1.0 「俺はジャックってもんだ。ここで勇者を見たんだって?」
ロイ・ロイドは森を走った。
走り抜けるには広大な森だ。
昼でも暗く夜ともなれば視界はまるで効かない。
ロイにとって頼りになるのは森の生き物の発する音――大型のフクロウの鳴き声や鼠が動かすカサカサという葉音。
そしてゴブリンだ。
(ゴブリンどもが動いてる――)
森の木から木の間を通って、ロイを追っている。
それも大集団だ。数は数えようもない。
お互いにキシュキシュと呼び声をかけ、ロイの隠れた大木のすぐ後ろにまで迫っていた。
小鬼は十体前後の小集団を作って生活している。
知能は低く、大集団を作ることはない。その生態をロイはよく知っていた。
ロイはゴブリンと話すことができる。ゴブリンだけではない。その程度の知能の魔物とは特に仲良くなれた。
この森に潜入して打ち解けた雌ゴブリンは言った。
近頃、この森で魔物を集めている人間の男がいると。
ロイは雌ゴブリンと話す間、雄ゴブリンに威嚇されながら囲まれていたが、さしたる身の危険を感じたことはなかった。
それがなぜ今、そのゴブリンどもに追われているのか。
ゴブリンはなぜその生態を超える、大集団を作りつつあるのか。
(どうしてこんなことになっちまったんだ)
***
その原因は二年前、小国カンパニオンの首都で会った怪しい二人組だ。
いや――その少し前。
ロイは首都の競馬場に居た。
ロイは愚かではなかったが、ほんの少しだけ立ち回りが遅かった。
彼が始めた養殖事業もやや旬を外し、馬の調教も時代遅れ、「これからは機械だ」と始めた工場も街の大商工会に勝てず――。
ある時、勇者という連中が来て、街の悪党を皆殺しにした。
潰滅のイグズス――身長が四メートルもある巨人のハンマーたった一振りで彼の工場は、建材以前の山の土くれに戻ってしまった。
オーバーキルだ。十人に一人以上がマフィアと言われるような街で、悪党掃討作戦をやらかして一体何が残るというのか。
事実何も残らなかった。
借金から逃げ、ロイはようやく掴んだあぶく銭を持って競馬場に来たのだ。
ある筋から仕入れた確かな情報。このレースは八百長だ。
一番人気の馬は事故で転び、大穴が勝つ。
競馬場の客席には、羽の生えた小男がいた。
「おい、あいつ勇者だぜ。銀翼のゴアだ」
「――止せや。勇者どものせいで俺は工場を潰され、大損ぶっこいたんだ。そら、レースが始まるぞ」
レースは競走馬が御伽噺のような戦車を牽いて走る。
古臭い青銅のチャリオットだ。
レース中盤、暴れ出した馬がコースを外れ客席に乱入。
多数の死者を出してレースは流れた。
ロイの払った賭け金は戻ってこなかった。
そんな彼に声をかけてきたのが、あの奇妙な二人組だ。
「おいあんた。俺はジャックってもんだ。ここで勇者を見たんだって? どんな奴だ」
ワルそうな奴だとロイは思った。
二人は七勇者を追っているらしい。
泣く子も黙る七勇者にいったい何の恨みがあるのか、その二人は勇者の秘密を暴くと息巻いていた。
ロイも勇者には恨みがあった。
それよりも二人のうちのミラという美人――プライドが高そうな顔をして滅茶苦茶に暴力的な性格、すらりと伸びた長い脚が気に入った。
――それが。
二年に及ぶ勇者の追跡で気付いたのは、この二人の目的は勇者の秘密だけではないということだ。
本当の目的は勇者の暗殺だ。
とんでもない悪党だ。それも愚かな悪党だ。できるわけがない。
自分は、愚かな悪党の一味になってしまった。
しかし――ロイ自身も、七勇者は巷で言われているような正義の味方などではないかも知れないと考え始めていた。
自分の街を破壊したあの騒動にしたって競馬場の事故にしたって、最初から仕組まれていた証拠はぞろぞろと出てきた。
本気でヤバいのはあの勇者――無欲のなんとかっていう奴だ。
ゴアやイグズスは誰でも知ってる。翼があったり巨人だったり。
海のオーシュも鎧男メイヘムも有名だ。
一方で見た目に大した特徴のない奴もいる。
無欲のソウィユノはその目立った特徴のないほう。
――この森のゴブリンを全部手懐けて、何か本当にとんでもないことを企んでいる。
それに気づいたのはたった一人で森に潜入調査を始めてから。
やはりこのロイという男は、少しだけ立ち回りが遅かった。
***
ロイはゴブリンの追撃を振り切り、森を逃げ続けた。
魔術を使うのは容易い。奴らは皆、火に弱い。
だが、ここは火の女神フィレムの森だ。
フィレムの洗礼を受けずに我流の火魔術など使おうものなら、真っ先に黒コゲになるのは自分自身なのではないか――その心配が、彼の行動を鈍らせた。
追い詰められたロイは走り、やがてぽっかりと開けた場所に出た。
突然月明かりが辺りを照らす。
おそらく森の中央辺り。
最深部だ。
肩で息をしながら、周囲をぐるりと見渡した。
――こんなところまで入り込んでしまったら、もう生きて森を出る目はない。
だがその場所にあった奇妙な建造物に気付いて、彼はあんぐりと口を開けて見上げた。
砲弾のような丸い尖塔は円筒形で、どっしりとした石造りの躯体は神殿のようでもある。
(――なんだぁ、こりゃあ)
古く、朽ち果てていた。
森の生命力は、組み上げられた石の隙間まで侵食し、今にも食い尽くしてしまいそうだ。
噂に聞いたことがある。
この世にいくつか残る聖地には、かつて何者かが造った神殿があると。
だがこれは神殿というよりはまるで――。
「天文台――か? こんなところに?」
ずざり、と足音がして振り返る。
木々の暗がりに、僧形の男が立っている。
銀色に輝く白髪。そして長く半透明のローブ。
「誰だ――そこに」
言い終わる前に、ロイは地面に倒れていた。
何かに殴られた。
風魔術ではない。こんな魔術は聞いたこともない。
体の自由が利かない。
「余人が聖域に何の用だね。ここは君のような者が立ち入ってよい場所ではない。聖域としてはとうに役目を終えた場所であるとしても――だ」
ローブの裾を引き摺り、僧形の男は近づいてくる。
ロイは声を出すこともできなかった。
たった一撃で体の器官をあらかた破壊されてしまった。息をすることも目を閉じることもできない。
「――ふむ。返事ができぬか? よろしい。君は――そうか、我らを嗅ぎ回っているという身の程の知らずだな。たった一人で何ができる? いや、一人ではないのか。仲間がいるな? いや、真に仲間ならば君は一人でここへ来るだろうか? そうか、女だな。女がいる」
男は勝手に何かを納得し、クククと憐れむように嗤った。
「承知した。思うに君は、目立たぬ。認識阻害などしなくとも、誰の記憶にも残らぬ。目立たぬのは美徳だ」
男はすぐ近くにまで迫っていた。
「その徳にふさわしい仕事がある。引き受けてくれるだろうか? 何、簡単なことだよ。人探しを手伝うのだ。探すのは齢二百、かの伝説の――大賢者だ」
伝説の大賢者――ジャック達の言った通りだ。
勇者はその爺さんを探している。
「我は七勇者が一柱、名は無欲のソウィユノである。骨にこの名を刻め」
男の声は、もうロイには届いていなかった。
ロイはこの時確かに、一度死んだのである。