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青春のなかの人々

作者: スズキ



 二週間前、昇進したばかりの私に、会社から出張を命じられた。私が勤める大手電機メーカーの所有する、地方にある液晶パネル工場の視察が私に与えられた仕事だ。生産効率の向上に繋がる新技術を取り入れるための調査の一環として、生産ラインの視察をせよとのことだった。


 行き先を上司から聞かされたとき、私はしばらく呆然とした。


 その工場があるのは、私のかつての故郷だったからだ。



 東京から新幹線に乗ったのち、何本か電車を乗り継ぐと、私の故郷にたどり着いた。その町は私が暮らしていたころの面影こそ残ってはいたものの、大きな変貌を遂げていた。


 商店街があった駅前の光景は、ショッピングモール、アミューズメントパーク、シネコンなどの商業施設が立ち並び、今では多くの人々が行き交うメインストリートとなっていた。八百屋、魚屋、昔ながらのおもちゃ屋といった個人経営の店はすべて消え去り、中央の大通りだけがその原形を留めていた。


 私が駅のロータリーに停まっていたタクシーに足を向けたとき、近くにいたスーツ姿の男性がこちらのほうに駆け寄ってくると、「すいません」と私に声をかけてきた。


「失礼ですが、アルファ・エレクトロニクス本社の松浦まつうら淳平じゅんぺいさんでしょうか?」


「ええ、そうですが。あっ、もしかしてあなたは工場の……」


「はい、品質管理部の戸村とむらと申します。遠路はるばるご苦労様です。近くに車を停めてありますので、それで工場までお送りします」


 戸村は私より少し年下にみえる男だった。コインパーキングに停めてある彼の車に乗って、我々は郊外にある液晶パネル工場へと向かった。


 窓の外を眺めながら時の移り変わりを実感している私に、運転席の戸村が話しかけてきた。


「聞きましたよ、こちらのご出身だそうですね」


「中学二年生の時までですよ。三年生になる前の春休みに、父の転勤で東京へ引っ越したんです。それ以来ですよ、ここに来たのは」


「失礼ですが、おいくつですか?」


「先月に三十四になりましたが、それが何か?」


「ええと、中学二年生が十四歳だから……あっ、ちょうど二十年ぶりの里帰りってことじゃないですか」


 いわれてみれば、その通りだったのだ。この町を離れて二十年、そんなに時間が経ってしまったのかと時の流れに驚くばかりだ。


「それでどうです、二十年ぶりの故郷は。ずいぶんと様変わりしているでしょう」


「ええ、まったく変わってしまいましたね。あの頃は空き地がたくさんあって、そこで友達とよく野球なんかしていたものなんですが、今じゃどこも何かしらの建物が建っている」


 戸村にそう話していると、車の窓から小学校の校舎がみえた。それは私の通っていた小学校の校舎だった。しかしこの建物も昔と違って、屋根には青いソーラーパネルが取り付けられていた。その光景を見て、私は溜息をつかずにはいられなかった。


 やがて郊外に出ると、目の前には古くからある水田が広がっていた。ようやく昔と変わらない風景をみつけることが出来てほっとしていると、それらに溶け込むように大きな白い建物が建っているのがみえた。建物の上のほうには、”Alpha Electronics”と紺色のフォントで会社のロゴが書かれていた。


「あれが工場です。けっこう見栄えがいいでしょう」


 戸村は工場の駐車場に車を停めると、私を建物へと連れていった。すると入り口では会社のロゴが入っている作業服を着た、私より年上の男性が佇んでいた。


「工場長。こちらが本社の松浦さんです」


 戸村が男性に私のことを紹介した。工場長と呼ばれた男性はそれを聞くと、私に微笑んで握手をした。


「工場長の永瀬ながせです。今日は遠路はるばるお疲れ様です……戸村君、君は先に戻っていてくれたまえ」


 戸村は永瀬に向かって、了解ですと返事をして工場の中に入っていった。


 名刺交換といった一通りの挨拶を終えると、工場長の永瀬は私を工場のなかへと案内した。


「最近は生産ラインがフル稼働で大変ですよ。なにしろ五年後に地デジ化への完全移行が控えているいま、テレビはここ何十年で一番の売り時ですからな。いくら製造しても物足りない」


「まったくです。だからこそ、製造効率化の調査のために私がここへ来たわけです」


 廊下の窓ガラス越しには、ベルトコンベアの上に運ばれているディスプレイを、作業着を着た社員たちが一台一台動作確認をしているのがみえた。


 建物の奥のほうにあるオフィスを通り抜けて工場長室に入ると、中には私と同じくらいの年頃の、これまた作業着を着ている男性が居た。部屋の中に入ると、男性は私のほうをみた。


「工場長、そちらが本社からお越しになった……?」


「松浦さん、彼は副工場長の伊藤いとう君です。伊藤君、こちらは本社からお越しになった松浦さんだ」


「本社の松浦です」


 伊藤と呼ばれた男に私は名刺を渡すと、彼は名刺をみて眉をひそめた。


「どうかなさいましたか?」


 私がそう訊くと、伊藤は私の顔を凝視した。


「あの、もしかしてあなたは、中学校で僕の同級生だった松浦淳平くんではありませんか?」


「えっ……?」


 そう声を漏らした時、私の頭の中で青春時代の記憶が断片的に映し出された。そのなかにはクラスの全員から好かれている、人望のある少年の姿があった。


「もしかして、二年三組で学級委員をしていた、伊藤いとう亮輔りょうすけか?」


「ああ、そうだよ。その伊藤亮輔だよ」


 亮輔は満面の笑みを浮かべると、私の手を握った。


「久しぶりに会えて嬉しいよ。いったい何年ぶりだろう」


「ちょうど二十年ぶりさ」


 再会を喜ぶ私たちをみて、工場長の永瀬はぽかんとした顔を浮かべた。


「どういうことです、こりゃ?」


「工場長、彼は僕の中学校時代のクラスメートでしてね。三年生になる前に転校してしまったのですが、今日はこうやって偶然再会できたわけですよ」


 亮輔が永瀬にそうやって説明すると、彼は「なるほど」といって、ぽんと手を打った。


「しかし老けたね、淳平」


「それはお互い様さ。鏡を見ろよ、髪の毛のあちこちが白くなっているぜ」


「そういう君も、顔に何本もしわができているんじゃないか?」


 そうやってお互い笑いあっていると、亮輔が私に提案をしてきた。


「なあ、仕事が終わったら飲みに行かないか。それも、昔の友達を誘えるだけ誘ってさ」


「それはいい考えだ。しかし、急に今日集まれといって、みんな来てくれるだろうか」


「どうだろうね。聞くだけ聞いてみるよ」


 それから半日たって出張初日の仕事を終えた私は、宿泊するビジネスホテルに荷物を置いて一休みをした。


 私がベッドの上で横たわっていると、私の携帯に亮輔からメールが来た。


 それを読んだ私はタクシーを呼んで、駅前にある商業ビルへ向かった。亮輔曰く、そこの屋上にあるビアガーデンで集まって、食事をするということだ。


 ビルのエレベーターで屋上に上がると、なにやら香ばしい匂いが漂ってきているのを感じた。辺りを見回すと、間接照明であたりが照らされているなか、人々がテーブルを囲んで食事をしていた。彼らはいったい何を食べているのかだろうとじっくり見ようとすると、誰かが私に後ろから声を掛けてきた。


「おい、もしかして淳平じゃないか?」


 私は振り返って声の主のほうを見ると、そこには体格のいい、日焼けをした男が立っていた。


「俺だよ。覚えているか? 岩田いわた陣斗じんとだ」


 彼の彫りの深い顔をしげしげと眺めていると、私の頭のなかに再び、懐かしき日々の映像が流れた。そのなかでは体育祭のリレーで、アンカーで走る大男の姿があった。


「ああ、今思い出したよ。体育祭のリレーで独走していたけれど、ゴールの手前で思いっきり転んで見事ドベになった陣斗だろう」


「わっ、馬鹿っ」


 陣斗は顔を赤くすると、岩のように固い拳で私の頭をぐりぐりと擦りつけてきた。


「くそっ、俺の人生でいちばんみじめだった瞬間を、よくも思い出させてくれたなっ」


「いててっ、人にからかわれると頭をぐりぐりする癖、今も直っていないんだな」


「うるさいっ」


 そうやって私たちがじゃれ合っていると、「やあ」といって主催者である亮輔が我々の前に現れた。それも工場で見た作業着ではなく、れっきとしたスーツ姿で。


「おう、急に呼び出してきた主催者様じゃないか。おかげで仕事を早く切り上げるのに苦労したぜ」


 陣斗が嫌味をたっぷり含んだ口調で亮輔にいった。


「仕方ないだろ。淳平が戻ってくるなんて今日まで知らなかったし、それに加えて、明日には東京へ帰っちゃうんだから。メールで書いただろ? こういった集まりを開くには今日しかなかったんだ」


「へっ、それはそうだがな」


 私たちは亮輔が予約した席に座り、くつろぎながらほかの面子が来るのを待った。


「本当は大勢に集まってほしかったんだけどね……いかんせん平日の夜だし、それに二十年も経つと、連絡が途絶えちゃったやつも結構いるんだよ」


 そう話す亮輔の表情は、どこか寂しげだった。哀しいことに、少年時代の友人全員と二十年以上ずっと親しく付き合い続けるというのは、ほとんど不可能に近い。私が東京に引っ越した後にも友人は大勢できたが、彼らの中にいまだに付き合いのあるやつはいるし、逆に今どうしているかも判らないやつもいるのだ。


「ともあれ、俺のために来てくれる連中が居るのはとても嬉しいよ。あとは誰が来るんだい?」


「あと四人来るけど、誰が来るのかは内緒」


「会ってみてのお楽しみ、ってわけか」


 そう話していると、我々の目の前で少しぽっちゃりとした体形の女性が、こちらに手を振りながら現れた。


「わーっ、ほんとに淳平だっ。久しぶり! あたしのこと覚えてる?」


 女性は私にそういってきたが、今度は亮輔や陣斗のようにすんなりと思い出すことが出来なかった。


 はて一体誰だろうかと頭を悩ませていると、隣にいる陣斗が私に耳打ちをした。


草薙くさなぎかえでだよ」


「草薙楓……?」


 私は記憶を掘り返して、そのなかの草薙楓という少女の姿を探し出した。しかし、目の前の女性と違って、私の記憶のなかの草薙楓は、すらっと痩せていたのだ。


「嘘だろ」


「嘘って、どういうこと?」


 楓は私のほうを見て、ぽかんと間の抜けた表情をしていた。昔に較べてずいぶんとむくんでしまっているが、その顔、表情は間違いなくあの草薙楓のものだった。


「ああ、いや……なんでもないさ」


 いくら旧友とて、女性に「ずいぶん太ったな」という気にはなれなかった。


「とにかく、久しぶりだね。草薙さん」


「ありがと。いまは草薙じゃなくて、細村ほそむらなんだけどね。結婚したからさ」


 そう笑って応える楓の左手の薬指には、銀色に輝く輪があるのがみえた。


「結婚、か」


 そう呟く私に、陣斗が反応した。


「どうしたんだよ、急に」


「いや、みんな結婚したんだなって思ってさ。陣斗だって、結婚指輪を付けているだろ」


「おまえだって同じじゃねえか」


「それはそうだけど、あの無邪気で、生意気なガキ達が結婚したっていうのが、なんだか奇妙な気がしてね」


「馬鹿野郎、二十年も経っているんだぞ。いつまでも無邪気で生意気なガキでいられるかってんだ」


 そういうと陣斗はまた私の頭に拳を擦り付けた。その様子をみて、向かい側の席にいる楓はクスクスと笑っている。そんな彼女に亮輔が話しかけた。


「それにしてもよく来てくれたね。子どもがふたりもいるのに、家を空けて大丈夫だったの?」


「大丈夫よ。義母に頼んで、代わりに子どもたちの面倒を見てもらっているから」


「それ、あとで嫌味をいわれるやつなんじゃないか?」陣斗が意地悪な口ぶりでいった。


「あははは……ないって、そんなの! あたし、あの人とはすんごく仲いいんだから」


 そうやって楓は陽気に笑いながら両手をパンパンと叩いた。思えば、中学校のときも彼女は誰ともすぐ仲良くなれるような女子だった。


 するとまたひとり、私たちの前に招待客と思わしき男性が現れた。彼はかなりの美形で、顎髭を生やし、耳にピアスを付けて、遊び人のように派手な風貌をしていた。


「やあやあ。なんだかみんな楽しそうじゃあないか……おっ、久しぶりだな、淳平。元気してたか?」


 男性はにこやかに私に握手を求めた。彼が誰なのかはすぐに判った。容姿こそいくぶんか変化しているものの、彼は中学生時代とまったく同じ雰囲気を纏っていたからだ。


「ああ、おまえも相変わらず元気そうだな、達也たつや


 天杉あますぎ達也たつや、彼はずいぶんと女子にもてる男だった。彼に告白するために、他のクラスの女子だとか、後輩だとかがよくクラスに来た覚えがあった。恐らく、私たちがみたそれらはほんの一部で、知らないところで達也はもっと多くの告白を受けたのだろうが。


 もっとも、彼はそれらの申し出を全て断って高校に通っている先輩と付き合っているとのことだったが。いや、アパートの隣の部屋に住んでいる一人暮らしの女性だったかな? 待てよ、近所に住んでいる人妻と関係を持っているという話だったような――


 ふと思ったことがあった私は、達也の左手の薬指に目を向けた。そこに指輪だとか、そういったものは着けられていなかった。


「どうしたんだよ、淳平。俺の手元をじろじろ見たりしてさ」


「いや、ちょっと思ったことがあってだな……おまえは結婚していないのか、達也」


「そうだね。今のところは」


 やっぱりか、と私が思わず口にすると、達也は「やっぱり、ってなんだよ」といいながら楓の隣の席に座った。


「そりゃあおまえ、女とはたくさん付き合っても、結婚はしないなんて性質だと思っているってことだろう」


 陣斗が腕を組みながら、達也に対してぶっきらぼうにいった。


「当り前じゃないか……俺は不思議でならないよ。どうしてみんな結婚なんて、余計な荷物をしょいこむような真似をするんだ? なあ、亮輔?」


「えっ、僕かい?」


 突然話を振られた亮輔は、とぼけた声を出した。


「亮輔、おまえ、まだ結婚してなかったのか」


 私は亮輔に訊いた。


「うん、そうだね。仕事しかしていないせいか、なかなかいい出会いを見つけることが出来なくってね……」


「いいじゃない、仕事熱心ってことなんだから。あたしは達也みたいなやつより、亮輔みたいなひとのほうがずっといいと思うよ。もっとも、あたしの旦那ほどじゃないけどね」


 楓はそういって笑いながら、亮輔の肩を叩いた。


「それよりあたしは、暴れん坊で落ち着きのない陣斗が、きちんと結婚できていることに驚いているんだけど」


「なんだと、どういう意味だ」


 陣斗が、がっ、と音を立てながら身を乗り出すと、楓に対しさきほど私にやったように頭を拳でこすりつけた。


 その光景を見ながら中学生時代のようにげらげらと私たちが笑っていると、席の近くに紺色の薄いフレームの眼鏡を付けた、痩せぎすの男性が静かに佇んでいた。彼は眼鏡の奥からこちらに向けて、突き刺すような鋭い視線を飛ばしていた。


「どういう状況なんだ、これは」


 男性が首をかしげながら無機質な冷たい声を発すると、それを聞いた亮輔がくるりと男性のほうに顔を向けた。


「やあ、啓太けいた。そんなところに突っ立っていないで、座りなよ……彼を覚えているかい、淳平。八坂やさか啓太けいただよ」


「八坂啓太というと……ああ、定期試験でいつもクラス一位だった啓太か!」


「そうだ。ついでにいえば、いつも試験前に泣きそうになっていたおまえたちにわざわざ自分の時間を削ってまで丁寧に勉強を教えてやった、感謝すべき恩人でもある」


 啓太はぶっきらぼうにそういうと、陣斗の隣に座った。その光景をみて眉をひそめた達也は、彼に向かって苦言を呈した。


「啓太、おまえ、いまでもそんなすかした性格しているのかい。いつまでもそんな調子でいちゃあ、女にもてないぜ。ふつうはそれだけ頭が良けりゃあ、女ならいくらでも寄ってくるのに」


「俺は女にもてるために勉強をしていたわけじゃないからな。それに、頭が悪くても女にもてる人間がいることは、達也、おまえが証明しているだろう」


 啓太が昔から全くセンスの落ちていない皮肉をいい放つと、達也は露骨に嫌な顔をした。その様子をみて、陣斗は笑いながら啓太の背中を叩いた。


「そんなことをいっておいて、自分から進んで俺たちに勉強を教えたり、今夜もわざわざここに顔を出してきたんだから、まったく素直じゃない奴だぜ、おい!」


 がはははは、と笑う陣斗に向かって、啓太は顔を赤くして「うるさいっ」と叫んだ。


「とりあえず、これで六人集まったわけだね。となるとあとひとり来るわけだけど……ねえ亮輔、そのひとりは一体誰なの?」


 楓が亮輔に向かっていった。


「じきに判るよ……おっと、噂をしていたら来たみたいだね」


 亮輔がそういったのを聞いて、私はこちらのほうに向かって女性が歩み寄ってきているのに気が付いた。店の間接照明に照らされる彼女の姿をみて、私は自然と彼女の名前を口に出してしまった。


「……ゆたか


 私がそうやって呟くように呼ぶと、宮崎みやざきゆたかは私に向かって微笑みを浮かべた。


「久しぶりだね、淳平。それにみんなも」


 豊がそういうと、楓が席から立ちあがって豊に抱きついた。オーバーな喜びの感情をあらわにする楓に向かって、豊は苦笑を浮かべた。


 私は豊の手元を見た。彼女の左手の薬指には、銀色の指輪が輝いていた。


 参加者が全員集まったところで、私は改めて全員から帰郷を祝われた。そして我々のテーブルには大鍋に盛り付けられたパエリアを中心としたスペイン料理と、ワインが運ばれた。


 パエリアの海鮮とニンニクの風味に味覚を刺激され、夜空のもとでアルバリーニョを飲みながら私たちは互いにこの空白の二十年間に起こったことを話し始めた。


 ちょうど私がこの町を出たタイミングで市街を中心に再開発が行われたことだとか、母校である中学校からプロ野球選手を輩出したといった話題が出るなかで、特に私を驚かせたのは陣斗が教師になったということだった。


「中学校の体育教師だって?」


「何だよ。俺が教師になっちゃ悪いか」


「……嘘だろ」


 愕然とする私をみて、啓太が冷ややかに笑った。


「皮肉なものだよな。いつも教師を困らせていた陣斗が、いまは生徒に困らせられる側に回っているんだから」


「どうしておまえはいつも余計なことをいうかな」


 陣斗が酒くさい息を吐いた。


「そんなんだから、カミさんに浮気されるんだぞ」


 陣斗がそういったとき、啓太の肩がビクッと震えた。


「そ、その話は関係ないだろうっ」


 動揺する啓太の姿をみながら、私は更に困惑した。その様子を見ながら、向かい側の席にいる楓は苦笑していた。


「啓太はね、三年前にお見合い結婚をしたんだけど、奥さんが若い男に走っちゃってねえ。だけどその奥さんというのが会社のお偉いさんの娘さんなものだから、離婚しようにもできなくて、苦労しているんだってさ」


「うるさい、余計なことを喋るなっ」


 啓太は顔を真っ赤にしながら怒鳴った。そこに持ち前の冷徹さはなかった。


「俺のいった通りだろう。結婚なんて、しないのがいいのさ」


 達也は屈辱に震える啓太をせせら笑ったが、楓がそんな達也を叱咤した。


「あのねえ、あんたはそんなんだから、薄っぺらい恋愛しかできないのよ」


「ふうん、そういうあんたらはちゃんとした恋愛が出来ているっていうのかい」


「出来たから結婚したのよ。豊だってそうでしょう?」


「えっ……わたし?」


 私の隣でワインを飲みながら静かに話を聞いていた豊は戸惑った。


「それはまあ、そうだけどね」


 豊はぎこちない笑みを浮かべると、私のほうを一瞥した。


「ねえ、淳平は結婚……したの?」


「ああ……五年ほど前にね」


 私がそう答えると、楓が興味津々といった体で身を乗り出してきた。


「ねえねえ、どんな人と結婚したの? 東京のひと?」


「そうだね。向こうの大学で出会って、同棲して、その流れで結婚した」


「へえ、素敵な話じゃない」


「いいなあ、僕にもそういう出会いが欲しいねえ」


 私の話を聞きながら、亮輔はグラスのなかのワインを揺らした。しかし達也は彼にも辛辣なことをいう。


「やめとけよ、おまえみたいなやつはカミさんに散々利用されて、啓太みたいな目に合うのがオチだ。なあ、これが終ったら俺と一緒に風俗にでも行こうぜ。啓太も誘ってさ――」


 達也がそこまでいうと、楓が「バッカじゃないの?」と彼の頭をはたいた。啓太もそれに続いて「俺はおまえみたいな男じゃない」といい、亮輔は「夜遊びより、明日の仕事のほうが僕は大事だと思うな」と冷静な口ぶりでいった。


「なんだよ、みんな退屈なやつらだなあ」


 そういって嫌な顔をする達也に、豊は苦々しい表情を向けた。


「達也くん、そのうち夜道で女のひとに背中刺されるんじゃない……?」


 容易にその光景が頭に浮かんでしまった私は、思わず吹き出してしまった。女癖の悪い達也がそういったトラブルに遭うのは十分あり得る。


 しかし、それをいった本人は口に両手をあてて、青ざめた顔をしていた。


「急にどうしたんだ、豊。調子でも悪いのか?」


「ごめんなさい……」


「ごめんなさい? どうして急に謝ったりするんだ? なあ、みんな……」


 私はそういって周囲を見渡すと、その場にいる全員がワイングラスをテーブルの上に置き、気まずそうにしていた。


「ちょっと待ってくれよ。これはいったい、どういうわけなんだ?」


 ひとり困惑する私に、亮輔が口を開いた。


「……藤瀬ふじせ喜一きいいちのことは覚えているかい?」


「ああ、覚えているけど」


 藤瀬喜一、彼はいつもふざけたり、冗談をいったりしては周りの人間を笑わせていた男だった。


「その喜一がどうしたんだ?」


 言いづらそうにしている亮輔に代わって、楓が私にいった。


「喜一は……高校の時に交通事故で車にはねられて、死んじゃったんだ」


「えっ……」


 喜一が交通事故に遭って死んだ。それを聞いて、私の頭に突然ハンマーで殴られたような、鈍く、それでいて鋭い衝撃が走った。


「まさか」


「冗談でこんなこと、いえないよ」


 豊が私に諭すようにいった。


 にわかには信じられなかった。あの、いつも私たちを持ち前のユーモアで楽しませていた喜一が死んでしまって、もうこの世にはいないということが。私には到底受け入れられなかった。


「淳平、俺はあいつを殺したあの酔っ払いが許せんよ。喜一はこういっていたんだ。自分は憧れのお笑い芸人になって、もっといろんな人を笑わせたいとな。どう考えても、あんなところで死んでいいやつじゃなかった」


 陣斗は涙を滲ませながら私にいった。陣斗以外の面子も、沈んだ顔をして彼の話を聞いていた。さっきまでの明るかったこの場所に、重い空気が流れた。それからは誰がどんなことをいおうとも、気まずい空気が漂うだけだった。


 最後まで暗い雰囲気に包まれながら、宴会は幕を閉じた。



 ビルを出て、我々は帰路につくことにした。亮輔は近くの駅から電車で帰るという。陣斗は妻に、楓と豊はそれぞれ夫に車で迎えを頼み、啓太はタクシーで帰るといい、達也はいつの間にか私たちの前から煙のように姿を消してしまっていた。


「淳平、次におまえに会えるのはいつだろうな」


 陣斗が別れ際、私にいった。


「どうだろうな。また仕事で来るかもしれないが」


「その時は、もっと早くいってくれよ。都合つけるのも大変なんだからな」


「判ったよ。それじゃあ、また会う日まで」


「おう、じゃあな」


 陣斗は最後に私と握手をすると、彼は妻の運転する車に乗ってその場から去っていった。


 街の中でひとりになった私はホテルに戻ろうと歩き出した。すると、近くにある建物のそばで豊がひとりで佇んでいるのがみえた。


「あれ、豊じゃないか。どうしてそんなところで突っ立っているんだ?」


 私が豊に声を掛けると、彼女はゆっくりと顔をこちらに向けて口を開いた。


「ねえ、淳平。ちょっと時間ある?」


「あるけど、旦那さんが迎えに来るんじゃないのか?」


「……まだ呼んでないの」


「えっ……」


「あのね、わたし、淳平に話したいことがあるの。いい?」


「……構わないよ。それに、俺も豊に話したいことがあるんだ」


 夜の街を歩きながら、私と豊は静かに歩いた。お互い、どちらから話を切り出すべきなのか腹を探り合いながら、ゆっくりとあてもなく歩き続ける。そして、結局は豊から私に話しかけた。


「さっきはごめん。楽しい雰囲気をぶち壊しにしちゃって」


「いいや、気にしてないよ。喜一のことは残念だけれど……」


「うん……あと、遅くなっちゃったけど、結婚おめでとう」


「こちらこそ、豊も結婚おめでとう」


「ありがとう。淳平には子ども、できた?」


「ああ、女の子がひとりね。先月で四歳になった。豊のほうは?」


「男の子がふたり。上の子は今度小学校に上がるの」


「そうか。どっちもやんちゃ盛りで大変だろうな」


「うん。わたしや旦那が注意しても、なかなかいうことを聞いてくれなくて大変よ」


 そこまで話すと、再び会話が途切れてしまった。今度は私から彼女に話を切り出した。


「話したいことって、こんな近況報告じゃないだろ」


「……まあね。だけど、話しにくいんだよ」


「どうやら、話したいことはお互い一緒らしいな」


 私はその場で立ち止まると溜息を吐いて、豊の顔をみた。


「結局、うまくいかなかったな。遠距離恋愛」


 私はそういうと、思わず笑い声を出してしまった。すると、豊もそれにつられて笑い出した。


 中学二年生。ちょうど私がここを離れるまえの時期だった。きっかけだとか、始まりが何だったのかはいまとなっては思い出せないが、あのとき私と豊は密かに付き合っていたのだ。


 あれから二十年経ったいま思えば、一緒に映画館や水族館に行ったくらいで、子どものおままごとの範疇に過ぎない付き合いだった。それでも、私たちは子どもながらにお互い好きあっていたのだ。


「覚えてる? 淳平が引っ越すときに、これからはお互いに手紙を送り合おうって決めたの」


「覚えているさ。だけど、最初に何回か送っただけだったな。それからは全く音沙汰なしだった」


 なにぶん携帯電話はおろか、電子メールなんてものがなかった時代だ。いや、そういったものがあの当時あったとしても、私たちは疎遠になっていたかもしれないが。


「そうだね。それからわたし、淳平のことはだんだんと忘れていっちゃったんだよ。淳平もそうだった?」


「俺もだよ。ひどい話だよな」


「あはは、そうだね……だけど、今の旦那と出会って、結婚することになったときだったかな。実家にある持ち物を整理していたら、手紙が出てきたの」


「俺が出した手紙?」


「そう。それをみつけたとき、すっかり忘れていたはずの淳平のことを一気に思い出しちゃって、ああ、わたしは淳平に黙って別のひとと結婚しちゃうんだなって、罪悪感が押し寄せてきて……もちろん、そんなところで婚約破棄なんてできるわけがないし、そんな理由でふられたら旦那さんもかわいそうだから、結婚はしたよ。だけど、それから妊娠して、子どもが出来て、もう一度妊娠して子どもができても、心のどこかでその罪悪感みたいなものは残ったままだったのよ」


 私は豊の横顔を、静かに眺めていた。


「淳平はわたしがこうやって家庭を築いていたこと、怒ってる?」


「……まさか!」


 確かにあのビアガーデンで二十年ぶりに豊の姿をみたとき、彼女が結婚指輪を付けていたことに私は些か喪失感だとか、失望を感じていた。だが、彼女がそうなることはしごく当然のことだし、だいいち私だって新しい出会いを見つけて結婚し、子どもまでもうけているのだ。もし彼女に怒りを感じたとしたら、それは理不尽というものだ。


「確かに俺も、豊のように罪の意識を感じることがあった。妻と出会って結婚するとき、何度もおまえの顔が頭に浮かんでは、吐きそうな気分になった。だけど……」


「だけど?」


「娘が生まれたときだ。生まれたばかりで、俺の腕の中で弱々しく震えているあの子の姿をみたとき、俺はいま、目の前にいる人を愛さなきゃいけないと気づいたんだ。かつての恋人に想いを馳せるより、目の前の愛するべきひとを愛するのが、なにより大切なことなんだとね」


 私がそう話すのを聞いて、豊は口に手を当てながら微笑んでいた。


「……うん、そうだよね。淳平はそういうやつだよね」


「俺のいったこと、間違っているのかな」


「いや、間違ってないと思う。淳平がわたしより先に昔のことを振り切ってしまえたのは、ちょっと悔しいけどね」


 豊は夜空に向かって息を吐くと、微笑みながら私のほうをみた。


「ねえ、娘さんの写真は持ってる?」


「ああ、持っているけど」


「見せてよ。淳平の子がどんな子か見てみたい」


「どうして豊にみせなきゃいけないんだよ」


「いいから。携帯に入っているんでしょ?」


 私は溜息をつくと、携帯をポケットから出して壁紙にしている娘の写真をみせた。先月の誕生日で、バースデーケーキに立っているロウソクの火を、彼女が息を吹いて消しているところを撮ったものだ。


「かわいい子だね」


「そうだろう。あと、この写真をみてくれ」


 私は豊にもう一枚、携帯のフォルダに入っている写真をみせた。そこには娘が、私と妻をクレヨンで描いた絵が写っている。


「これは娘が幼稚園で描いたそうだ。どうだ、うまく描けているだろう」


「うーん、へたっぴだなあ」


「そういうことをいうな。描いてくれたこと自体が嬉しいんだから……さあ、今度はそっちの番だぞ。息子くんたちの写真をみせてもらおうか」


「はいはい、ちょっと待ってね」


 そういって豊は携帯を出して、そのなかの写真を私にみせた。公園で撮ったらしいその写真には、まだ小さな少年がグローブを嵌めて、数メートル離れたところにいる男とキャッチボールをしている姿があった。


「なるほど、このちびっ子が豊の息子で、もう一人の男が……」


「そう、この子の父親。なんでも、昔は甲子園まで行ったみたいで、いまはこの子たちをプロ野球選手にしようと熱心なのよ」


「この子たち、ってことはもうひとりの息子も?」


「うん。兄弟そろってプロ入りさせるのがこの人の夢なんだって」


「いい父親じゃないか」


「……淳平の奥さんはいいひと?」


「ああ。素敵な妻だよ。今頃、娘を寝かしているところかな」


 そう話していると、私の電話に着信が来た。発信元は妻からだ。


「電話、出ていいよ」


「いわれなくたって、そうしてるさ……はい、もしもし?」


「あっ、おとうさん?」


「おっ、広美ひろみか。どうしたんだ、夜中にお父さんに電話なんかしてきて?」


「ひろみ、おとうさんがいないのがさびしかったの。だからおかあさんにたのんで、でんわしたの。おとうさんはさびしくない?」


「そうだね、お父さんも広美がいなくて寂しいよ。明日には帰ってくるから、それまでいい子で待っていてくれよ。お母さんを困らせちゃ駄目だからな」


「うん。お父さんも、えーっと、うわき? しちゃだめだからね!」


「ははは、どこでそんな言葉を覚えたんだい? それじゃあおやすみ、広美」


「うん、おやすみ……あっ、まって、おかあさんにかわるね」


 電話の向こうで、広美から妻の真紀まきに携帯が渡された。


「もしもし……聞こえてる、お父さん?」


「ああ、聞こえているよ。なあ、今日の晩ごはんは何だった?」


「広美の希望でオムライスにしたわ。そっちは?」


「こっちにいる昔の友達と、酒を飲んだところだよ」


「へえ、楽しかった?」


「まあね。いろいろな話をしたよ」


「ふうん。帰ってきたらまたその話、聞かせてね。明日はいつごろ帰ってこられる?」


「夕方にはそっちに戻れると思うよ。夕飯には間に合うんじゃないな」


「そう。じゃあ明日の晩ごはんは、あなたの好きなハヤシライスにしてあげる」


「嬉しいね。早めに帰ってこられるようにするよ」


「気をつけて帰ってきてね。おやすみ」


「うん、おやすみ」


 そういって私が電話を切ったとき、豊は私をみつめていた。


「……ほんとうに、素敵な奥さんみたいね」


「そうだろう。こんな妻がいるんだ――浮気なんてできやしないさ」


「そうだね。もし、わたしをホテルにでも誘おうものなら、ひっぱたいてたところだよ」


 私と豊は、夜の街の中でお互いに大声で笑いあった。そのとき、幾つもの人影が私たちの目の前を横切るのがみえた。


 それをみて私は呆然とした。目の前で走っている少年たちのなかには、二十年前の亮輔、二十年前の陣斗、楓、達也、啓太の姿があったからだ。その後ろには彼らについていくように走る、今夜現れなかったクラスメートたちの二十年前の姿が――そのなかには、もうこの世にはいないはずの喜一もいた。彼らはお互いに笑いあいながら、無我夢中で走り続けている。


 そして彼らのいちばん後ろには、二十年前の私と、かつて私が好きだった豊の姿があり、彼らは私たちの目の前を通り過ぎると、そのまま夜の闇のなかへ吸い込まれるように消えていってしまった。


「どうしたの、淳平? 急にぼうっとしちゃったけど」


「……豊には見えなかったのか」


「見えなかったって、なにが」


「……いや、なんでもない」


 私はそういって豊に微笑んだ。


「そろそろ帰らなきゃいけないな。豊も、家で旦那さんと、息子くんたちが帰りを待っていると思うぜ」


「そうだね。いつまでも昔の男と話をしていちゃ、いけないよね……帰らなきゃ」


 そして豊は「今日は会えて良かった」というと、私に背を向けた。


「それじゃあ……さよなら」


「……さよなら」


 豊はあの子どもたちが走り去っていったのと同じほうに向かって歩いていった。そして次第に彼女の姿はあの子どもたちと同じように、闇のなかへと消えていったのだった。



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