第6話 白の谷
ようやく本筋が始まります。だらだらとして申し訳ありません。
……何か聞こえる。
最初に感じたのは音だった。それから意識が闇の中から這い出るようにゆっくりと戻ってくるに従って、それが水音だと認識できるようになる。それから肌に触れる冷たい水の感触。匂いはあまり感じない。目が開くまではしばしの時間を要した。
「……」
混濁した意識が少しずつはっきりしてきて、カイルは自分が今置かれた状況について考えた。この感触と流れる水の音からして自分が今川の水に浸かっていることがわかる。体のあちこちに痛みがある。怪我をしているのか……
「!」
ようやく記憶がはっきりとしてきた。アルルパを赤毛熊の襲撃から助けようとして崖から落ちたのだ。この痛みはその時のものだろう。しかしよく助かったものだ。思い返してみると、死んでいても全く不思議ではない状況だったといえる。
「っつ!」
とりあえず今いる状況を確認するため立ち上がろうとしたカイルの足に鋭い痛みが走る。骨が折れていると厄介だ。満足に動くことも出来なければ助かるみこみはほぼないだろう。痛みに耐えゆっくりと足を動かすとなんとか膝を付くことが出来た。目の前の視界は霧が立ち込め、周囲の様子は窺いしれない。手を付くとまたズキンとした痛みが走ったが、幸い腕は折れてはいないようだ。そろそろと立ち上がると、ゆっくり足を上下させてみる。どうやら足も折れてはいないらしい。痛みはあるが歩くことは出来そうだ。カイルはホッとして息を吐いた。足元を見ると、ちょうど川のほとりにいることが分かった。
「アルルパ様ーっ!!」
大声でアルルパを呼んでみるが、返事はない。落ちた場所から流されてしまったのだろうか。それならこうして岸に打ち上げられたのはさらなる幸運と言える。
「とにかく戻ろう」
今いる場所も定かではなく、霧で視界も悪いが、ここでじっとしていても仕方がない。痛む足を引きずり歩き出そうとしたカイルはあることに気付き、あっ、と声を上げた。
手に持っていた弓がない。背中にしょっていた矢筒もだ。携帯していた食料と水筒も同様に身に着けておらず、そしてさらに問題なのは腰に差していた宝刀までが見当たらないことだった。
「どうしよう……」
猛獣を狩れず「成年の試練」を果たせないことも大問題だが、その上宝刀を紛失したとなれば重い処罰は免れない。例え村に帰れたとしてもこれまでのように普通に暮らしていくことは適わないだろう。何とか宝刀を見つけなければ。
カイルは痛む体を押してしゃがみこみ、川底を探った。視界の悪い中必死に宝刀を探すが、岸の近くには見当たらない。深い場所に沈んでいるのか。そもそも流されている途中で落ちたのだとしたら、発見は絶望的だ。今の体では川に潜って探すことは到底出来そうになかった。
「……もう駄目か」
張りつめていた気持ちの糸が切れ、カイルはその場にへたり込んだ。過去、自分の知る限り宝刀を紛失して村に戻ってきた試練の参加者はいない。今のカイルと同じように宝刀の紛失と狩りの失敗はほとんどセットであり、村に帰っても普通に暮らせないだろうと皆考えるのだ。そのままこの森でのたれ死ぬか別の場所へ行くか。しかしリザド族の村以外に人が住んでいる場所は一か所しか分かっておらず、しかもそこに行くには山を二つ越えなければならない。通常で二十日はかかる距離である。大抵試練の参加者はせいぜい一日分の水や食料しか持参しておらず、そこまでたどり着くのは非常に困難だ。狩りが上手くいかなかったような者なら尚更だ。森には赤毛熊のような猛獣が闊歩しており、夜になればさらに危険になる。リザド族の男子にとって「成年の試練」の未達と宝刀の紛失は死と同義であることを、カイルは改めて思い知った。
さてどうしようか、と力が入らない体を何とか起こしつつカイルは頭を巡らす。このままでは村には戻れない。試練を果たせず宝刀を失って自分が処罰されれば、姉パネラは悲しむだろう。それどころかせっかく嫁いだばかりの族長の家を追い出され、姉まで迫害されるかもしれない。実のところ、カイルのその懸念は当たっている。カイルは知らなかったが、半端者のパネラが族長に嫁いだことを快く思わない有力者も結構いたのだ。
もちろん一番理想的なのは奇跡的に宝刀を見つけ、それで猛獣を狩って無事に村に帰ることだ。しかしそのいずれも現状では難しい。次に考えるべきは苦労を覚悟して山の向こうの村まで行くことだ。しかし武器を全て失い、食料もない今の状態で何日もかけて森と山を抜けていくのはやはり困難と言わざるを得ない。残るはこの森でこのまま一人で生きていくという選択肢だが、これも同じ理由で現実的ではない。まさに八方塞だ。
良い考えも浮かばず、体の痛みと空腹に苛まれながらカイルはよろよろと立ち上がった。とりあえずここに居ても仕方がない。この川沿いに進めば少なくとも水は確保できる。とにかく歩けるだけ歩いて木の実など食べられるものを確保しよう。疲れた頭でぼんやりとそう考え、カイルは重い足を引きずって歩き出した。
「おお!アルルパ様!」
大分陽が暮れた頃、赤毛熊の頭をぶら下げて村に帰ってきたアルルパを見て、皆は歓喜の声を上げた。
「なんと!赤毛熊を狩って来られたのですか!?素晴らしい。流石はグリア様のご子息にしてガイアス様の弟君!」
村の有力者たちがこぞってアルルパを誉めそやす。しかし当のアルルパは不機嫌な様子のままぶっきらぼうにその者達に尋ねる。
「他の者はどうした?」
「は、それが二名は無事獲物を仕留めて戻ってきたのですが、後は……。実は戻っておらぬうちのベルガはその……死体で見つかりまして」
族長家に仕える有力者の一人が沈痛な面持ちで答える。
「そうか……。死因は?」
「恐れながら、傷の状態から見て猛獣、それも赤毛熊に襲われたものかと。発見場所がここに比較的近い場所だったものですから、今村では大狩りの準備をしておりまして」
「その必要はない。ベルガを殺した赤毛熊は恐らくこいつだ。村の近くで見つけ、奥まで追って行って仕留めた」
「左様ですか!いや、流石はアルルパ様。犠牲になった三名も少しは浮かばれましょう」
「三名だと!?」
「はっ。実はベルガだけでなく、監督者二名も近くで死体で見つかりまして。同じ赤毛熊にやられたものかと……」
「ちっ!もっと早く俺が見つけておれば……。いやしかし……」
「何か?」
「何でもない。それでカイルは?戻っておらぬか?」
「はい、カイルは帰っておりません。捜索隊を出そうと思ったのですが、近くに赤毛熊がいるとなると迂闊には立ち入れませんので。まさかアルルパ様が仕留めておられたとは思わず、申し訳ございません」
「そうか……今からでは探しにも行けぬな」
「は、夜の森は危険でございます。さらなる遭難の恐れもありますれば……」
「わかっておる……他の監督者は無事であったのか?」
「は、それなのですが少々奇妙でして」
「奇妙?」
「はい、犠牲になった二名のほかは森の入り口に配置されていた一名しか確認されておらぬのです。村の誰に聞いても監督者として森に入ってはおらぬと……」
「何だと!?どういうことだ!?」
「それがどうにも……監督者の手配はバノア様が行うと先日申されまして、全てお任せしておったのですが……」
「バノアが!?奴はどこだ?」
「それが先ほどから姿をお見かけしておりませんで。村中大狩りの準備で大わらわだったものですから」
「くそっ!わかった。その首を祭壇に捧げておけ!それで大狩りは中止させろ。俺はバノアを探す」
赤毛熊の首を放り出し、アルルパは憮然とした表情で歩き出した。やはり森に監督者はいなかったのだ。あまりにも不自然な場所での赤毛熊との遭遇といい、今年の「成年の試練」はどこかおかしい。アルルパはバノアを問い詰めるべく、村中を探し出した。
すっかり日は暮れ、森は闇に包まれていた。もうどれくらい歩いたろうか。あてもなく川沿いをさまよったカイルは疲労と空腹でついに倒れこんだ。ここまで食べられそうな木の実は見つからなかった。川にも魚の姿がまるでない。幸い獣の襲撃がなかったので無事にここまでやって来れたが、もう体力の限界だった。
「あれは……」
川と反対の木々が生い茂る方をぼんやり見つめていたカイルは闇の中に白い物体を見つけ、ふらふらと近づいていった。霧はすっかり晴れ、満月が地上を照らしているせいである程度の視界は確保されている。
「……結界?」
それは木々の間に張られた麻縄だった。何本もの木に渡って、それがずっと横に伸びている。その縄には等間隔で白い獣の羽で作った飾りのようなものが垂れ下がっており、尋常ではない雰囲気を醸し出していた。カイルは依然修練場で聞いたことを思い出し、震えあがった。これは禁断の地に入らぬよう司祭長を中心とした村人が張った結界だった。村の者はこの縄の先に行くことを固く禁じられている。今朝も注意を受けたばかりだ。禁断の地、通称「白の谷」には決して立ち入ってはならぬというのが絶対的なリザド族の掟なのだ。
「そんな……ここは……」
疲労と絶望感で周囲の様子をよく観察する余裕がなかったが、見れば川の両側は木々が手前から奥に行くにしたがってその標高を上げている。つまりこの川は森の谷間を流れているのだ。そして修練場で習った森の全体図ではこの川は結界の外まで流れている。この結界の向こう側が村の方向なのは間違いない。つまりカイルは知らず知らず結界の外に出てしまっていたのだ。ここが禁断の地、「白の谷」なのだ。
「あ、ああ……」
ほんの僅か残っていた希望の灯が完全に吹き消されるのをカイルは感じた。試練に失敗し、宝刀を紛失し、その上さらに禁断の地に立ち入ったとなれば、もう処刑を宣告されても仕方がない状況だ。もう絶対に村には戻れない。その想いがカイルから最後の力を奪い、大粒の涙が溢れだす。
「お姉ちゃん……」
せめて最後にもう一度だけ姉パネラの顔が見たかった。しかしそれはもう叶わない。罪人となったカイルが村に戻れば姉にも迷惑をかけることになるだろう。もう自分はここで朽ち果てるしかないのだ。
ザアアアッ
どれくらいそこにいただろうか。いつの間にか雲が月を隠し、辺りは真っ暗になっていた。そしてついに雨が降り出し、呆然とその場に座り込んだカイルを容赦なく打ち付ける。
もう雨に濡れることなどどうでもよかったが、それでも徐々に強くなる雨脚にカイルは耐え兼ね、よろよろと立ち上がった。森の中に入れば少しは雨をしのげるかと思い、歩き出そうとしたその時、視界の端に何かの光を捉えた。
「……?」
そちらを振り向いたカイルは不思議なものを見た。川の対岸、崖の下の一部に木々が途切れ岩がむき出しになっているところがありその一部が淡い光を放っているのだ。川に入ってよく見ると、そこは洞窟だった。岩肌にぽっかりと大きな穴が口を開け、その奥から光が漏れ出ていたのだ。カイルは川辺にあった枝を拾い、それを突きながら暗闇の中慎重に川の中を進む。この辺りは水深が浅く、歩いても渡れそうだ。洞窟の中ならとりあえず雨はしのげる。カイルはゆっくりと川を渡り切り、洞窟に近づいた。やはり奥から光が漏れている。禁断の地であるこの場所に何故?不思議に思いながら恐る恐るカイルは洞窟の中へ足を踏み入れた。入り口辺りは大人が立って歩ける程度の高さの道になっており、特に何の変哲もない岩壁が続いているだけだ。カイルは意を決し、さらに奥へ歩を進めた。徐々に光がはっきりとしてくる。
「うわっ!」
しばらく進むといきなり洞窟の奥に広大な空間が現れ、カイルは叫び声を上げた。そこは高さ十メートル以上の巨大なドーム状の広場のようになっている。そしてその最奥の壁に見たこともない巨大な物体があった。赤毛熊などとは比べものにならない。しかもそれは人の形をしていた。そして何よりカイルを驚かせたのはその材質だった。人間や獣とは明らかに違う硬質な体。強いて言えば宝刀のそれに似ている。初めて見る巨大な鉄の塊にカイルは圧倒され、言葉を失う。
これがカイルの運命を劇的に変える鉄の巨人、「三本角の執行者」との出会いであった。