと考える人であれば、誰もが羨む幸せな日々だったのかも知れない。


 そんな状態のまま、ただひたすらに友人たちの修羅場を蚊帳の外から眺める日々を過ごしていたら、私は二十歳になった。


 そして当初の契約通り半年前に彼と結婚し、今に至る。


 お互い結婚とはそういうものだと割り切って育ったせいか、喧嘩をする事もなく夫婦仲は良好。


 むしろ人生を共にした老後の夫婦のような、平坦で平穏で、変わり映えのしない日々を送っている。


 だからって、彼を愛していないわけではないと思う。


 けれど、親友のハンナとステア様を筆頭に、友人たちのドラマチックな恋愛劇を側で見守っていた身としては、自分もそういう心揺さぶられる恋愛を経験してみたかったと、少し羨ましくもある。


 けれど、私はもう結婚してしまったので、それは二度と叶わぬ夢だ。


「ステア様は私の事を今も愛していると思う。だって、毎日お花を買って帰宅するし」


 ぼんやりと思考に耽る私に、ハンナが告げた。

 突然披露されたお惚気話に私は驚く。


「お花を毎日?記念日でもないのに?」


 思わず聞き返してしまった。


 ユリウス様も誕生日には必ずプレゼントと共に花束を贈ってくれる。けれど何もない日は、綺麗さっぱり何もない。


 ただそれが普通だと思っていたので、毎日お花を妻に贈る人間がいるという事実を聞き、正直驚いた。


「ええ、そうよ。毎日お花を下さるわ。だから私も最初はまさか彼がって、とても信じられなかったの。でも毎日お花を贈るってことも、今となっては怪しいわ」


「どうして?」


「やましい事があるから、花で誤魔化しているかも知れないってこと。それに私は見てしまったの。決定的な浮気の証拠を……」


 ハンナは思い詰めた表情で口を噤む。


「証拠って、一体何を?」


 私は確信に迫ってきたと、緊張する。するとハンナは、少し間を置いてから言った。


「犬の毛よ」


 ハンナが至極真面目な顔を私に向けている。しかも前のめり気味で。


 彼女の普段とかけ離れた気迫に押されながら、私は問い返す。


「犬の毛って、あの四足で歩く動物の犬に生えてる毛のこと?」


「そう、あの犬よ」


「まさかステア様が犬と……って、それはただの犬好きであって、裏切りの証拠ではないと思うけど」


 思い詰めた表情のハンナには申し訳ないけれど、私は「なんだ、犬の毛か」と内心安堵する。


 流石にそれは浮気の証拠にならないし、むしろハンナが犬にまで嫉妬しているだなんて、ステア様を愛している証拠で、そんなの幸せ自慢でしかない。


「それはたぶん、犬を飼いたいだけよ」


 私は浮気疑惑の真相をあっさり披露する。


 これはかなり確証の高い推測だ。


 なぜなら、現在我が国では、空前の犬ブームが巻き起こっているから。


 きっかけは私の父と母が、唯一の娘を無事嫁がせた記念だと言い、私が結婚した後すぐに犬を飼い出したからだ。


 すると、特に都市部に暮らす中産階級と呼ばれる人たちがこぞって犬を飼い始めた。


 次第に犬を飼うことは、上流階級や貴族階級にとって、富や社会的地位の象徴と見なされるようになってしまった。


 なぜなら動物を飼うということは、動物を扶養できる経済力がないと無理だから。


 その結果、我が国において犬は、家畜からいっきに家族に昇格したというわけだ。


 そして留まる事を知らない犬ブームは、加熱の一途を辿る。街を歩けば犬が視界に入らない日はないし、犬のブリーディングやショーなども盛んに行われるようになった。

 文学や芸術においも、犬がよく描かれるモチーフの一つとなっているという状況。


 だから、国内有数の資産を有するであろうステア様が、犬を飼いたいと願う気持ちを持っても何ら不思議なことではない。


 しかし――。


「犬を飼う、それはないわ」


 ハンナがきっぱりと断言した。


「どうして?今は空前の犬ブームが到来してるじゃない」


 私は自分の推理が即否定され、少しむくれる。


「だって私が犬アレルギーだからよ」


「!?」


 初めて明かされた事実に私は驚く。と同時に、これからは実家に帰宅した際、両親の愛犬スパンクルとニエルという、二匹のスパニエル犬と触れ合う時に着ていた服で、ハンナに会う事はやめておくべきだと記憶に留めておく。


「ハンナが犬アレルギーという事を、ステア様はご存知なの?」


「勿論よ。一度うちでも飼おうかって話は出たの。その時にちゃんとお知らせしたわ。でもあの時は「犬より君に側にいて欲しい」って言ってくれたの。でも結局人間は犬に勝てないんだわ。だってあんなに可愛いんだもの……」


 ハンナは目を潤ませている。


 どうやらハンナは犬が好き。けれどアレルギーという悲劇に見舞われているようだ。


 愛らしい犬をもふもふ出来ない。それは絶望でしかないと、犬派の私も胸が苦しくなる。


「だからきっと、どうしても犬が飼いたいステア様は、私と離縁する気なんだわ。そして私の後釜として可愛い犬を飼うんだわ。そして、その気持ちが痛いほどわかるから辛い。だって犬は可愛いもの」


 私はハンナの悲壮な表情に息を飲むと、彼女の両肩に手を置き、その目を見つめる。


「……分かったわ。私が調査に協力するわ。そしてステア様が浮気をしてない。その証拠を絶対に見つけてあげる」


 私は「まかせておけ」とゆっくりと頷く。


「エミリア様!」


 ハンナが私の両手を取り、強く握りしめる。そして潤んだ瞳で私を見上げた。


「ありがとう。私、あなたを一番の親友だと思ってるわ」


「ハンナ……私もよ」


 私は感極まって涙ぐみながら、そう呟いたのであった。

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