10.5 「惑星レベルで危険な存在だ」
ノヴェルは、耳を塞いでいた。
長い歌唱めいた唸りが終わり、白い異形は半身を起こす。
掴まれていたミラの腕を離し、ノヴェルは意識の戻らないミラをどうにか抱き起す。
異形の男は右腕の手錠を左手で外すと、大儀そうに肩を回した。
「ああ、きみは、ミランダの仲間かい、ノヴェル・メーンハイム」
なぜそれを、とノヴェルは身構える。
「――ミランダから聞いたよ。いや、覗かせてもらったんだ。ミランダと意識を共有してね」
「おい、ミラに何をした!」
「ぼくは何もしてない。やったのはその子だよ。勇敢な子だよ。危険を顧みず、ぼくの記憶の海に飛び込んで、戻れなくなった」
「どういうことだ! お前は何者だ!」
「ぼくかい?」
垂れて歪んだ顔だ。
それを更に醜く歪めて、こう言った。
「ぼくは、高潔のオーシュ……ソウィユノの奴に何年も記憶を奪われていたけど……七勇者の一人さ」
は――とノヴェルは呆ける。
高潔のオーシュは、昨日街に現れて今朝方皇帝と悶着を起こし、船を奪ったのじゃなかったか。
見た目も全然違う。
見た目。
インスマウス村の銅像。
銅像があるということは、勇者の中で、風体が広く知られており――真似がしやすいということだ。
ジャックも言っていた。従兄に似ていると。似た人間は、探せばいるのだ。そもそも銅像の出典も怪しいという話だったではないか。
また足で魔術を使うオーシュは、いつも裸足だと言っていた。
だが今朝方甲板に現れたオーシュは、靴を履いていた。
「なんだい、お化けでも見たような、変な貌だ。とにかく、ミランダは残念だったね。目覚めることはないと思うよ。だってソウィユノの罠だ。まあ、ぼくもヒトのことは言えないんだけど」
ソウィユノは死んだはずだ、とノヴェルは思った。
いや、確かに死んだのだ。祖父、マーリーンが道連れにした。
だが認識技術は、術者を離れて継続する。看板にも使われるくらいだ。
数年前に仕掛けられた何らかの罠が、術者の死後も、長い間――。
「こ――この野郎! ミラを返せ!」
「できないんだってば。今はその子の意識はぼくの中。ぼくはまだソウィユノの術下で、自分の意識さえ自由にならない。まったく――こうなったからには、勇者としての務めを果たさないと、またソウィユノに叱られちゃう」
「何だ、何をするつもりだ」
「あのお方の秘密を守らないとね。もっとも? ぼくは目覚めたら、君たちのことをあのお方に伝えるように仕組まれてたみたいだから、ぼくの責務はもう終わりなのかもだけど」
ぼくの責務とは、勇者としてということだろう。
もうとっくに勇者との戦いは始まっていた。
「あのお方の秘密」を巡って。
「あのお方って、お前達勇者のボスか?」
ほかに誰がいるんだよ、とオーシュはけらけらと小さく笑う。
「ま、十数えるからミランダを連れてせいぜい逃げてよ。ぼくも、その子は殺したくないんだ。ずいぶんかわいそうな人生を送ってきたみたいだし、短い間だったけど、すごく優しくしてくれたからね」
じゅ~~~~~~~う~~~~~~……。
カウントダウンが始まった。
ノヴェルは、ミラを担ぎ上げ、一目散に船倉を駆けだした。
***
海賊船からも、軍用船からも、次々に人が出てきた。
呆然と空を見上げている。
今にも両手を広げて朗々と人類に語り掛けるような神々しさを持ちながら、禍々しい聖痕を半身に宿したその魔人は、人々の視線など素知らぬように船から船へと空中を歩いていた。
船団はどれも減速を始めている。
甲板上には我も我もと機関士や魔術師が詰めかけ、空を歩く魔人を眺めているのだから当然だ。
ノヴェル、ミラ、そして皇帝の姿はない。
「実在するのか? 実在するとして、こんな風に姿を現すのか? つまりそれが出てくるということは――つまり」
「ああ。あれを見て、生きている人間がほぼいないんだ」
「するとかなり貴重なものを見ているわけか。冥途の土産とでもいうか」
ノートンは自分で言って、ようやく自分の置かれた立場を再認識する。
親書を側近に渡すことは果たしたが、これにもノートンは不服だ。
味方はバラバラ。
戦力は絶無。
すぐ後ろに皇帝。
空には魔人。
渡した親書も、このまま海の藻屑になることすらあり得る。
「ジャック君、この状況でも、八割は助かると考えていいのかね」
「急に前向きになりやがったな。しかし奴らの指導者が出てきたということは、奴らにとってもイレギュラーだ。計画ではあり得ない――望み薄ってところだ」
「拘りを捨てるのか」
「そんなもんは後付けできる。このまま他の勇者が陸地で騒動を起こして、帳尻の合うように救えばいいんだ」
「全てはあの魔人の掌の上ということか」
ノートンは甲板上に現れた軍人たちに振り向いて叫んだ。
「モートガルド帝国、並びにザリアの諸君。緊急事態だ。右翼側の軍船は、あの者に撃沈された。この船も危ない。手渡した親書を努々失うことのなきよう、今すぐ海域の離脱を始められたし!」
看板上を散らすように、海軍水兵たちは脱出の準備に取り掛かる。
ジャックは水兵らを誘導する。
「当軍船は捨てよ! 小型艇を使って、できるだけ距離をおいて陸地を目指せ! 固まるなよ!」
既に百キロ以上沖へ来てしまっている。小型艇でどこまでいけるか判らないが、スティグマから逃れるにはそうする他なさそうだ。
船尾楼、及び船首楼の右舷側と左舷側に救命艇がかかる。
水兵達が乗り込むと、十数メートル下の海面へ下ろされる。
一部、皇帝の側近たちには指揮系統を失った混乱が見られる。
「皇帝殿下がまだ戻りません!」
「閣下は中央の海賊船におられる。自力で脱出が可能なお方だ。構わずに逃げよ」
ノートンが言う。
第一、大型船と海賊船の間で橋になっていた軍用船は、既に動き始めている。皇帝がすぐにこの船に戻る方法はなくなったわけだ。
おそらく船は捨てるのだろうが、間に挟まっていては救命艇の用意もままならない。
手信号で方針が伝えられたものか、どの船でも脱出の準備が始められているのが見える。海賊達までも救命艇を出している。
海上にて一つになっていたそれぞれの勢力は、今ひとつに団結してバラバラに逃げようとしている。
もっとも高潔のオーシュは失われたが、代わりにスティグマが現れた。
そのスティグマは今、オーシュの海賊船の上にいる。
スティグマは、聖痕の眼がある右手を翳し、茨の一本を出現させた。
海賊船を切断するつもりだ。
その甲板上に、階段を上ってきたディオニスが現れた。
「皇帝陛下を守れ!」
「攻撃! 攻撃!」
しまった、とノートンは思った。
船は減速している。
対地速度は時速で四十キロ前後。今なら魔術も有効――かに見える。
船首側甲板に集まった水兵らが、次々に火球を作り、スティグマを攻撃する。
右翼の海賊船もこの機を逃すまじと砲撃を始めた。
砲撃と魔術の一斉掃射。
伸びあがる水の柱が、無数の槍となってスティグマへ飛んで行く。
爆炎と煙と水蒸気で、スティグマの姿は見えなくなる。
空気爆発のダウンバーストが海賊船を揺らし、波を起こす。
「避難を! 避難を優先しろ! くそ! やめろ! 無駄だ!」
ジャックは余波で揺れる軍用船の縁に掴まって、叫んだ。
尚も止むことのない砲撃。
間隙のない無数の攻撃魔術。
既に救命艇で離れた者も、皆波に揺られながら上空を見守っている。
一帯に放たれた救命艇の数は現時点で八隻。全て海軍のものだ。
やがて、砲撃が止んだ。
上空の靄が晴れるのを固唾を呑んで見守る。
そこには――先ほどまでと、何一つ変わらずに佇むスティグマの姿があった。
傷一つ、身に纏ったローブから垂れる鎖の一つにさえ、何の効力も認められない。
「こ、攻撃無効――有効射撃を、確認できません」
水兵の誰かが、ぽつりと言った。
スティグマは、生み出した黒い茨を操って、海賊船を豆腐のように切断した。
長さ八十五メートルの船は真っ二つに割れ、中央マストの残骸がディオニスに降り注ぐ。
甲板上でディオニスは大きく体勢を崩し、膝をつく。
海賊らのパニックが始まった。
我先に海に飛び込んでゆく。
推進補助の動力が爆発し、煙が上がる。
船後部は大きく傾き、甲板上に残った海賊らを零すように海へ落としてゆく。
「救命艇を落とせ!」
こちらの船でもパニックは始まっていた。
空の救命艇を次々に海面に投下し、水兵らは海へ飛び込んでゆく。
後から縄梯子を落としてゆく。
「待て! まだ船は停止していない! 乗員を乗せてから海面へ投下を!」
ジャックが制するが、その声はまるで届かない。
船の後方へと、点々と水兵、海賊、救命艇が置き去りにされてゆくのだ。
前方では沈みゆく船の上で、皇帝が上空を睨んでいた。
スティグマは悠々と、上空を歩いては各船の様子を見下ろしている。
辺りをぐるりと見渡し、随分と散らかっていることに気付いたようだった。
そして淀みない動作で掌を上に向ける。
するとまずそこに小さな黒い球体が出現した。
指先程の黒点だ。
すぐさまそれは拳大になる。
黒い球体は更に上に飛び上がりながら、一段階大きくなる。
真っ青な空に現れた黒い星。
それは眩しい南の太陽の下にあって少しも光を反射しない、完全な黒体である。
甲板上のジャック達も、それに気づいた。
皇帝もそれを見咎め、こちら側に走りだし、沈みゆく船の後部に飛び移る。
船から船まではおよそ七メートル。
恐るべき跳躍だ。
「あれは、なんだ」
徒労感に疲れたジャックが、ノートンに訊いた。
「わからん。だがまるで、宇宙研究者のいう、ブラックホールだ」
「宇宙研究者? ブラックホール?」
「かつて星図を作っていた者達は、今やこの惑星の外側、宇宙の成り立ちを解明しつつある。彼らが言うには、銀河の中心にはああした、すべてを吸い込む重たい天体、超巨大暗黒天体があるのだ」
黒い球体は益々大きくなっている。
海賊船の長さは八十メートルほどあるはずだ。
間もなくその船ほどの直径になりそうである。
「そのブラックホールだとして……あれを消すにはどうする」
「大量の物質を破壊させ、エネルギーを奪えば……つまり冷やせば、消せるかも知れない」
「水か。残っている魔術師をかき集めろ」
「しかし避難が」
「奴はこっちが逃げ散ってるの見てアレを出したんだ。何かは判らんが、海上一帯に対して効果があるんだろう。アレから逃げることは――考えないほうがいい」
ノートンとジャックは水兵らを呼び止め、水魔術の熟練者を集め始めた。
黒い球体、ブラックホールは成長を続け、海上に真円の影を落とす。
百六十……いや、二百メートルにもなろうか。
ソウィユノの真上にあって、成長に伴いその中心はどんどん上へと移動してゆく。
ついに、残骸の一部が空中へと浮かび上がり、球体へと飲み込まれ始めた。
「――ああ、もうだめだ。引力が、この星の重力に勝るほどに成長してしまっている」
ノートンはがっくりと項垂れた。
あれが爆発した場合、または墜落した場合――いや、このまま成長を続けた場合、被害の大きさは予測できない。
人が魔術を使うとき、輝く光球を出現させる。魔力により個人差はあれ、押し並べて小さなものだ。それでもかなりの力がある。
頭ほどの大きさの光球でさえ、生成できる者はいない。
それがどうしたことか。
勇者の指導者は、指導者とはいえ勇者なのだと思っていた。
だがはっきりと判る。
勇者の指導者は、勇者などではない。
善とか悪でもない。次元の異なる存在だ。
魔人スティグマ。
これほどまで。
これほどまでの力があろうとは。
「ジャック君。今なら解る。勇者は、惑星レベルで危険な存在だ。祖国の戦争よりもね。君の仲間の救出を優先するべきだった」
ご理解をどうも、とジャックは言う。
「気にするな、官僚さん。お互い、一歩遅かった。仲間が増えて気が大きくなっていたのかも」
ノートンも薄く笑った。
「まったくだ。君とはもう少し早く友達になりたかったものだ」
「別に今も友達じゃねえよ」
二人は笑いながら小突き合って、来るべき終焉を見上げた。
モートガルド大陸西の沿岸から百十五キロ地点。
外洋にて。
TO BE CONTINUED
戦いは第三章に続きますが、区切りのよいタイミングで第二章のシーズン・フィナーレです。
[第三章] 人と人の生き意地は地獄の鮫が好む味
でお会いしましょう。
次回更新は明日11:00と18:00頃の二話更新予定です。
少々変則的な更新が続くと思いますので、続きが気になるという方はぜひブクマをお願いします。
第二章面白かったという方は評価などもしていただけると幸いです。