壁
本編、契約結婚中の話。
契約結婚中の二人はベッドで二人の間に魔法で壁(物理)を建てて就寝しています。
最近、ブリジットは非常に忙しそうである。
監査の準備が立て込んでいるようで、朝早く家を出て夜遅く帰ってくる生活。レイが就寝した後に帰ってくることもしばしば。
ただ、仕事は楽しいらしく、当の本人はさほど疲れを見せない。
ダンスはからきし自信のない様子だが、彼女は意外と体力がある。忙しくても溌剌としているのが救いではあるが。
「今夜も遅そうですねぇ、ブリジット様」
「そうだな」
夕食を片付けていたミランダが時計を見上げて呟いた。
今夜も帰りが遅くなるので夕食はいらないと、あらかじめブリジットから連絡があった。そのため、ミランダたちが準備したのは主であるレイの分だけだ。
「坊ちゃんももうお休みになったらいかがですか」
「そうする」
ブリジットがこの家に来たのは最近のこと。さらに本当の結婚ではなく契約結婚であるというのに、彼女はすでに家の皆とよく馴染んでいる。
ブリジットがいないと家の中が静かだし、心なしか温度が低く感じる。
彼女が来る前は一体どのような空気だったか、レイはもう思い出せない。
入浴を済ませたレイは一人、寝室へ向かった。
誰もいない部屋は肌寒い。ランプに手をかざして魔法で小さな灯りをつけ、寝台に潜り込んだ。
いま、こうしている間もブリジットは仲間たちと机に向かっているのであろう。監査官は激務だ。
手がけている仕事が済めば、少しは時間が取れると言っていた。そうしたら、どこへ行こう?
ジョンにランチを用意してもらって皆で出かけてもいい。ブリジットが来て新しく本棚も入れたので、欲しい本を探しにいくのもいいかもしれない。
行ったことがないと言っていた喫茶室に行くのも楽しいだろうか。ああそれに、越してきて少し落ち着いたから彼女の実家の家族を招いてもいいかも──
レイはブリジットと過ごす少し先のことを考えながら、眠りについた。
♦︎
朝。
閉じた瞼に眩しさを感じ、レイの意識は浮上した。
昨夜、カーテンを閉め忘れたのだろうか、明るい。魔法で影を作れないかと目を閉じたまま手を動かす。
が、なにかを抱き抱えていることに気付いた。
石鹸の匂い。
覚醒しきらないぼんやりとした頭で、手探りで触れる。
柔らかくて温かいなにかが、体にぴったりと寄り添っている。
気付いた。
「────!!!!」
声にならない悲鳴を上げて、レイは飛び退いた。
腕の中に、ブリジットがいた。
慌てて体を離したが、ブリジットは気付かずすうすうと寝息を立てている。
「…………えっ……!?」
心臓がばくばくと音を立てる。レイは体を離した姿勢のまま固まった。
壁がない。
そうだ、昨夜はブリジットの帰りが遅かったので一人で寝台に入り、そのまま寝てしまったのだ。普段必ず建てている魔法の壁を忘れてしまった。
そしてそのことに気付かず、ブリジットも寝てしまったようだ。部屋も暗かったし、疲れていたのだろう。
きっと彼女のことだ、壁がないことに気付いたら部屋の椅子かどこかで寝るという判断をするはずである。
だが、結果的に同衾してしまった。
同衾は契約結婚の条件に反していただろうかと思い返す。
契約結婚の条件は二つ。仕事の優先と、好きな人が出来たら離縁すること。
大丈夫だ、どちらにも反していない。
レイは少しほっとしつつ、静かに眠るブリジットを見つめた。
閉じた瞼の下にはうっすら隈が浮かんでいるが、頬は桃色で顔色は良い。湯を使ってからすぐに寝たのか、流れるような栗色の髪は一部がほつれていた。
梳いてやろうかと無意識に手を伸ばしかけて、慌てて引っ込めた。
触れてはいけない。
壁が無いことに気付かれる前に、ここから脱出しなければ。
レイは狙われた捕食者から距離を取るように、寝台の上をじりじりと後退した。
息をつめ、音を立てないように後ろ向きで足からそっと寝台を降りる。ようやくほっと息を吐いて、そうっと部屋を出た。
普段、レイの方が起床が早い時には、魔法の壁を消して部屋を出る。なので、ブリジットもいつもと同じ朝だと思うだろう。
♦
普段より少し遅れて起きてきたブリジットは、にこにこと笑顔を浮かべながら食卓に着いた。
表情を見るに、動揺や困惑している様子もない。やはり、昨夜レイが壁を立て忘れたことは気付いていなかったらしい。
「お疲れじゃありませんか? ブリジット様、昨日も帰りが遅かったんでしょう」
そう言いながら、ミランダがティーカップに紅茶を注ぐ。湯気とともに花のような香りが上った。
レイもその香りを確かめながら紅茶に口をつける。
「はい、でも昨夜ぐっすり眠れたので元気です。良い夢を見たので」
「夢ですか?」
「ええ、金色の大きな犬をよしよしする夢を見ました」
「ぶっ」
噴き出したレイを、きょとんとした目でブリジットが見る。レイは慌てて「何でもありません」と目を逸らした。
「とても大きくて穏やかそうな犬で、ぎゅってしてよしよししたらとても毛並みが良かったのです」
「んんんんん…………」
今朝の体勢を思い返すと、ぎゅってしてよしよしされたのは自分ではなかろうか。
しかしながら、「ブリジット殿、私のことを犬と間違えたようですね」と直接言うのは憚られる。
本来なら互いの間には壁があるべきはずだったわけだし、契約結婚であることはミランダは知らないのだ。余計なことを言うのは避けた方が良い。
レイが微妙な顔をして食事を続けていると、ブリジットが首を傾げた。
「レイ様は? いつもより起きるのが早かったようですが眠れなかったのですか?」
「えっ、いや……」
腕の中にいたブリジットの感触を思い出してしまい、咳払いして慌てて頭の中から追い払う。
「いや、眠れました。ぐっすり。何も問題ありません」
「?」
「ブリジット殿、仕事の方は予定通り終わりそうですか?」
無理やり話を逸らすと、ブリジットはパッと微笑んだ。
「ええ! 予定通り、今週中には落ち着きそうです。お休みになったらどこに行きたいか考えておいてくださいね!」
「えっ、ブリジット殿の行きたい場所に……」
「どこでもいいですよ、レイ様や皆さんとだったらなんでも楽しいですもの。ミランダさん、ごちそうさまでした。行ってきます!」
そう言ってパタパタと食堂を出ていくブリジットの背中を見送る。それからミランダと顔を見合わせて苦笑した。
昨夜、レイもブリジットの休みにどこへ行こうかと考えていた。
契約結婚なのに、たまの休みでも共に過ごすのが互いに普通になっている。まるで本当の家族みたいだ。
「どこへ行こうかな」
レイは椅子に背を預け、改めて週末の予定を考え始めた。
《 おしまい 》
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