すれ違い
朝。
食卓にはみずみずしいグリーンサラダにつやつやのトマト。焼きたての白パンの隣にはカリカリのベーコンが並び、カップの紅茶からは湯気が上がっている。
「レイ様、朝からご機嫌ですね。どうしたのですか?」
ブリジットに問われ、レイは自分の頬が無意識に緩んでいることに気付いた。
そう、ご機嫌なのだ。なぜなら今日は。
「今日は子猫を見に行くのです」
「子猫? 今日は魔術師団でお仕事ではないのですか?」
「仕事です」
まぎれもなく仕事である。レイは大仰に頷いた。
「実はですね、王子殿下たちが猫を飼いたいと仰って。王宮で猫を迎え入れることになったのです。それで私がその猫に加護を与えに行く役目を」
「なるほど」
王太子には子どもが三人。
彼らはずっと猫を飼いたいといっていたものの、きちんと世話ができるのだろうかと危惧した王太子妃によりその願望は阻まれていた。
しかし年頃になりそろそろ分別も付いて動物の世話もできるのではないかと、この度許可が下りたのである。
王家やその家族となるものに加護を与えるのは魔術師団長の役目だ。儀礼的な面もあるものの、彼らの健康を願い、実際に守護の魔法をかける。
そして今回、レイがその役目を担ったのである。
仕事とはいえ、子猫を見に行けるのをレイは楽しみにしていた。
「それは楽しそうなお仕事ですね。レイ様じゃないと出来ないお仕事ですけれど。どんな子猫が来るのでしょう」
「私もまだ知らないのです。帰ったら報告しますね」
レイはうきうきとした気分で食事を終えると、ブリジットとともに家を出た。
♢
「どんな猫なのかなあ、やっぱ血筋が良い猫なのかな」
「伯爵家で生まれた猫だって聞いたぞ」
魔術師団で、団員たちは儀式の準備をしていた。
儀式の流れはこうだ。
まず、謁見の間に王族と魔術師団員が集まる。そこに子猫が運ばれてきて、魔術師団長が猫に加護を与える。それが済んだら王族に引き渡してお終いだ。
短時間の儀式だが、魔術師団長がレイになってから初めてのことである。団員たちもワクワクしながら正装に着替えていた。
そんな中、室内に団員が一人駆け込んできた。
「師団長! 大変です、ラフリルの花が咲いています!」
「えっ!?」
レイを含め、いそいそと正装用ローブを羽織っていた団員たちが一斉に彼に目をやり、固まった。部屋の空気が一気に凍る。
ラフリルとは、魔術師団の薬草園で育てている植物である。管理が難しい貴重なもので、咲かせた花の蜜は魔法薬に使用される。
難しいというのは、いつ咲くのかが分からず、しかもすぐに枯れるためだ。
蕾の期間が長いラフリルは、ある日突然開花する。そして芳しい香りを放つ。
その香りには酩酊作用があり、貴重な蜜の採取という面からも周囲への影響という面からも、花が咲いたら迅速に収穫しなければならない。
魔術師団員は加護の儀式を目の前にして重大事案が提示されたことに歯噛みした。
皆、今日を楽しみにしていたのだ。
「……仕方ない、猫はまた後日だ」
「えーー!!」
諦めたレイがローブを脱ぐと、団員たちから悲鳴が上がった。副師団長のダニエルがむすっと口を尖らせる。
「俺は嫌です、猫を見に行きたい」
「ダニエル……、長いことここにいるから分かるだろう? うちの最優先事項は?」
「……………………ラフリルです」
「よろしい」
会議も訓練も儀式もデートさえも、ラフリルが咲けば吹っ飛ぶのだ。
レイは『花が咲いてしまったので加護の儀式は後日にします』と王宮に伝令を飛ばし、文句を垂れる団員たちと薬草園に向かった。
ラフリルは豊作であった。
手に乗るほどの大きさの鮮やかなピンクの花が大量に咲き誇り、団員たちがカゴを抱えて花の収穫に回る。
太陽が頭上にあり、蒸し暑い。全員つば広の帽子を被り、軽装に腕まくりをして目から下を布で覆う。魔術師はラフリルの作用に耐性があるものの、花の香りで酩酊してしまわないようにするためだ。
「あーあ、子猫見たかったなぁ」
「なー、楽しみにしてたのに」
がっかりする団員たちとともに、レイも花を収穫する。
確かに子猫は残念だが、ラフリルは数時間もすれば枯れるだろう。やはり後回しには出来ない。
「まあ、猫は逃げないし。すぐにまた段取りするから……ってオリヴィア、蜜を吸うんじゃない。仕事中だぞ」
猫を見られなかった腹いせに、唯一の女性団員がこっそりラフリルの蜜を吸っていた。蜜は大変甘く、当然香りのみよりも酩酊作用は強い。
へへへと笑うオリヴィアが「いいじゃないですか、ひとつくらい」と言うものだから、周りの団員たちも「俺も俺も」と続く。
「まったく……、ひとつだけだぞ」
きゃっきゃとはしゃぎ始めた皆に注意しながら、レイもひとつだけ味見した。
久々の花は、爽やかな甘味で良い出来だった。
♢
仕事を終えたブリジットは、軽い足取りで家への道を歩いていた。
子猫はどうだっただろう。今朝、レイはとても楽しみにしていた。
王宮で猫を迎え入れるらしいという話を同僚のアニーにしたら彼女はすでに知っていた。「あちこちの貴族の家がうちの猫を是非って立候補したらしいわよ」という。さすがの情報通である。
きっと今日会った猫のことをうきうき話してくれるだろう──そう思って帰宅したブリジットだったが。
「レイ様、今日はどうでしたか?」
夕食の席で切り出したブリジットの予想に反して、レイの表情はあまり芳しくなかった。
「あぁ、なかなか大変でした……」
「まあ」
あんなに楽しみにしていたのに。思ったより大変な仕事だったんだろうか。ため息をつく彼は確かにくたびれた様子である。
「とにかく、量が多くて大変でした。このくらいのカゴいっぱいに」
「そ、そんなにですか!?」
抱えるほどの大きさを手振りで示され、ブリジットは目を剥いた。
王宮で迎え入れる猫というのは一匹かと思っていた。そんな大きなカゴなら二十匹以上はいるはずだ。
立候補した貴族の家がたくさんあると聞いたから、絞りきれなかったのだろうか。あるいは、王宮は広いので多頭飼いが基本なのかも。
レイがため息をついて、続ける。
「それぞれ摘んで仕分けていくんですけどね、結構時間がかかるもので」
「まあ……、色々確認が必要なんですか?」
「そうなんですよ」
儀式の内容は分からないが、王宮で飼う猫である。安全のため、確かめなければならないことも多いのだろう。
にゃーんと鳴く子猫を摘み上げ「ふむふむ君はどんな子かな」と確認するレイを想像し、ブリジットは頬が緩んだ。
「それはお疲れ様でした。無事に済んだのですか?」
「一応終わりました。ただ、途中で勝手に吸い始める団員もいたりして、わちゃつきましたね」
「吸う…………??」
──吸うとは??
混乱したブリジットだが、ハッと思い出した。
そういえば、猫好きな友人が猫を愛でることを『吸う』と表現していた。
猫のお腹に顔を埋めて匂いを嗅いだり、毛をもふもふすることを指すようだった。つまり、魔術師団員も可愛い子猫を愛でたということなのだろう。
「ち、ちなみにレイ様もす、吸ったのですか?」
「え、まあ、試しに」
バツの悪そうな表情で「吸ったのは少しだけですよ」と言う。
羨ましい。仕事でそんな可愛い子猫と戯れられるだなんて。後ろめたいような様子ということは、少しだけでなく存分に吸ったに違いない。
「いいですねぇ、私も吸ってみたいです」
「タイミングが合わないと吸うのは難しいですが、ミランダに頼んで煮出してもらいましたよ」
「え、ええっ!!??」
ブリジットは耳を疑った。
いま、自分の夫はなんと言っただろうか? 煮出すと? 子猫を?
自分の知らぬところで夫は一体どんな仕事をしているのだろうか──?
顔色を変えて恐ろしい想像をするブリジットに、ミランダが割って入ってきた。
「まったく、坊ちゃんはいつも言葉が足りませんよねぇ」
呆れたようにそう言って、テーブルに茶器を置く。
レイとブリジットそれぞれの前にカップが置かれてコポコポとお茶が注がれると、甘い匂いがふわりと香った。
「ブリジット様、これはラフリルというお花を煮出したお茶ですよ、安心してください」
「お花……」
どうやら思い違いがあったようである。
頭の中で想像したことを追い払って、ブリジットはほっと息をついた。
「レイ様、今日は子猫を見に行くとおっしゃってませんでした?」
「あー、延期になったんです。あれ、言いませんでしたか?」
「おっしゃってませんでしたよ、坊ちゃん」
じとりとミランダに睨まれ、レイが「すみません」と小さくなる。
「猫はですね、殿下たちが我慢できずにもう王宮入りしてしまったそうです。儀式を早くしないと」
「どんな猫か楽しみですね。存分に吸ってきてください」
「吸う?」
首を傾げるレイに、ブリジットはふふふと笑顔だけ返す。
湯気の立つお茶に口をつければ、甘くて優しい味がした。
《 おしまい 》




