音色
これは僕が初恋をした話。初恋だからこれが『恋』という気持ちなのか分からないけど、小説や漫画などのフィクションの世界で蓄えた知識から『恋』だと思った。
勉強が嫌い、スポーツが嫌い、人付き合いが苦手。高校2年生の僕は将来への見えない不安と満足できない現状に挟まれて生きているのが辛くなっていた。中学時代は部活動に所属していたし友達もそれなりに多かった。現状にも満足していたしそれなりに楽しい時間をすごしていた。変わったのは高校入学してからだろうか。望む所(高校)に行けなかった僕は自暴自棄に陥っていた。我に戻る頃には何もなかった。部活には入らず帰宅。帰ってから寝るまでの時間、明日は変わろうと決意を固める。が、翌日には霧がかかった様に決意は見えなくなる。こうして同じような1日を何度も何度も繰り返す。友達はできずずっと下を向いて生活していた。いわば何もしたくない状態だ。
そんな生活を送っていた結果、成績は底辺。心配した親が高校2年生の進級を機に僕を塾へと放り込んだ。行きたくもない場所に放り込まれていい気はしなかったがとりあえず行ってみた。ただ勉強の1年のブランクは大きく授業内容はさっぱり分からなかった。さらに、生徒の意識が高く圧倒され萎縮して過ごす2時間。今の自分にはとてもじゃないが耐えられなかった。「辞めよう」。そう決意して向かった水曜日の英語の授業。その決意は崩される。
「送れてすいません!」
授業開始から20分、教室のドアをコンコンと2回ノックして女子が入ってくる。一つにまとめた髪が綺麗で活発な性格を連想させるが口調はどこか気品がある。部活をしているのか大きめのリュックを背負っている。
「体験の小林というものなんですが」
黒板に板書をしていた手を止めて先生が名簿を確認する。
「あぁ、小林日向さんね。ようこそ。席は影山の横ね。前から3列目の真ん中」
小林は指定された席に座る。こちらをチラリと見て「よろしくね」と言う。突然のことだったので驚いて
「あぁ」と少しまねけな声を出してしまう。彼女は気に留める様子もなく黒板の板書を写し始める。
授業後のこと。さっさと教室から出て行こうと荷物をまとめていると「あの」と少し控えめな声が僕の耳に向かってくる。声の主は小林だった。
「私途中から来たから最初の方板書出来てなくて…。見せてくれない?」
そんなことかと僕はリュックからノートを取り出し渡す。
「ありがとう!」
彼女は熱心にノートを写し始めた。ここで僕は気づく。彼女がノートを写し終えるまで帰れないことを。ただでさえ早く帰りたいのに…。今更「カエシテクダサイ」の8文字が言えるわけでもなく仕方なく待った。それともう一つ気づいたことがある。眼鏡だ。教室に入ってきたときはしていなかったが今彼女は眼鏡をしている。眼鏡をしている彼女はしていない時より知的に見えた。身につけているアイテムの一つで印象がガラリと変わる。自分が見られていることに気づいたのか「どうかしたの?」と声だけをこちらに向ける。「なんでもない」と言い慌てて視線を逸らす。
「助かった、ありがとう!」
10分後、ノートが手元に返ってくる。表情は笑顔だった。ここで疑い深い僕は「本当に感謝しているのか」と疑問を持ってしまう。ここ最近人間不信になりつつある僕は言葉を素直に受け止められなくなっていた。
「全然」
表には出すわけにもいかないので、それらしく言葉を返す。今度こそ帰ろうとノートをリュックに入れて教室を出ようとすると「まって」とさっきと同じ声が僕を引き止める。教室には2人しかいないせいかさっきより声が大きい。「早く帰りたいのに」と苛立ちを隠せずに少し睨みつけるように彼女に視線を向ける。
「ノートのお礼、何かした方がいいよね」
そんなことどうでもいいのにと思っていると彼女は続ける。
「来週までに考えてくるから、来週来るよね?」
「うん」
早く帰りたいからか何も考えずに反射的に声を返してしまう。死ぬほど後悔した。
こんな僕にも特技は一様ある。ピアノを弾くことだ。3歳から習っていたが1年前に辞めた。とは言ったものの楽譜は読めない。弾く曲弾く曲全て耳コピで覚えた。どうやら相対音感なるものがあっての芸当らしい。それがなかったらもっと早いうちにピアノを辞めていただろう。県のコンクールにも入賞経験があり腕前はそれなりにあると自覚していた。だがピアノを辞めてからは弾かなくなった。
約束の水曜日。渋々塾に向かう。教室に入ると彼女は先に着いていた。今日は髪を下ろしていた。教室は2人以外誰もいない。
「こんばんは、影山くん」
彼女の声が僕の耳にスッと入ってくる。「こ、こんばんは」と返す。
「この前はありがとう」
僕とは違い落ち着いた声で彼女は言う。
「全然」
少し落ち着いた僕は4文字を丁寧に言う。
「この前のお礼なんだけど…」
少し申し訳なさそうな口調になるので僕は身構える。
「思いつかなかったから影山くんが決めてくれるかな?」
「えっ…」
思わね展開に表情が引きつる。少し考えて答える。
「ピアノ…」
ボソボソと小さな声で言う。思ったように声が出ない。
「えっ、ごめん、よく聞こえなかった」
そう言い彼女が僕に近づく。思ったより近かったので一歩引いてから今度は聞こえるぐらいの声で言う。
「ピアノを聴いて欲しいんだ」
キョトンとしている彼女の為に説明を続ける。
「僕ピアノ弾けて、でもピアノ辞めてから自身が無くなっちゃって…でも誰かに聞いて欲しいって気持ちが何処かにあって…それで」
溜まりに溜まった感情は溢れるばかりで止まることを知らず。ただ内側から流れ出ていた。苦しかった、寂しかった、怖かった。1人で悩んで過ごす日々。キッカケが無いからと変わることを恐れて動けない自分が嫌いだった。ただ今がチャンスだと思った。この人に聴いて欲しいと思った。なんでか分からないけど…本当は誰でもよかったのかもしれなかったけど…。気付いたら涙が溢れていた。
「わかった」
彼女が僕の頭を2回ポンポンと撫でた。
「行こうか」
そう言うと彼女は僕の手を握り教室を出る。引っ張られて僕もついて行く。
彼女に連れられてきたのは塾から歩いて5分ほどの所にある小さな喫茶店だった。扉を開けると店長の趣味なのかアンティークな小物が目に止まった。ピアノの上に置かれていた。
「かわいいでしょ」
彼女が言う。僕はうなずく。
「いらっしゃっい」
そう言って迎えてくれたのは白髪がとても似合っている70代ぐらいのおじいさん。
「ひなちゃんいつもご贔屓にどうも。今日はお友達も一緒ですか?」
「ううん、この子彼氏、影山くんっていうんだよ」
随分突拍子もないジョークを言うんだなと思ったが返す言葉もなく「こんばんは」と店長に挨拶をしてお辞儀をした。
「いつもの席かい?」
「うん!あといつものもお願い。彼も同じのを」
そう言うと彼女は店の奥の方へと進む。
「おいで」
立ち止まる僕に声をかける。僕は素直について行く。
「雰囲気いいでしょ。このお店昔から行ってるんだ」
「そうなんだ」
訳もわからずに連れてこられたお店の話をされても…と思っていると「はい、いつもの」と先程のおじいさんが珈琲を持ってくる。店に漂う匂いと同じものだった。
「大人だね、いつもこの珈琲を飲んでるの?」
「うん、好きなんだよね。ここの珈琲。もしかして苦手だった?」
「全然」
本当に全然だった。僕は珈琲が好きでも嫌いでもない。
「飲んでみてよ」
彼女に促されるままひと口飲んでみる。
「美味しい」
「本当。良かった」
そう言うと彼女は僕の頭を2回ポンポンと撫でる。珈琲とポンポンのおかげでだいぶ落ち着いてきた気がした。彼女もひと口珈琲を飲む。「いつものだ!」と納得したように2回うなずきカップを置く。
「落ち着いた?」
彼女が問いかける。
「うん。おかげさまで」
「よかった」
彼女は言うと僕がずっと気になっていたピアノへと足を運ぶ。そして「連弾しようよ」と唐突に言い出す。彼女もピアノが弾けるのかと新たな発見をした。そして「お願いします」と一言言って1つの椅子に2人で座る。
「○○弾ける?」
「うん」
「じゃあいくよ」
彼女がメロディラインを弾き始める。柔らかい音が身体を耳を伝い身体に流れ込んでくる。自然と指が動く。旋律は美しく、今までにない感動を覚えた。楽しい、ずっと弾いていたい。習っていたときには感じることの出来なかった感情が溢れ出る。
「影山くん上手だね」
「小林さんこそ」
社交辞令でも何でもなく本当に彼女のピアノは上手かった。
「日向でいいよ。それに私この曲しか弾けないんだ」
カミングアウトは衝撃的だったが音色の余韻がかき消した。
「影山くん」
日向の温かくて優しい声が耳に入る。
「苦しくなったらまた私に言ってね」
全身の血液が勢いよく流れ出すのを感じた。鳥肌が立つ。あぁ、これだ。この言葉が欲しかったんだ。僕はこれを求めていたんだ。あまりの嬉しさに涙が溢れる。日向がハンカチをポケットから取り出すと優しく頬に伝う涙を受け止めてくれた。難しい言葉は言えないけど…いや、必要ない。僕は日向に向けて言う。
「ありがとう」
最後まで読んでいただきありがとうございます。
2作目は短編にしてみました。誰しも苦しいや悲しいといった感情は体験したことがあると思います。そんな時優しく自然に側に寄ってくれる人がいると気持ちが落ち着きますよね。僕にもそんな事があったような無いような…。