10.3 「高潔の名を穢した」
ジャックとノートンが階段下に集合すると、悲鳴が聞こえた。
上階のブリッジからだ。
見上げれば靴を突っ掛けた人影が、高僧のような法衣の袖をひらひらさせながらブリッジから飛び出すところだ。
「まずい、オーシュだ。隠れろ」
短く言ってジャックは身を潜めようとしたが、「待て」と中止した。
階上の男は反対側、船首側に降りる階段の先を見て、動きを止めたからだ。
今度は袖を翻し、再びブリッジに逃げ込む。右舷側の出口から出るつもりだろうが――。
「どうする、下から回り込むか?」
「皇帝と鉢合わせしたくはない。ここから上がってオーシュの様子を――」
その必要はなかった。
話している間にも、今度は後退りしながら出てきたのだ。
そのまま背中を外壁際まで――追い詰められた。
ブリッジから、皇帝が出てきた。
巨漢だ。
まして大がかりなフルメイルで、狭い船橋の入り口を大仰そうに潜った。
「オーシュとやら。汝の戦いぶりは見せてもらった」
勇者は階段の外壁に背中を阻まれ、左へ降りるか、右へ降りるか目を泳がせる。
こちらと、眼が合った。
――怯えてやがる。
ジャックは、そう読んだ。
まさか、あの勇者が――と自分の認識技術を疑うが、その表情はやはり、怯えて見えるのだ。
「あ……あそこに、ネズミが二匹」
そう言ってこちらを指差した勇者の右手の指を、皇帝は一瞬で圧し折った。
「これ以上、余を落胆させるか……? 高潔の名を穢したことはよい――何だあの逃げ様は。勇者を名乗るからにはそこそこの使い手であろうに。余が部下にその操船技術を見せよと思うたのに、当てが外れたわ。まるで腰の入らん走りを見せよって」
苦痛に顔を歪める勇者に、その言葉が届いているのかは怪しい。
指どころか今は手首そのものが、上向きに掴みあげられてゆく。
「汝がへたれて走りよるから、この余が部下に横を抜かれるという無様を晒した。面目が立たんわ。どうしてくれる」
「いだだだだだ」
痛みに息もできぬ様子で、それでも勇者は震える左手を密かに持ち上げ、忍ばせる。
皇帝の頭へ向けて――。
ようやく胸先まで持ち上げたところで、皇帝はそれを自らの脇の下に挟み込み、封じた。
「体液操作か。下策中の下策よの。この余の鎧を貫いてみせよ。どうだ」
右手を捩じり上げられ、足が床を離れている。
左手をも封じられた勇者は、歯を食いしばって悶絶するばかりで、何も起きない。
「どうした。それで全力か」
勇者の苦悶と王者の嘲笑。
ジャックは固唾を呑んで視ていた。
体液操作ができない。あの鎧は魔力を遮断する素材を使っている。接近戦は不利だ。
まだ――あいつが勇者なら、何か秘策があるはず。あの黒い力を使って――。
見せろ。
ジャックのその肩を、ノートンが叩いた。
「ジャック君、見ろ、あれを」
船外――。
燃えさしになった後部マストの向こうだ。
空中、彼らの目線よりも高い位置まで、一抱えほどの太さの水の柱ができていた。
丁度ブリッジの、皇帝らのいる高さだろうか。
(これが狙いか、オーシュは――)
掴みあげられていた右手の指を支えに、逆に皇帝の手をきつく握り返す。
両足を外壁に踏ん張り、体を固定する。
「死ね!」
勇者の絶叫で、その水柱の先端が鋭い槍となる。
柱自体が急激に直角になって、先端の部分がブリッジまで伸びる。
一瞬のことだ。
その先端が階段上の皇帝に突き刺さる瞬間――。
フン、と皇帝が持ち上げたそれを軽々と九十度回し、迫りくる水柱に向けた。
踏ん張っていた両足はいとも簡単に壁を離れ――水の柱は、憐れな人間盾の背中に突き刺さる。
「おおおおおおごごごぼぼぼぼ」
怒涛に流れ込む海水で、胴体が水風船のように膨れ上がってゆく。
「ほほう、ウォータースピア……の類か。自らに撃ち込むとは、なかなかに独創的ではないか? それで、どうする」
ウォータースピアは水圧を利用し、水を槍のように飛ばす魔術だ。
魔力が高ければ、このように多量の水を連続的に送り出すこともできる。
さながら獲物に喰らい付く水竜の首だが――自らに当てては裏目である。
「ぶぼぼぼぼぼ」
こうなってしまってはもう、水流の振動で体を揺らすばかりで、発話できる状態ではない。
勝ち目があったとすれば、間合いのあるうちにこの魔術で皇帝を船外まで追い落とすことだった。
「……何もなしか。よかろう」
皇帝は腰の手投げ剣を抜いて、全く淀みなく、膨れ上がった水風船に突き刺した。
パン!
こちらに、靴を履いたままの右足が飛んでくる。
「逃げろ!」
ジャックとノートンは、一目散に隣の軍用船へと飛び移った。
***
軍用船ブリッジに逃げ込むと、ザリア人将校らが怪我の手当てをしていた。
「パルマの方々、皇帝は」
「すまん。オーシュが死んだ。どうにもならん強さだ」
「――いいえ、四年前と同じです。かくなる上は、またパルマ皇女様のお力に縋るしかありません」
将校らはがっくりと肩を落とす。
皇女はともかく、民王は帝国側だとは言いにくい。
「パルマの方々、救難用の小型艇があります。それでこの辺りから離れてください」
「お前達も逃げろ。あれは普通じゃない」
「いいえ、我々は船と」
ジャック君、とノートンが小声で割り込んできた。
「皇女陛下の親書が先だ」
「わかってる! なぁ将校さん、皇帝を止めるために、もう一つ手がある。その皇女様の親書だ。これを隣の船に渡したい」
手配しましょう、と将校はいった。
将校が命じると航海士らは出て、ブリッジから隣の大型船の甲板へ橋を架け始める。
「ジャック君、皇帝はどう動く?」
「マーリーンを回収に向かうだろう。チャンスは今しかない」
「将校、俺達はこれから奴の大型船へゆく。俺達が乗り移ったらお前達は待たなくていい。すぐに海域を離脱しろ。パルマへ亡命するんだ。うちの皇女様はお前達の犠牲を望まない」
「よろしいのですか。貴方方は――」
俺達は、まぁ、どうにかするさ、とジャックは笑ったつもりだったが、苦笑のそこら中から弱気が漏れていた。
***
深層意識世界に残る心象風景――その図書室。
十二番の扉の向こうでは、無人の便所の床の上をトイレブラシが往復している。
その隣、十一番の扉の鍵が開いた。
ドアノブを捻る。
(回る。回るぞ)
「ミランダ、気を付けて」
(気を付けて――? どうせここはお前の記憶だ。あたいに何の危険がある)
「何があるか、わからない、から」
それはそうだ、気を引き締めたほうがいい、と彼女は思った。
軽く深呼吸するとすぐに苦しくなり、十四歳の小さな体を実感する。
寝室を覗くように、静かに扉を開く。
扉の向こうは真っ暗であった。
ミランダは、そこへ一歩踏み込む。
その瞬間、彼女は真っ白に飽和した光に包まれた。
(――!?)
目が痛いほどの強烈な光線で何も見えない。
やや目が慣れて来るとそこは海岸だった。
砂浜ではない。
溶岩が冷えて真っ黒になった原始の岩場に、荒々しい波が砕けている。
海上は一面の船の瓦礫。
果たして何隻分なのか、数えることはできない。
遠くの洋上には海に刺さったかのような、沈みゆく船もまだ残されていた。
亀のようにこの岩場に這い上がるのはクック=ロビンだ。
ミランダの意識は、酷ぇ有様だと慄いた。
傍にしゃがんでクック=ロビンを覗き込んだが、手を差し伸べることもできない。
打ち上げられているのは瓦礫ばかりではない。
無数の死体だ。
勿論人間、それもおそらく海賊であろう。
クック=ロビンも体のあちこちを切って出血している。
彼が意識を失いそうなのが、この風景全体がまばたきのように明滅していることからわかる。
今にもブラックアウトしそうな風景の中――岩場の向こうから、誰かがやってくる。
(だめだ、クック、しっかりしろ)
岩場の岩は大小様々。間隔もまちまち。
歩行も困難なはずだ。
そこをまったく意に介さず、平然と歩いてくる何者かの姿が。
その者には岩々も砕ける波しぶきも、何の障壁にもならないようである。
(あいつは誰だ。クック、あと十秒でいい、もう少し意識を保て)
風景は途轍もなく明るく、意識の途切れる瞬間には真っ暗になる。
見ているだけのミランダでも眩暈がした。
その人物は、意識が瞬くたびに近付いてくる。
悠然とした歩みだが、速い。足元に浮かぶ死体のことなど気付きもしないようだ。
(男か――女か?)
ウェーブした長い髪は真っ白だ。
僧形に近いようなローブ姿だが、それでもどの僧にも似ていない。
銀色の鎖を無数に纏い、後方に流している。
足元は裸足だ。
(もう少しで顔が見える――)
クック=ロビンは岩にしがみつき、どうどうと息を吐きながら仰向けになる。
その胸が不規則に上下し、ふやけた皮膚は所々が捲れ上がり、酷く出血している。
男――体形からどうやら男だ――はクック=ロビンの傍らに立ち、何かを語りかけてくる。
(――なんて言ってる? クック! 聞け!)
波の音、風の音、自らの呼吸音。
彼の耳には、誰の言葉も入ってこない。
しかし顔は――見える。
だがそう認識した瞬間だ。
世界に異変が起きた。
心象風景の四方八方が、ぐらぐらと揺れて下の方から崩れてゆく。
遠くの空が、海が、打ち寄せられた残骸が。
(クック! もう少しだけこらえてくれ! 今、顔が――!)
波が崩れ、死骸が崩れ、岩が崩れた。
クック=ロビンも、傍らに立つ男も崩れる。
最後の記憶に辿り着いたとき、二人の作り出したこの意識世界は――終焉に至るのか。
後には、ミランダだけが残された。
次回更新は明日18:00頃を予定しています。