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いきなり他人と共に生活することをレイは少し心配していたが、仮の結婚生活は順調に進んだ。
ブリジットはよく食べ、よく喋り、元気に仕事に出ている。レイが帰宅する頃にはブリジットもすでに帰宅していることが多く、一緒に夕食を取る。
ブリジットが来たことでコニーもミランダもよく喋り、よく笑うようになった。レイも帰宅するのが毎日楽しみになった。
ジョンはブリジットの反応が嬉しそうで、今まで食卓に上ることのなかった新たな料理に挑戦することも多い。
休日は怠惰にずっと寝ていたレイだが、ブリジットの朝が早いため、一緒に起きるようになった。時間ができたので自宅の薬草園を整備し直し、試してみたいと思っていた薬草の栽培に取り組んでいる。新しい魔法を検討する時間も取れている。
ブリジットは本を読んでいることが多いが、コニーに頼まれて家の会計収支を見てやったり、庭いじりを手伝ってくれることもある。ジョンが休みのときはミランダと料理をすることもあり、楽しそうにしていた。
あの夜会の夜は、完璧に見えたブリジットの柔らかくて弱い部分を見てしまい、なんだか庇護欲にかられた。
それでも今のところはブリジットは良い友人のような距離感で、レイは今の生活に満足していた。
しばらくして王族の監査が始まり、ブリジットは忙しくなってきた。監査の期間が決まっているのと、なにか不明瞭な点が出るとそれも並行して調べる必要があるため、時間が足りなくなるらしい。
ブリジットは宿舎の仮眠室に泊まり込む日が増えてきて、帰ってこられても深夜という日が続いた。
「ブリジット様、休日までお仕事だなんて、大丈夫でしょうかねえ。ちゃんと食べていらっしゃるかしら」
朝食時、ミランダが準備をしながらため息をついた。今日は休日だが、ブリジットは朝から監査対応のため出勤している。
「レイ様、差し入れでも持って行って差し上げたらいかがですか」
「えっ」
思いもよらぬコニーの提案に驚いた。
「それは良いですね。休みの日は食堂が閉まってると仰ってましたから、きっと皆さん適当なものしか召し上がっていませんよ。坊ちゃん、持って行って差し上げたら喜ばれますよ」
皆にあれよあれよと言いくるめられ、レイはジョンお手製のサンドイッチの差し入れを持って会計監査院に行くことになった。
会計監査院の入口には守衛の騎士がいた。
「すみません、第一班にいる妻に物を渡したいのですが」
騎士はレイのことを知っていたようで、話しかけられて見るからにうろたえた。
「すみません、会計監査院は機密情報が多いので関係者以外立ち入りができないのです。奥様をお呼びいたしますので少々お待ちください」
騎士が急いで中へ入ろうとしたので、それを止め、差し入れだとブリジットに渡してもらえるよう、サンドイッチの入ったバスケットを押し付けた。
確かに各部署の重要情報を扱っているだろうから、中に入れず当然だった。
とりあえず差し入れ自体はできたので良しとして、レイは帰ろうと監査院の入口を出た。
「レイ様!レイ様ー!!」
自分を呼ぶ声がして振り返ると、建物の一階の窓からブリジットが身を乗り出して手を振っている。
レイも手を振り返すと、十人ほどの監査官が続々と、ブリジットと同じように窓からこちらに手を振り出したので、レイはぎょっとして手を止めた。
「魔術師団長様ー!」
「差し入れありがとうございますー!」
「頑張りますー!」
「ありがとうございますー!」
その声を聞いて、なんだなんだと他の部屋の窓からも監査官たちが顔を出し始めた。
しまった。すごく恥ずかしい。いつもの黒いローブを着てくれば良かった。
レイは小さく会釈すると、歓声を背に、そそくさと逃げるように会計監査院を後にした。
その日の夜、帰ってきたブリジットは嬉しそうに話した。
「みんなもう本当に疲れていたので、差し入れしてくださってものすごく嬉しかったのです!今までそんなことをしてくれる方はいませんでした」
差し入れしたサンドイッチは第一班の監査官で食べたそうで、ジョンは礼を言われて喜んでいた。
「それにレイ様が自ら届けてくださるなんて!皆から良い旦那様だねと言われました。私以外は皆男性ですが、窓からレイ様を見れて目の保養だったと。その後の作業が捗りました」
こんなに喜ばれると思わなかった。レイは面映い気持ちだったが、行って良かったと思った。
♢
王族の監査も一段落し、ブリジットは日常に戻っていた。久しぶりに予定のない休日でいつもより遅く起き、ゆっくりと朝食を取った後、自室でコニーと会計の相談をしていた。
レイは会計収支に無頓着なので、これまでコニーが管理してきたという。ブリジットが来てからは二週間に一度、コニーの依頼でブリジットと打ち合わせの時間を持つようにしていた。
窓の外を見ると、レイが薬草園で作業をしていた。すでに日差しが強く、大きな麦わら帽子をかぶっている。
「なぜレイ様はこれまでご結婚なさらなかったのかしら…」
「え?」
ブリジットは薬草園のレイを見つめながら続けた。
「レイ様は家柄も容姿も仕事の実力も申し分ないし、おおらかで優しい方だと思うのです。以前伺った時は、縁がなかったと仰ってましたが、縁談自体は山ほどあったはずですよね」
帳簿をつけていたコニーが顔を上げてブリジットを見る。
「レイ様は自分に好意を持つ女性を避けていたように思います」
「なぜですか?」
「レイ様は落ち着いて魔術師の仕事さえできれば良いという、波風立つのを好まない方ですから、積極的に来られる女性を少し怖がっていらしたようでしたよ」
「私のことは避けずに自然に接してくださっていると思うんですけどね…」
「ブリジット様がレイ様にご興味ないことに安心されているのかもしれませんね」
コニーは二人が契約結婚であることを知っている唯一の人だ。
「そうですかね…」
ブリジットはレイの人柄を知るにつれ、彼には幸せになってほしいと思うようになっていた。
彼は穏やかな人だから、どんな女性が相手でも割とそれなりに良い家庭を築けるだろう。今まで本当に機会がなかっただけで。
レイに好きな人が出来れば、彼が実際に幸せな家庭を築くのは簡単だ。
しかしいま契約結婚しているせいで、本当に好きな人に出会う機会を逸してしまっているとしたら?
自分が彼の幸せの邪魔になってはいないだろうか?
薬草園でしゃがんでいたレイが立ち上がり、腰を抑えて空を仰いだ。
窓から見つめていたことがばれてしまいそうで、ブリジットはレイから目を逸らして窓から離れ、コニーとの仕事に戻った。