48.4 「目標最接近まで二十分程度――。ノヴェル君からの連絡はなし。本来ならもう」
「ノヴェル君はまだなのか」
ノートンはジャックとの通信を終えてからずっとやきもきしていた。
船団からの情報によると、浮遊要塞の速度は減速しつつある。
目的地に近づいたからだろう。
エストーアの襲撃を目撃したベティ・キャスの証言にもあるように、浮遊要塞はターゲットに近づくと速度を落とす。
速度で揚力を得ているのではない。停止まで減速できると予想された。
現在時速は時速九十から七十キロ。無論対地速度でだ。
ポート・フィレム東の二十キロ地点の上空を飛行中であり、高度は九百メートル。更に高度を下げつつある。
単純計算では猶予は二十分程度しかない。
「――少し落ち着いてはどうだ。こっちが落ち着かん」
ノートンはずっと歩き回っていた。
「そうおっしゃいますが、目標最接近まで二十分程度――。ノヴェル君からの連絡はなし。本来ならもう魔力照射を開始してる予定ではないですか」
目視できる以上、迎撃範囲に入っている。
減速を考えると二十分は最悪値で、実際の猶予はそれよりある。
しかしポート・フィレムに被害を出さずに迎撃できる最終防衛ラインまではおそらくもっと短く――十五分かそれくらいであろう。
市民の避難は完了したと報告を受けていたが、ノヴェルの言った通りこれはそういう問題ではない。
あんなものが落ちてきたら、ポート・フィレムの再建は不可能だ。街の上に島が載ってしまうのだから。
「二十分あれば四本は煙草が吸えるであろう」
「それが、補充を忘れてしまって」
ノートンは煙草の空箱を握り潰す。
そして、紙箱の中に一本だけ残っていることに気付いた。
「あ――最後の一本」
そう言ってノートンは少しだけ笑ったが、誰も微笑み返さないので顔を引き締め、外に出た。
***
パイプの煙を深々と吐き出し、ディオニス――いや、メイヘムはファンゲリヲンを見て言った。
「珍しく貴様が『煙草と火をくれ』などというから来てみれば――そういうことか。貴様、そのような人間ゴッコに現を抜かしているから、斬り捨てられるのだぞ」
「メイヘム。尊公にだけは、言われたくないわ」
何を抜かす――とメイヘムはパイプの灰を落とす。
「メイヘム!」
オレは叫んでいた。戴冠のメイヘム、こいつは――七勇者の中でも選りすぐりのクソ野郎だ。
正体を隠し、居所を隠し、ノートンを騙して大皇女様を殺し、友人も裏切り続け、自国民さえ利用して捨てた。
その大仰な鎧さえ虚飾でしかない。
「その王冠を棄てろ。お前には似合わない」
これか、とメイヘムは頭に載せたそれを容易く抓んで、棄てて見せた。
「こんなもの、望んで継いだものではないわ。満足か? 満足したらなら死ね」
メイヘムの一撃は――目に留まらぬほど速かった。
ファンゲリヲンも、ぴくりとも動けなかった。
勿論オレもだ。
オレは――刺されていた。
その剣先がオレの腹に深々と食い込んでいる。
「――む?」
オレは後ろに飛んでいた。
正確には、飛ばされていた。
「臓物の手応えではないな。腹に何を隠しておる」
――宿帳だ。
これがなければ死んでいた。
「まぁ善い。腹が駄目なら首を刎ねるまで」
「メイヘム!」
今度叫んだのはファンゲリヲンだ。
叫ぶと同時に砂が舞い上がった。
オレは剣を受けた衝撃で呼吸が止まっていた。叫ぶことなんてできない。
ファンゲリヲンは地面に両手をつけて、砂を操作している。
メイヘムは片腕で両目を隠した。奴の目に、砂が入ったんだ。
その隙を突いてファンゲリヲンはメイヘムに飛び掛かり、その掌を奴の鎧にべた付けする。
ファンゲリヲンはオレを見た。
「下がっておれ! 即刻カタを付ける!」
途端に、鎧の隙間から瘴気のような黒い力が抜けだした。
両手を振り回し、メイヘムは砂嵐の中で暴れる。
暴れれば暴れるほどに黒い力は漏れ出し――。
(よ――鎧が!)
ガラガラと金属音を響かせて剥がれ落ちてゆく。
鎧の内側を満たしていた黒い力が消失したのだ。
メイヘムの本体は痩せている。黒い力がなければ、オレやファンゲリヲン同様に――肉弾戦向きじゃない。
ファンゲリヲンの起こした砂嵐が止むと、彼も距離をとっていた。
鎧がすっかり脱げおちている。
裸の王様は、自分の体を眺めて嗤った。
「カカカ、やってくれたな。まぁ善いわ。鼠を殺すのに鎧も要るまい」
オレは、ようやく息ができるようになっていた。
「――ふ、ふざけるな! それはイグズスに作らせた鎧だろうが!」
「イグズス――? ああ、そうであったかも知れぬな。いちいち鍛冶職人の名前など気にしておらぬ」
「な、仲間じゃないのかよ!」
それには答えず、メイヘムは身に余る大剣を棄て、鎧と共に落ちた普通の剣を手に取った。
それを振り上げて――飛び込んできた。
――見える。
さっきとは段違いに遅い。
「ぐっ」
オレは寸でのところで躱した。
遅いとはいえ、やっぱり速い。海賊や死にかけのゴアとは比べ物にならないほどに。
躱したと思った瞬間、奴はひらりと身を翻して上から斬りかかってくる。
は、速い――。
がぎん、とオレはナイフでそれを受けていた。
リーチが長い。
痩せていても上背がある。そこから振り下ろされる剣は、速くて重い。
ただ剣を振り回すだけで、予測不能の剣舞だ。
鎧がなくても変わらない。オレがまだ生きている要因はたったひとつ。奴の目に砂が入ったというただそれだけ。
「イグズスは仲間じゃないのかよ!」
「仲間などおらぬわ。己れはあいつが嫌いだ。でかくて――」
メイヘムは足払いで、オレの足元を攫った。
為す術もなく、オレは倒れる。
上からの刺突。
オレは砂地をごろごろ転がる。
「頑丈で――」
転がった先でも上から剣が襲う。
オレは転がり続けるしかない。
「――意外にすばしっこい」
距離をとって立ち上がる。
見ると、奴の足元に――またあの黒い力が集まり始めている。
「ファンゲリヲン! 奴の力が!」
そう呼ぶと、またすぐにファンゲリヲンが砂に手を突く。
するとメイヘムは、一目散にファンゲリヲンを狙った。
奴の足元の砂が、ドンドンと噴き上がるように弾ける。
でも一歩、メイヘムが速い。
ファンゲリヲンは咄嗟に上体を起こして避けようとしたが――奴の刃は、ファンゲリヲンを逃さなかった。
「ぐああっ」
避け切れずに一刀を浴びて地面に転がる。
――くそっ!!
あのときと同じだ。こんな姿を、二度見たくはなかった。
「己れは予言したぞ。人間ゴッコに現を抜かしよるから、斬り捨てられるのだとな。聞いていなかったか?」
オレは砂を掴み、メイヘムの背中に向かって走る。
「メイヘェェェェム!!」
奴は振り向いた。
オレは手の中の砂を思い切りその顔に浴びせる。
奴は顔を背ける。やった――こんなことに魔力なんか必要ないんだ。
しかし、瞑ったままだった左目を開いてオレを見ると、にやりと笑った。
読まれていた。
即座に冷たい鉄の剣を水平に繰り出してくる。
オレの首を狙って――。
そう来ると思った。
オレは腹から出していた宿帳を左腕に巻いて、首を狙った一撃を受ける。
「――! 帳面?」
読み切った。ほんの一瞬、奴は怯んだ。
ローブのフードに隠していたナイフを右手に、メイヘムのがら空きの脇腹を刺す。
「ぐ」
これまで何度も剣やナイフを振ってきたけど、まともに刺さったのはゴア以来じゃないか?
オレはその手応えを確かめつつ、跳んで離れた。
ナイフは抜いた。奴の脇腹から流れ出した鮮血は、砂に落ちて吸われている。
再び奴を包みつつあった黒い力は、流れ出した血を求めるように砂の上へと散ってゆく。
倒せはしないまでも、時間は稼げる。
「ファンゲリヲン! 大丈夫か!?」
オレは倒れていたファンゲリヲンに駆け寄る。
「か、掠り傷だ」
「ジャックみたいなことを言うのはやめろ! 手当を!」
「必要ない。どうせ二度は死なぬ。――君は早く出口へ行かねばならんのだろう?」
ファンゲリヲンは、血まみれの手で小高い山を指差す。
もう少しだ。ここでファンゲリヲンを置いて走れば、きっと間に合う。
でも――オレはファンゲリヲンを担いだ。
「もう少し、もう少しだけ――話をしたい」
「愚かなことだ」
メイヘムだ。
奴は後ろで、脇腹を押さえながら嗤う。
「そんなもの、棄ておけば逃げられようものを。少年、貴公はその道化と違い、死ねば終わりなのだぞ。まぁどうでも善い――」
死にたいなら殺してくれる、とメイヘムは剣を手に近づいてくる。
ファンゲリヲンはオレの胸を叩く。
「ノヴェル、残念だが――私の放蕩もここで終わりだ」
ファンゲリヲンは――自分の指を立て、自らのこめかみに当てた。
何を――するつもりだ。
ファンゲリヲンは魔力を操作できる。それが死者であってもだ。
「さらばだ。達者でな。ミランダにもよろしく伝えてくれ。多少、良い感じにな」
片眼を閉じて、ファンゲリヲンは笑った。
「や――やめろ!! やめてくれ!! ファンゲリヲン!!」
そのときだった。
遥か彼方から――物凄い風切り音を立てて何かが降ってきた。
隕石。
隕石かとも見紛うそれは、黒い手だった。
空に浮かぶ無数の立方体をひとつ掴み、こちらへ迫るメイヘムに向けて叩きつける。
「ソ――ソウィユノ!?」
ゴアやイグズスの姿はない。
小高い山の方から歩いてくる姿はソウィユノだ。
「やれやれ。せっかく出口で待ち構えておったのに――こんなところでお涙頂戴とは」
「ソウィユノ! なぜお前が――えっ? なんでそっちから? なんでメイヘムを?」
オレは前方のソウィユノと背後のメイヘムを交互に見た。
メイヘムは強烈な一撃をまともに食らい、背中を砂に埋めたまま大の字で空を見上げている。
本当ならソウィユノはまだ後方――オレたちの来たほうにいるはずじゃないか。山の方から来ることはないはずだ。
「なぜというなら君だ。君は謎だ。全くの謎だ。なぜ放蕩の者に拘る。私は知りたい。見届けたい」
私は本来ならば――と、ソウィユノは言った。
「少女にしか興味がないのだがね。うふふふふ。ミランダの中で、私も少し変わったのだろうか」
ミラの中にいたという、無欲のソウィユノが捨てた人間性の部分だ。
それが一人の人間としてそこにいる。向こうでイグズスと戦っている無欲のソウィユノとは別にだ。
もう一人のソウィユノはこちらへ歩いてきて、そのままオレの横を通り過ぎた。
さて――と奴は倒れているメイヘムに向かった。
メイヘムは――気絶してもいない。
目を剥いて、歯を食いしばり、周囲を威嚇している異様なオーラが、ここからでさえ判る。
「さて、この頑固者はこのただのソウィユノに任せてもらおうか。まだ話でもあるなら別だが――」
オレは首を横に振った。
生きているときだって何も語らなかった。オレはメイヘムに、何か考えがあってのことなのか訊こうとした。でもそいつは勝手に踵を返して、さっさと行ってしまったのだ。
「行こう」
ファンゲリヲンを再び担ぎ上げ、引きずりながら山を目指す。
振り返るとオレとファンゲリヲンの歩いた場所に、長く跡を引いていた。
「ノヴェル。どの道、私はその先へは行けない。置いて行け。もう充分だ」
「見届けてくれ。オレが――この先もやれるって」
小高い山を上り始めた。砂目は細かく、軽く、登りにくい。
やっとの思いで中腹に至り、そこから後ろを振り向いた。
――厄介な奴らが見えた。
メイヘムの剣撃を躱しながらも、やはり徐々に押されてくるもう一人のソウィユノ。
ゴアとソウィユノを抑えながらも、こちらへ押されてくるイグズス。
そして――ゴアがこちらに気付いた。
奴は無欲のソウィユノの手で高く飛び立ち、空中を飛び交う立方体を次々に乗り継いで、急速にこちらへ近づいていた。
「や、やばい。ゴアがこっちへ来る!」
オレは腰を入れて立ち上がり、必死に足を動かす。
でもこの山の砂は脆く、いとも簡単に崩れてしまう。
「ぶひゃひゃっ! おかしな山があると思って来てみれば!! 山登りとはな! 俺様を待っていたのか!?」
奴の声がして、オレは振り仰いだ。
奴は空中の立方体のひとつにとまっていた。
そこから山の山頂を見て、大笑いした。
「出口までもう少しじゃないか!! 頑張れ! 頑張れ!」
ふ――ふざけるなよ。
「いいぜぇ! そろそろお披露目といこうや。あっちじゃ拝ませてやれなかったからな! 俺様のでっかい花火で見送ってやろう!」
――奴の言っていた、暗い花火って奴か。
ポート・フィレムを街ごと焼き払って、地獄の釜の底にする花火だと奴は豪語していた。
「――少々まずそうだぞ!」
ただのソウィユノが叫び、白いローブの裾を翻してこちらへ走ってくる。
まずいな、と横でファンゲリヲンが短く言った。
何が始まるんだ。
七勇者の二大知恵者が揃って「まずい」と言う――そんなことがあるか?
「おいっ、どうなるんだ!? 知ってるんだろ!?」
「ノヴェル君、早く行くのだ!」
ファンゲリヲンは片手を斜面につける。
すると山頂までの砂が動いて、階段のように固まった。
「私はこれを維持する。早く――」
迷うほどの時間もなかった。
ゴアが掌をかざす。
すると、大きく半透明の黒い立方体が八つ、地上へと打ち下ろされた。
それは途中で張り合わさって、回転する一つの超立方体になって回転する。
四次元超立方体――回転すると、その立方体の内部に七つの立方体が内包しているのが見える。
「逃げろ!」
「もう遅い! ぶひゃひゃひゃひゃ」
ファンゲリヲンとゴアが叫び――その超立方体は地面に衝突した。
「間に合わん!」
ソウィユノの声とともに、オレとファンゲリヲンは黒い掌に包まれていた。
オレには何が起きているのか判らない。
ただのソウィユノの手で掬われ、オレたちは高々と放り上げられる。
殆ど同時に、地面に落ちた超立方体を中心に、ゴォッと青い炎のようなものが広がった。
それは瞬く間に石筍や岩を焼き尽くし、メイヘムを、イグズスを、ソウィユノを吹き飛ばす。
いつからいたのか、オーシュまで地面から飛び出し、炎に巻かれてその鮫の外殻を消失した。
空中をぐるぐると回転しながら、オレは見た。
魔力の砂でできた赤黒い大地に引火するように、炎は地平の果てまでも燃え広がってゆく。
音速を超えるだろう速度で――。
魔力を燃料にして燃える炎だ。
オレはくるくると空を舞い続けた。
まるで『鉛直投げ上げ』の実験だ。
それも高い。
どれほど高く放り投げられたのだろうか。
このまま空一面に広がる超巨大立方体にぶつかるのではないかというほど高く飛んで、やがてオレの体は落下を始めた。
「うわああああ――」
固い衝撃があって、オレの落下は止まった。
オレとファンゲリヲンは、空中の立方体のひとつに墜落していた。
下を見ると、ゴアの『花火』の着弾点には大きな、真っ黒い穴が開いて空間が渦を巻いている。
「な、なんだ――あの穴は」
「ちっ、悪運の強いガキと年寄りだ」
上の立方体に、ゴアが仁王立ちしていた。
「ソウィユノの野郎に救われたか。なんであいつ二人いるんだ?」
悔しそうに歯ぎしりする。
道理で――こんな大技は、日頃出せないわけだ。
「あ――あの穴は何だ! お前、何をした!」
「飛び込んでみるか? 元の世界に還って、オカーチャンに『ただいま』って言えるぞ!」
オレは立方体から恐る恐る身を乗り出して、遥か下の地面の穴を見る。
その足を、ファンゲリヲンが掴んだ。
「騙されるな。そんなわけはないのだ。あの穴は、本当の地獄に繋がっている」
可笑しそうにゴアは嗤う。
「ぶっひゃっひゃっ! 本当か? 見てきたのかよ教祖様? そもそも本当の地獄ってなあ何だよ! なぁガキ、そんなイカサマ野郎を信じるのはやめろ。俺様が太鼓判を押すんだ。信用しろよ」
「黙れゴア!」
オレはゴアにそう叫んで、ファンゲリヲンの顔を見る。
「頼む。オレを出口まで運んでくれ! このキューブを動かせないか!?」
やってみよう、とファンゲリヲンは頷く。
すると――オレたちの立方体は、高度を下げ始めた。
まるでコンテナの船だ。
「やった!! やったぞファンゲリヲン!!」
「思いのほか――使えるものだな」
立方体は動く。
砂は殆ど吹き飛んで、もうそこは山でも何でもなくなっていたが――辛うじて出口のある場所だとわかる。
そこを目指した。
「ああ! またあんたとドライブできるなんて! こうやってオーシュからも逃げた! 船を沈められて、コンテナを船代わりにして――!」
オイオイそんなのアリかよ、とゴアは不満そうに言って――立方体から飛び上がった。
飛翔し、オレたちの頭上で旋回する。
「なぁ、ガキ。考え直せ。話が上手すぎると思わないか? その出口は違うぞ! とんでもないところに出る!」
「うるさい! 黙れ!」
「俺様を信用しろ。お前は俺様を誤解してるんだよ! 俺様は投資家だ。話したろ。未来のある若者には投資を惜しまない!」
奴にはもう剣がない。
そしてここには、これだけ多くの魔力があるのに普通の魔術は使えない。女神がいないからだ。
オレたちに手は出せない。
奴はぐるぐると頭上を回って――やがてオレたちの立方体に飛び移ってきた。
「なるほど、快適な船だ」
「ゴア――!」
ゴアはファンゲリヲンの脇腹を蹴る。
ファンゲリヲンは呻いて、立方体が揺れた。
続いてゴアは振り返って、オレの胸倉を掴んだ。
そのままオレを立方体から外へ突き出す。
「思い出すなァ。お前はこうやって俺様をぶら下げた。あの宿の塔からだ」
「オレじゃない!」
オレの足元には――何もない。
数メートル下は、ゴアの開けた穴。
文字通り地獄の釜の底だ。比喩でも法螺でもなんでもなかった。
「なんて言ったっけ――『大地に聞いてみろ!』だっけ?」
「オレじゃないってば! 放せ!!」
「もう放していいのか?」
「放すな!!」
「――そうだなァ。俺様はあんまり、殺す相手に言葉をかけてやることはない。パッと面白い話ができなくてすまんが」
ゴアはそう言いながらあちこちに視線を泳がせ、唐突に何かを思いついたようだった。
「そうだ。俺様の投資の話をしよう。実のところ、散々だ。投資した相手が皆死んじまう。落っこちたり、爆発したりしてな。悲しいことだ。だがな、そうまでして空を飛ぶことには意味がある」
「くそが。お前だけ飛んでろ。また落ちて死ね」
「ブフフフ――そうだ。それだ。俺様はな、自分に投資しているのだ。若者に失敗させ、さっさと死ぬように導いてきた。空を飛ぶのは俺様だけでいいからな」
「ゴア――やっぱりお前は――クソ野郎だ。それでも世界じゃ――四番目だ」
四番目? とゴアは首を傾げた。
「適当こくなよ。一番から三番を挙げてみやがれ」
そのときだ。
オレは、穴の中から何かが出てくることに気付いた。
それは――人間の上半身だけが伸びた影に見えた。
顔はない。
でも頭だとは判る。両腕をあらん限りに伸ばし――。
「――!? こいつらは何だ!?」
ゴアは下の異状に気付いて取り乱す。
それは百か二百――かなりの数だ。我先にとゴアに飛びついて、奴の首、足、頭、腕へと手を這わせてゆく。
「おいっ! ガキ!! 何をした!! こいつらは――誰だ!」
奴にとっても予想外らしい。
奴は自分で開けた穴から、本物の怨念を呼び出した。
「やめろ! お前っ!! お前もっ!! 放せ! やめさせろ!!」
それが最後の言葉だった。
ゴアは――花瓶が割れるようにバラバラに砕けた。
あ――と思う間もなく、オレは自由落下する。
息を呑んだ。
でも、オレは逆様になったきり、落ちてはいかない。
立方体の端から、逆様にぶら下がっている。
穴から出現した無数の怨念は、ゴアの残骸を手に手に、穴の中へと戻って行った。
イグズスとただのソウィユノは――穴の縁でこちらに向けて手を振っている。
他の連中は見当たらない。吹き飛んだか、燃え尽きたか、穴に落ちたのか――。
「ひぃ――君が軽くて良かったが――ふぅ」
オレの足を、ファンゲリヲンが掴んでいた。
どうやら、オレを引っ張り上げてくれるほどの体力はもう残っていないようだ。
再び立方体は進み始める。
「ちゃんと食事は摂っているか?」
「あんまり――でも、これが済んだら、ゆっくり食べるよ」
「学堂はどうだ?」
「全然。でも、オレ、旅をするよ。あんたみたいに」
出口が見えてきた。
「ファンゲリヲン――オレ」
「言うな。もう充分だ。行ってきなさい」
そう言うと、ファンゲリヲンはオレの足首を掴んだ手を離した。
「ファン――」
さよならは言えなかった。
オレの体は、そこへ来た時と同じように、どこまでも落ちてゆく。
星と星の間のような空間を。
来たときとは少し違う決意を胸に。
もう、不安はなかった。
すいません、執筆が追い付いてないので次回更新は週末くらいになりそうです。
次回
Episode 49: フローライト
でお会いしましょう。