15.4 「ここもこれまでのようだ」
既に陽は上っていた。
えらく久しぶりに感じるような、青い空の下だ。
海上では、水面に所々ガスが噴出し、燃えている部分がある。
沢山の救命艇が浮いている。運悪く沈没した船の漁師も、クイーン・ミステスの船員によって今まさに救助されているのだ。
キュリオスは、クイーン・ミステスの傍に停泊していた。
あれだけ派手に墜落してからあの爆発に耐えるとは。深海一千メートルの水圧にも耐えるという、操縦士の言葉は本当らしい。
オレはハッチから出るや否や、キュリオスの狭い甲板に倒れ込んだ。
他の船員も皆そうで、ノートンもへろへろに疲れ切っていた。
デッキに転がってクイーン・ミステスの左舷を見上げると、皇女様と、船長の肩に掴まるジャックが手を振っていた。
(あいつめ、ずっと死にかけてたくせに、美味しいところだけ持っていきやがって)
ふと、よく見るとジャックが何かを指差している。
ようやく聴力が戻ってくると、ジャック達は何やら騒いでいるようだ。
「オーシュ」という言葉だけ聞き取れた。
――オーシュだって!?
オレは跳ね起きた。
水面を見る。
そこにオーシュがいた。それは胸から真っ黒な器官を露出して、ぷかぷかと波に浮いていた。
オレは甲板の手摺を超えて、キュリオスの丸まった船体に立った。そこからどうにか手を伸ばし、水を掻く。
エイスや技官も手伝って、オーシュを船体の隅まで引き寄せた。
体中に酷い火傷を負った上、首元から胸までが裂けて、肋骨が開いている。
そこからべろんと黒く大きな袋のようなものが垂れ下がっていた。明らかに、普通の人間にはない器官だ。
ほんの僅かに、その器官ごと胸が上下している。
――息がある。
「浮袋だ」
そうノートンが言った。
「深海魚の器官だ。水圧に耐えるため、あの黒い力を使って体内に浮袋を作っていたのだ」
爆発による恐ろしい速度で浮上したため、急激に水圧が低下した。
そしてその器官が体を破って外に飛び出したのだ。
まだ生きてはいるが、文字通り虫の息だ。
あの爆発の最中、咄嗟に鮫に変態するのをオレは見た。あの鮫の外殻でどれだけ爆発のダメージを軽減できたかは不明だが――浮袋の破裂は、見るからに致命傷であった。
どう声をかけたらいいのか。
大丈夫か? 大丈夫には見えない。
しっかりしろ? しっかりされても困る。
でも――生きていてくれて良かった。
「ミ……ミラ……を、ここへ」
丁度ミラをハッチから搬出している船員を呼んで、彼女を手摺のところまで連れて来てもらった。
担架のベルトを外すと、ミラが力なくずり落ちる。
ミラは僅かに目を開き、そこに意識の光はない。
勿論、呼びかけにも反応がなかった。
オーシュを船体上に引き揚げ、手摺近くまで引きずってゆく。
「どうするつもりだノヴェル君。少なくとも今のオーシュに認識術は無理だ。ミラ君は……」
「わかってる。でも、呼び戻せるとしたら、こいつしかいないんだ」
***
その世界は終わろうとしていた。
「……ここもこれまでのようだ。オーシュは死ぬ」
「あたいらはどうなるんだ」
ミランダも不安そうにしている。
「消えてしまうだろうね。つくづく残念だ。中々居心地がよく、少女までいる世界なんて、そうそうないだろうに」
伽藍洞になった図書室を隅々まで見渡し、ソウィユノは言った。
「私が消えるのは構わない。いずれもう消えているべき存在、いや存在ですらない残滓なのだ」
「こっちゃ御免だ。あたいの体は生きてる」
十三番の扉からは、青い空が見えていた。
「……あの空の下にいるのに」
ソウィユノは、ミラを眺めて少し考えた。
「君は、オーシュとここを作った認識技術者なのだろう?」
それがなんだ、とミラが答える。
「ならばそう、君を助けるのは君自身なのではないかね。ここには外が見える扉もある。ここから、外にいる君自身に認識技術を使うことはできないだろうか」
「馬鹿言え。この扉はこっちからは見えるが、あっちからは見えねえだろ」
「どうしてそう思う」
「クックの眼の中に、小さいお前とあたいと、更に小さいあたいがゴニョゴニョしてるのが見えるっていうのか? そんなわけはねえだろ」
それはそうだ、とソウィユノは言う。
「だがね。認識技術というのは、魔術だ。子供騙しの催眠術のようでもあるが、それは一面の要素に過ぎず、魔力を媒介して行っている。我々は、我々の思考、ビジョン、記憶、そうしたものを魔力に乗せて映しているのだ。相手の中にね」
「……てめえが言うなら、そうなのかもな」
試してみないか、とソウィユノは微笑む。
「この扉で、外に繋がれるって言うのかよ」
いいぜ、やってやる、どうせ消えるんならな――ミラは扉を睨んだ。
そして待つ。
その瞬間を。
***
「オーシュ、お前の好きなミラだ。連れてきてやったぞ」
オーシュは、ずっと小さく唸っていた。
きっと鼓膜も破れ、オレの声は届いていない。
「お前達の罠にかかって、意識が戻らない。もうお前のものにはならないんだ。彼女の意識を、返してくれ」
頼む、とオレは、ミラを抱えてオーシュに見せた。
オーシュの瞼が、僅かに動く。
オレは、そのだぶついた瞼をこじ開けた。
「頼む!」
オーシュの眼球がぎょろぎょろと動いて――ミラを捉えた。
確かに、ミラの姿を凝視している。
彼女の、半目の更に半分ほど、どんよりと開いた目の奥を――。
突然、ビクン、とミラが跳ねた。
「ミラ!?」
「あ、あ、あ、ああああ……」
「ジャック! ノートンさん! 姫様! ミラが!!」
ミラは手を振り回し、オレの肩をすり抜けた。
崩れ落ちるようにデッキに膝をつき、髪を何度もかき上げている。
「……ここは……どこだ」
「ミラ! よかった! 話せば長くなる、まず船に」
「この……海の中を進む船か」
どうしてそれを知っているんだ、とオレは面食らった。
「……見てた。クックの中から、スティグマの野郎も、コンテナで漂流したことも、船の墓場も……」
言いながら、ミラは手摺に掴まって立ち上げり、自力でそれを乗り越えた。
クック――と船体上を這い、倒れたオーシュの傍に座り込む。
「クック、てめえ……見たぞ、お前の親父の葬式も、爺さんの船も――」
拳を作り、しかし力なく、何度もオーシュの肩を打つ。
クイーン・ミステスから縄梯子を伝ってこちらへ来る船員らがいた。
彼らは槍を持っており、オレ達のところまでやってきた。
「退いてください。勇者、高潔のオーシュを国家転覆容疑、要人暗殺未遂、戦争予備罪の現行犯で逮捕します」
「……やめろ。引っ込んでいろ!」
ミラは頭を振りながら叫ぶ。
「ミラ! そいつはもう、生きられない」
わかってる! とミラは衰弱した体を震わせて力を振り絞った。
オーシュは、ミラを指差し、続けて自らの首を指した。
「こいつは、あたいがやる」
声は震えていたが、そうきっぱりと言い放った。
ミラは槍を寄越せと手を突き出す。
ノートンは間に立って、船員に言った。
「……槍を渡してください。肺と横隔膜が完全に破壊され、出血も火傷も酷い。爆発で他の内臓もダメでしょう。あと数分も生きられない」
船員から槍を受け取り、それをミラに渡す。
ミラは槍を杖にして立ち上がった。
オーシュは顎先だけを僅かに動かし、頷く。
ミラはそれを見届け、数瞬のうちに――ざくりと槍で首を刺した。
ノートンは顔を背ける。
「クック……ほら、行け」
ミラは、オーシュの体を海に押し出した。
ざぶりと波をひと被りし、流れ出す血が洗われる。
たちまちにオーシュの体は、波に攫われて離れてゆく。
海の勇者は、そうして海に還っていった。
槍の一刺しが、止めになったかどうかは判らない。
それでも確かなことは、オーシュはもう二度と浮かび上がることはないということだった。
第三章最終話は明日13:00頃公開予定です。