50.3 「お前の部下は、新世界のアダムとイブになれなくて残念だとよ」
体重差を考えればそれは奇跡だったのかも知れない。
オレが上になっていた。
重力さえ捨てた男を、オレは再び地べたに落とし、組み伏せていた。
姫様からもらったナイフの長い刃が奴を貫通し、背中の下の地面にまで突き刺さった手応えをオレは確認した。
「ぐぉおおぉぉあぁぁっ。なぁぁぜぇぇっ!!」
聞き取りにくい声だった。
なぜ、とそう聞こえた。
「何が起きたか、お前には判らないだろ」
窮鼠猫を噛む。
追っていたはずの鼠に鼻先を噛まれても、きっとお前には負けを認めることさえできない。
地表からの魔力照射は、きっかり十秒で戻っていた。
オレを狙う魔力の照射が、再びオメガを赤黒い砂へと融かしてゆく。
怒涛のような魔力に晒され、全身をヴォイドに乗っ取られたオメガは身動きひとつできない。
島はだいぶ減速しているのか、もう狙いを外すことはないだろう。
オレはその場の地面に、通信機を置いた。
そのとき――浮遊要塞が揺れた。
気のせいなんかじゃない。このままだと、遠からずこの島は堕ちる。
運転手を失った車は、尚も走り続けていた。
ワイヤは伸び切り、そのワイヤに絡められたホワイトローズは両脚で踏ん張っている。
「くそが! 外せ! ああああ~っ!」
車の目指す先は、浮遊要塞とそこに組み込まれたこの土地の隙間――さっき飛び越えたギャップだ。
ギャップとはつまり、高さ六百メートルの崖を意味した。
「あああああっ!! あああああ~~っ!!」
ホワイトローズは意味不明に絶叫を繰り返している。
ナイフを取り出してワイヤを切断するが、首や足先にまで絡まったワイヤを切断することができない。
「器用だなジャック!」
「これでも捕り物は本職でな」
さて、とジャックはホワイトローズに向き合う。
「お前の容疑と権利を読み上げたいところだが――生憎容疑が多すぎてな」
「ファンゲリヲンを殺した」
「あたいの仇を横取りしやがった」
「俺の妻と子供、そして相棒を殺した。お前が死ぬには充分な理由だ」
ふざけっ!! とホワイトローズは叫ぶ。
叫びながらも、足元は車に引っ張られてズルズルと下がってゆく。
奴を六百メートル下まで最後のドライブに誘うのは、ファンゲリヲンの愛車・イクスピアノ・ジェミニ34CVだ。
「は!? 知るか! 法律? 理由? あたしは!! 勇者!!」
「そうだな。勇者を裁く法はないのかもな。だから俺は刑事を辞めた」
ホワイトローズは聞く耳を持たない。
「やめさせろ! ノヴェル! あんたに言ってんの! 早く車を停めろ! 無駄だから! こんなこと!」
ミラは「聞き捨てならねえな」と前に出た。
「どう無駄なんだ?」
「堕ちてもあたいは再生する! 皆殺しだ! 誰も彼も! 分け隔てなく! 皆殺しにしてやる! お前の娘も探し出して必ず殺す!」
ホワイトローズがジャックを指差す。
でもその指はどんどん下がってゆく。
ジャックとミラは、ホワイトローズを無視するように通り過ぎ、その後ろへと回り込んでいた。
「そっちを持て。布をこう、手に巻いてな」
「あいよ」
その更に向こう――車はギャップへと至る。
ついに、イクスピアノジェミニが崖を転がり落ちた。
「は――」
急激に、ホワイトローズは後ろへ引っ張られ――飛んだ。
ジャックとミラがホワイトローズのその背後に回り込んでいた。
手には鋼鉄のワイヤ。
そのワイヤで、ホワイトローズの体は腰から真っ二つに切断された。
上半身だけがその場でくるくると回転し、べちゃりと地面に叩きつけられる。
首にかけていたワイヤが外れていた。
下半身だけが、そのまま勢いよく引き摺られて崖の下へ落ちて行った。
「――はぁっ? ちょっと! 何!? あああああっ!?」
「どうする? これで宇宙へ行けるのはお前の上半身だけだ。下半身は母なるこの星でお留守番することになった」
ジャックはホワイトローズの腕を掴み、倒れて融けてゆくオメガの隣に引っぱり出した。
「厭ならお前の大将を説得しろ。旅行は中止だ」
痛みを感じないはずのホワイトローズは、再び苦悶に表情を歪めた。
そして腹ばいになったまま、仰向けに倒れたままのオメガに懇願する。
「――い――行きたくないです。島を――止めてください」
オメガはオレが地面に磔にした。
全身を痙攣させながらも放射に耐えている。
「ぉぉ愚か者!! ぉぉぉぉこの星で朽ちよ!! 命ずる!! 朽ちよ!!」
その体はずいぶん小さくなった印象だ。
こいつは正確にはもう、スティグマでもツインズでもない。
ヴォイドだ。
だからこいつが宇宙を目指す執念は、きっと帰巣本能なんだ。
「ご、ご容赦をお――お願いします――。あたしは――下半身がないと、行く意味、なくて」
「――黙れ!! 子孫など要らぬ!!」
子宮だ。
たぶんホワイトローズは、ブリタシアでも戦場でも知ることのなかった本当の絶望を味わっている。
それが痛みより激しく、彼女を内側から苛む。
ジャックの復讐はこれで完成したのかも知れない。
「聞いてやれよ、大将。お前の部下は、新世界のアダムとイブになれなくて残念だとよ。他人の子は殺したくせにな」
「こ――殺してない! お前の! あのときの子供は! 殺してない!」
ジャックはその言葉を聞いて停止した。
「――嘘だ。てきとうを言うな」
「マジだから! 女の子だった!」
「どこにいる」
「ブリタシアの三番街に捨てた!!」
「捨て子の情報なんて、市警には――」
「貧民街だ!! 珍しくないんだよ! 右腕の内側に痣があった!」
ジャックの動揺が見て取れる。
一歩後退り、踏ん張り、踏み出し――目を押さえる。
ジャックは唇を震わせていたが――。
「信じない」
そうきっぱりと言った。
「だが――ノヴェル、ダイナマイトを寄越せ。こいつにチャンスをくれてやる」
オレは、腰からダイナマイトを抜いてジャックに投げた。
ジャックはそれをホワイトローズに括りつける。
「宇宙行きを止めたければ自分で止めろ」
そのときだ。
『爺さん! 照射を――止めてくれ!』
オレの声がした。
ジャックとミラがオレを見たが――オレは驚いてキョロキョロしているだけ。
『爺さん! 照射を――止めてくれ! 奴を倒した!』
声は、オレが置いた通信機のあたりからする。
しまった。
オメガが、オレの声を使って爺さんに命令したんだ。
奴の体に吹き付けていた、致死性の魔力の風が止む。
やられた――とオレは息を呑んだ。
体の崩壊も止まった。
自由になった手で胸のナイフを抜き去り、オメガが悠然と上体を起こす。
「使えん部下だ」
抓んだナイフを棄てた。
黒い蔦が生えて、ホワイトローズと、通信機を下から突き刺す。
バラバラになった通信機が宙を舞う。
マーカーが――地上との連絡手段が、失われた。
ジャックとミラが慌てて飛び退き、態勢を立て直す。
オレたちを大儀そうに見渡し、オメガは両腕を広げた。
「危ない所だったぞ。虫けらどもが、よくここまで来た。ようこそ、我が箱舟アレン=ドナへ」
オメガは魔力炉の縁で、ゆっくりと浮上を始めた。
その体は縮み、子供のようになっている。
それでも中身は変わっていない。オレたちの敵――。
「ジェイクス・ジャン・バルゼン。勇者になるべきだった男よ。貴様を取り逃したことは、今となれば失策であったな」
黒い蔦が伸びて、ジャックを切り裂く。
ジャックはバラバラになって地面に落ちたが――それはミラが出した幻影だった。
本物はその後ろで、苦々しくオメガを睨む。
「ミランダ・ヘイムワース。ファンゲリヲンの娘よ。親子揃って――ちょろちょろと目障りな小物であったな」
ミラ! とオレは叫んで、ミラに宿帳を投げた。
ミラを狙った黒い蔦を、彼女は数度のバク転で躱し、投げた宿帳を受け取るとそれで追撃を叩き落とす。
奴もおそらく本気じゃない。
軽い握手代わりだ。
「それと――ノヴェルだったか? 大賢者の孫よ。そこにおるのであろう? 帰らぬ貴様を、大賢者めは死ぬまで待つことになろう」
貴様たちを――そう言いながらオメガは一層高く飛び上がる。
「どうしてやるか。ヴォイドは良い。また戻る」
「諦めろ! セブンシスグマは死んだ! あいつなしでどうやって宇宙旅行するつもりだ!」
「まさに。問題はそこだ。貴様らの中に、またセブンスシグマと同じ力を持つ者が現れるだろうか。何年、何百年後だろうか。人間を飼ってそれを待つ――」
オメガは溜息を吐いた。
「――煩わしい話だが、仕方がなかろう。何、時間はいくらでもある」
***
「いやあ、危ないところでした! よかったよかった!」
手を叩いて小躍りするノートンとは裏腹に、ゾディアックは渋面を作っていた。
「どうもおかしい。奴を倒したのなら、なぜその後連絡が通じぬのだ」
「電力が切れたのではないか」
チャンバーレインはそう指摘したが、ゾディアックは首を振る。
「それにはまだ早かろう。電力は充分にあった」
「なら何だ。お前の孫の声色を真似たのか? そんな知恵があるのかね」
「奴は魔獣ではない――念のため照射を再開すべきだと思うがね。リンよ、上の状況は見えるか?」
リンは首を横に振る。
「もう、魔力が――」
リンが言うのは星全体の魔力。それを示すメーターはとうの昔にゼロだ。
そして、魔力の枯渇が現実のものとなったことを意味した。
「念のため照射を続けることもままならんな。残るは、わしら神々の存在を魔力に落として撃ちだすか」
スプレネムが蒼白になって震えあがった。
「ねねね念のためで、で、わ、わたくしにしし『死ね』とっ!?」
「フィレムの考えも――ん? フィレムの奴はどこへ行った」
そのとき全員が気付いた。
火の女神フィレムが、その場から消えていたのである。
空を見ていたノートンが、思わず声をあげた。
「あっ! 浮遊要塞が! 再び移動を始めました! 北へ向かっています!」
「なんだと。ブリタシアへ戻るつもりか?」
わかりません、とノートンは上擦った声で答える。
「一体――上で何が起きているのだ」
***
「フィレムの泉の接収はやめる。あれは、人を増やすには必要なものだ」
なんだ。
こいつは一体、何を言っている。
『人間を飼う』?
「まずはベリルに向かう。ベリルにこの箱舟を落とし、そこを新たな我が城とする。懐かしき故郷、ベリルよ!」
なんだって。
そんなことをしたら、姫様が。
天文台の爺さんたちは、オレたちがもう勝ったと思っている。
どうにかしてこの島の制御を手に入れて、ブリタシアに戻ろうとしていると、そう思うかも知れない。
奴を妨げるものは、もうない。
ゲームオーバーだ。
姫様が死に、パルマは滅亡。
暗黒の時代がくる。
人々はツインズ・オメガの家畜として生まれ、あの地獄を経て勇者になる。
再びセブンスシグマか、それを凌ぐ勇者が生まれるまで。
パルマに堕ちたこの要塞は、人類にとっての墓標だ。
「そんなことさせるか!!」
速く反応したのは、姫様の騎士――ジャックだった。
火焔を次々と、空のオメガ目掛けて繰り出す。
その軌道を、ミラが捻じ曲げて見せる。
オレはミラの後ろに隠れてそれを見守っていた。
息の合った連携だけど――オレがいうのも何だが、ジャックの火魔術なんていくら当てても意味がない。
だって弱いんだから。
オメガが指先をくいと曲げると、地面が揺れ始めた。
空が、山が、回転している。
いや、回転しているのはオレたちだ。
オレたちの立つ浮島――浮遊要塞の中央に組み込まれたそのストーン・アレイの土地だけが回転しているんだ。
それはすぐに、立っていられないほどの振動になる。
「な――なんだ!?」
ジャックの攻撃が止む。
火魔術の後には白煙が色濃く残されていた。
フッと、体に感じる重力が弱まる。
気持ち悪いくらいだ。
その煙の間から見える景色が、高くなっていた。
浮遊要塞本体の草原が、どんどん眼下に下がってゆく。
「おい、持ち上がってるぞ!」
オレたちの足元――魔力炉を含む、ストーンアレイ近辺から切り出された浮遊島の中の浮島がだ。
それが、更に高く持ち上がっているのだ。
地面が大きく傾く。
大穴が持ち上がって、端のギャップ側が下がってゆく。
「つ、掴まれ! 振り落とされるなよ!!」
「掴まれって――何にだよ!」
生えていた雑草を掴む。
姫様のナイフが、壊れた通信機の破片が、滑って落ちてゆく。
体が滑ってゆく。
そうか。
奴に見えないオレ諸共、全員を叩き落として殺すつもりだ。
一瞬下を見ると、六百メートル下の街やら森やらが海やら山岳やらが、やけに瑞々しく誘っている。
海は白波を抱き『こっちへ落ちれば助かるぞ』と言い、山は『ここなら三百メートルで済む』と言い、街は『家に近い』と。
眩暈がした。
「ノヴェル! 下を見るな!! あたいの手を掴め!」
ジャックが魔力炉の穴の縁に掴まり、更にジャックの脚を掴んだミラが手を伸ばしてくれた。
オレはその手に掴まる。
傾きは四十度超えている。
だめだ。
これ以上傾いたら耐えられない。
何か掴まるものは――と周囲を見る。
オメガは大穴を背後にして浮かび、そこからぶら下がるオレたちを愉快そうに見下ろしている。
早く落ちろと言わんばかりだ。
ホワイトローズの上半身がいた。
――なぜあいつは転がっていかない?
ホワイトローズはいつの間にか、ジャックと同様に魔力炉の縁にぶら下がっていた。
生きている。
意識がある。
更に――奴に括りつけられたダイナマイトの導火線が、シューシューと頼りない火花を出していた。
ジャックだ。
あいつは、オメガを狙うふりをしながら、ホワイトローズのダイナマイトに着火するのを狙っていた。
ミラは光魔術でその狙いを隠していたんだ。
――まったく、抜け目ない。あいつらいつの間にそんな相談を。
「ホワイトローズ!! ホワイトローズ聞こえるか!? このままだと宇宙へ捨てられるぞ!」
「――」
オレは必死に呼びかける。
あとはオレの仕事だ。
「オレたちは死ぬがお前は生きる! 永遠にだ! バラす相手もいないしぬいぐるみもない!」
ホワイトローズが、胡乱な視線をこちらに投げた。
奴は気付いているだろうか。
自分の背中で燻る導火線に。
「――判るな? この島を止めろ! お前なら止められる!」
『無・理』と奴の唇が動く。
いいぞ。やるかやらないかじゃない。できるかできないかの問題にできた。
「無理じゃない! お前の体重は半分! 這い上がれ! この穴に入って、壁際のパイプを二、三本、折ればいいんだ! それだけだ!」
導火線は残り短い。
ホワイトローズは、渾身の力を振り絞って――コンクリートの縁に上がった。
傾きは四十五度。
踏ん張るための下半身が、ホワイトローズにはない。
奴は――そのまま魔力炉の中へと転がり落ちた。
バキバキとおかしな音を立てながら、斜面になった魔力炉を破壊し――。
爆発。
噴き出した爆炎が。
轟音がこの浮島を揺らす。
「があああっ」
短い絶叫。
オメガだ。
奴は丁度、穴を背後にしてその出口の近くにいた。
ダイナマイトの爆発は一度きり。でも奴だけを襲う爆発は何度も続いた。
オレたちには見えないが――爆発は、おそらく螺旋状の魔力ドレーンを派手に損壊させた。
中を回っていた高密度の魔力、オメガが集めた純粋な『輝き』が解放され、噴出し――オメガを焼き尽くす。
「はあああああっ!! ぐああああっ!!」
次々と砕けるドレーン。
そこから噴き出す魔力に灼かれ、オメガは空中で二度、三度と体を捩るも――逃れられない。
その手足が、見る見るうちに消滅してゆく。
サイズの合わなくなった白銀のローブがひらひらと舞う。
傾きが少し戻った。
かと思うと――落下する感じがあった。
高く持ち上がった浮島は傾いたまま落下し、全体に衝撃が走る。
衝撃は二度。
おそらく浮島の根っこが浮遊要塞本体に当たり、それを支点にしてこの浮島が――。
急激にまた傾きが大きくなった。
浮島が、倒れてゆくんだ。
例えば抜いた釘を傾けて落としたって、元通りには嵌らない。
古い天文台跡が、横向きの重力に耐えられず崩壊を始める。
瓦礫は下ではなく、横へと落ちてゆく。
「うあああっ」
オレたちも――滑り落ちた。
傾けたグラスから零れる水のように。
ストーン・アレイ由来の固い地面を、瓦礫と一緒に転がる。
為す術もない。
海か山か街か。
オレたちを受け止めたのはそのどれでもない。
懐かしきブリタシアの草原――浮遊要塞の柔らかい草地に叩きつけられ、どうにか起き上がってその場を離れる。
背後で、浮島は本体に墜落した衝撃で崩れていた。
コンクリートの破片。余ったワイヤ。ドレーンの破片。
多量のコンクリートで固めた灰色の縁が。それを包むストーン・アレイの白茶けた大地が――瓦礫の雨となった。
それらが、前も見えないほどの勢いで降り注ぐ。
急な夕立から逃げるように、オレたちは走った。
「逃げ切ったか?」
「止まるんじゃねえ!」
浮島が完全に崩れ去る、その強烈な土煙が吹き抜けたあと――ようやく太陽の光を感じられた。
瓦礫の雨は止んだ。
土の風も収まった。
ようやく振り返って一息ついたときだ。
「くそっ。も、もう息が」
その先に――ドシャッと、何かが落ちてきた。
フラフラする脚に鞭打ち、そこまで歩く。
緑色の草の上に落ちたそれは、小さくなったオメガだった。
強烈な魔力と爆風に炙られてすっかり焦げている。
小さい。
ずっとずっと小さくなっている。
長い髪は焼けて抜け落ち、白銀のローブも脱げ落ちていた。
人間は焼死すると、筋肉が収縮して赤子のような恰好になるのだと何かで読んだことがある。
オメガも同じだった。
赤ん坊。
いやこれは――真っ黒な胎児だった。
「こいつは――奴の深層で見たぞ」
ミラが唖然と口にする。
似ているだけだ。ヴォイドの神は二百年前に始末された。
でももし彼女の言う通りなら、まるで女神病を経て『人間』を手に入れたヴォイドが、また二百年前の姿に戻ったかのようだ。
「とどめを刺すぞ」
ジャックがその胎児に向けて、足を振り上げる。
「待ってくれジャック! 今そいつを殺したら、この島が――」
「もう遅い。見ろ」
言われて周囲を見渡すと――浮島だけじゃない。全体が崩壊を始めていた。
あちこちから土煙をあげ、遠くからも低い轟音が響いてくる。
近くでは魔力炉の浮島が嵌っていた穴だ。ギャップだった場所を中心に、ばらばらと崩れ始めているのは目に見えたわかった。
「でも――でも待ってくれ! まだポート・フィレムの上だ! もう少しもつかも知れない! あと十分、いや五分――」
「待つのはいい。だがこいつの息の根を止める前に俺たちも落っこちるなんてのは御免だぞ。俺たちにはこいつが死ぬのを見届ける責任がある」
「――責任」
オレは、胎児のようになったオメガを腕に抱いた。
転がってどこかへ落ちてしまわないようにだ。
「わかる。こいつはこのままにはしない。でも少しだけ、足掻かせてくれ」
「五分。五分だけだぞ」
そのときだった。
「その子をこちらへ渡しなさい」
オレたち以外の――声がした。
振り向くと、フィレムが草原を歩いてこっちへ近づいてきていた。
「フィ、フィレム様!? 天文台にいるはずじゃ――どうしてここへ!」
「私たちが天文台にいたのは、魔力が尽きた場合にこの存在を捧げるためでした。ですが、その必要はなくなりました。あなた達の献身と、努力のお陰です。スプレネム他、神々を代表して――礼を言います」
オレとフィレムの間に、ジャックとミラが立ち塞がった。
「どういうつもりだフィレム」
「その子をこちらに引き渡すのです。島は崩壊を始め、下界に被害がでています。もう時間がありません」
「引き渡してどうする。理由を言え、フィレム様」
ミラがそう食い下がる。
「その子は――私が責任をもって預かります。温情をかけて欲しいというのではありません。その逆です。私は、そうしなければならない。ミランダ、私はあなた達の働きに報いると、約束したではありませんか」
「預かるってどういうことだ。判るように言え」
「その子が消滅すれば、島はただちに落下します。これだけの島が自由落下すれば、あなた達も、下にいる者も助からない」
「承知の上だ」
「諦めないでください。私がその子を包み、封印します。島は維持可能な大きさまで崩落するでしょうが――大部分の落下は免れる」
オレは、オメガを抱えたまま――ジャックとミラの間を縫って出た。
「信じていいのか」
「神を信じずに、何を信じるのです」
「そんな単純な話じゃない。あんたとオレたちは――いろいろあったろ」
「ありました。私とその子の間にも、です。あなた方を救うのに、その子を排除するとしたら、私にできることはもうこれしかありません。封印です」
女神は、それまでにないほど神々しく見えた。
このオメガを、託してもいいと思えるほどには。
「封印って?」
「私の魔力で包み込み、二度と大きくならないように維持します。この島で、私はこの子と永遠にここに留まり、二度と下界に降りることはないでしょう」
「あんたの魔力は大丈夫なのか」
「ここには泉も沢山あります。あとはあなた方が――私を忘れないでいてください。語り継いでください」
「地表はどうなる。影響はあるか?」
「ありますが、まだスプレネムがおります。彼女を支えてやってください。悪い子ではないのです」
少なくともオレは信じることにした。
「――いいか?」
オレはジャックとミラを見た。
彼らは溜息を吐いたり、苛々と頭を掻いたりしたが――。
「あたいはいいぜ。あんたも地上で、多くを喪いすぎた。あたいらと同じに。――あんたを信じる」
「俺は信じないぞ。今度こそ、お前の信念を見せてもらうまではな。二度と俺たちを裏切るな」
オレは少し笑って、女神に歩み寄る。
そして腕に抱えた小さなオメガを、フィレムに渡す。
フィレムはその子を受け取るとオメガの頬を指先で撫で、まるで本当の母親のように屈託なく笑った。
そして彼女たちは、島の奥深くへと歩き去った。
彼女の後姿が見えなくなった頃、島の崩落も止まっていた。
オレたち三人は顔を見合わせて――肩を竦めた。
――終わったんだ。
これで本当に、全てが。
「で、俺たちはどうやって帰ればいいんだ?」
次回最終回。
最終話とエピローグを明日のうちに更新予定です。