第2話 姉が嫁ぐ日
カイルが仕事を終えて帰ると、珍しいことに姉のパネラが待っていた。いつもならパネラの方が帰宅が遅くなるのだ。
「あれ?お姉ちゃん早かったね」
「ええ。……あのねカイル。急なんだけどお姉ちゃん明日ガイアス様の所に行くことになったの」
「ええ!?」
カイルは驚きのあまり心臓が止まるかと思った。第五夫人として嫁ぐことはようやく納得したが、明日とはあまりにも早い。族長継承の直後で忙く、まだ当分先ではないかと勝手に思っていたのだ。
「そんな……早すぎるよ」
「ごめんなさい。せめてカイルの『成年の試練』が終わるまでは一緒に居たかったんだけど……ガイアス様のご意向なの。許して」
「お姉ちゃん……」
パネラの悲しそうな表情を見ると、カイルもそれ以上何も言えない。パネラも一人で嫁いでいくのは心細いだろう。まして相手は族長とはいえ、ほとんど接したことのない男性なのだ。
「わかったよ、お姉ちゃん。心配しないで。試練を達成すれば大きな狩りに参加して分け前も貰えるし、お屋敷の仕事も手当が頂けるようになる。何とかやっていけるさ」
「ありがとう。いい子ね、カイル」
「やめてよ。僕ももう『成年の試練』を受けるんだから。……お姉ちゃんも元気でね」
「ええ、大丈夫よ。それにもう会えなくなるわけじゃないわ。祭りなどの時は一時的に帰ることも出来るそうだし」
「うん」
「それでね、せめてカイルのためにと思って……これを受け取って」
「これは!?」
パネラが差し出したものを見て、カイルは驚いた。それは真新しい革製の靴で、ひざ下までを覆うようになっている立派なものだった。
「ガイアス様に嫁ぐお祝いにね、サルフィさんが何か作ってくれると言ってくれたから、お願いしたの。大きさは合っていると思うんだけど、履いてみて」
「あ、ありがとう」
カイルは興奮しながら靴を受け取り、足を通す。
「うん、ぴったりだよ!本当にありがとう」
「森で狩りをするのに草履のままじゃ危ないと思って。よかった、ちゃんと履けて」
「僕、頑張って必ず狩りを成功させるよ。お姉ちゃんに心配かけないように」
「ありがとう。頑張ってね」
優しく微笑むパネラに決意を新たにし、カイルは新品の革靴を撫でた。これからは一人で暮らしていかねばならない。そのためには「成年の試練」は何としても達成しなければ。
「少し早いけどご飯にしましょうか。お祝いをもらったから今日はごちそうよ」
二人は近所の人たちからもらった滅多に口にできない肉や川魚に舌鼓を打ちながら談笑した。カイルが小さいころの話やパネラが勤め先で体験した面白い出来事など、時の経つのを忘れ、いつまでもおしゃべりを続ける。最初は笑っていたカイルだったが、夜が更けるにつれ、自然に涙が溢れてきた。
「カイル……」
「あ、あれ、変だな。ごめんね、お姉ちゃん」
「私の方こそ……ごめん、ごめんねカイル」
パネラの目にも大粒の涙が溢れ、カイルはもう我慢が出来ずに滝のように涙を零しながら姉の胸に抱きつく。
「寂しい……寂しいよ、お姉ちゃん」
「カイル……」
堰を切ったように涙が流れ、大声でカイルは泣いた。それを優しく抱きしめるパネラも溢れ出る涙を止めることが出来なかった。
「ごめんね。こんなんじゃ安心してお嫁さんにいけないよね」
姉と過ごす最後の夜。カイルは久しぶりにパネラと抱き合って寝ていた。優しく抱きしめてくれるパネラの温もりが心地よい。
「ううん、突然だったから仕方ないわ。私自身もまだ心の整理がついてないもの」
「いつガイアス様からお話があったの?」
「三日くらい前かしら。グリア様の誕生日のお祝いのお手伝いをしていた時に、ガイアス様のお付きの方から突然。びっくりしたけれど、グリア様がガイアス様に族長を譲るおつもりだろうというのは皆が噂していたし、せっかくのおめでたい時にとてもお断りは出来なくて」
たとえ祭りの時でなくても、族長の息子の命令に逆らえるはずもない。カイルがまだ試練を受けるような歳でなかったらいくらかの猶予をお願いできたかもしれないが。
「そうか。でも本当に急だよね」
「エリーの話ではガイアス様のご婦人のどなたかが体調を崩されて、家に帰されたらしいの。私はその代りなのかもね」
エリーはパネラの友人で噂話が大好きな女の子だ。オルカの姉でもある。
「ふうん」
大好きな自慢の姉が誰かの代わりに嫁がされるなどいい気分ではないが、文句を言っても始まらないし、そもそも言えるはずもない。もやもやした気持ちを押し殺してカイルは口を噤んだ。
「さあ寝ましょうか。明日はガイアス様のお屋敷から迎えの方が見えるわ。カイルも明日は仕事に行くのを遅くしてもいいって。先方の家にはお伝えしてくださっているそうよ」
今日仕事を終えて帰るときは何も言っていなかったので、その後にガイアスの使者が来たのだろう。カイルは頷き、パネラの胸に顔を埋めて眠りについた。出来る事ならこのままずっと朝が来なければいいと
願いながら……。
翌朝、簡単な朝食を終え、パネラが身支度を整えた頃、ガイアスの所から迎えの使者がカイルの家にやってきた。族長家から下賜された見事な衣装に着替え、パネラが静かに家を出る。家の周りには近所の知り合いたちが集まって来ていた。
「まあ、なんて綺麗な!」
「本当!族長様のご婦人にふさわしいわ」
華美な衣装に身を包み、滅多に出来ないような化粧をしたパネラに皆が感嘆の声を上げる。確かにいつにも増して今日のパネラは美しかった。カイルは輝くばかりの姉の美しさに見惚れながら、いよいよ嫁いでしまうことにたまらない寂しさを感じていた。
「参りましょう、パネラ殿。ガイアス様がお待ちかねです」
使者の言葉に頷き、パネラは家の入り口に佇むカイルに目をやる。
「それじゃ行ってくるわね、カイル。……元気でね」
「うん……お姉ちゃんも」
涙が溢れるのを必死に堪えながらパネラが微笑む。愁いを帯びたその微笑は例えようもなく美しく見えた。
カイルも必死に泣くのを我慢し、姿が見えなくなるまでずっとパネラを見送った。そして近所の者たちが去り、独りきりになって初めて、カイルは泣いた。これで最後だ。もう決して泣かないと心に誓いながら、カイルは拳を握りしめてひとしきり泣き明かした。
「ふう……」
修練場の一角、弓の稽古場でカイルは大きく息をついた。パネラが嫁いだ翌日、修練場の教官からついに「成年の試練」の日にちが告げられた。試練を受けるものは日程が告げられた時から全ての仕事を免除され、狩りの練習をすることが許される。カイルも連日修練場に通い、弓や短刀の稽古を続けていた。ただでさえ武器の扱いが上手くないカイルが試練を突破するには人一倍の努力が必要だ。嫁いだ姉に心配をかけないためにも、どうしても狩りを成功させねばならない。
「矢をもう少し軽くした方がいいかな」
先ほどから的の中心にどうしても当たらない矢を見つめながら呟く。狩猟用の弓は基本的に専門の職人が作る。腕の立つものは自分専用の物を注文することも多いが、カイルのような少年たちは工房で大量に作られる(といっても手作業なので数に限度はあるが)弓を支給される。矢も同じように工房で作られるものが大半だが、自分で手作りするものもいる。特に名手と呼ばれるものは自分なりの工夫を凝らすものがほとんどで、その細工は他人には決して教えようとはしない。力が弱いカイルには支給の弓の弦は固く、十分に引くことが出来ない。その分当然飛距離は落ちるわけで、それを矢を軽くすることで少しでもカバーできないかと考えていた。
「ん?」
あれこれ考えを巡らせていると、修練場の反対側から物音がすることに気付き、カイルはそちらを見やった。今までは的に集中していてその音に気付かなかった。気が付くともう陽はすっかり傾いている。さっきまではカイルと同じく今年試練を受ける少年たちが一緒に鍛錬をしていたのだが、もう周りに人影はない。
「誰かまだいるのか」
音が聞こえてくるのは短刀の練習場の方だ。矢が命中しても猛獣は完全に沈黙するとは限らない。仕留めたと思って近づいたら襲ってくることも十分考えなければならず、とどめを刺すための短刀の扱いは狩りには必須だった。
『あれは!』
音のする方に足を向け、邪魔をしないようこっそりと様子をうかがおうとしたカイルは思わず声を上げそうになった。薄暮の中で見えづらいが、目を凝らすと漆黒の肌を持ったカイルと同じくらいの人影が素早く動き回っているのが判る。さらに目が慣れてくると、その人物の顔に見覚えのある痣が見えてきた。
『アルルパ様……』
それは族長の末子、アルルパだった。必死に短刀を握り、藁で出来た獣を模した人形に切り付けている。暗くて表情までは見えないが、鬼気迫る迫力というものが離れていてもひしひしと感じられた。
「やっぱりすごいな」
カイルはアルルパの気迫を感じながら呟いた。アルルパは族長の息子という立場にふんぞり返っているだけの少年ではない。武具の扱いも体術もカイルとは比べものにならないほど達者で、修練場でもいつも教官に褒められているが、その陰で彼が必死に努力しているのをカイルは知っていた。なかなか上達せず居残りで練習をすることが多かったカイルは、何度も人目に付かないような場所で鍛錬を積むアルルパの姿を目撃していた。一度見つかってしまったときは絶対に誰にも言うな、と脅された。自分が努力していることを知られるのを何よりも嫌ったのである。
『あのアルルパ様でもこんな時間まで必死に鍛錬してらっしゃる。僕ももっともっと頑張らなければ』
アルルパに気づかれないよう弓の稽古場に戻り、カイルは決意を新たにした。