47.2 『エストーア陥落!』
中立国エストーア。
二百年前の大災厄のあと、地の女神アーセムによって建国されたこの国は、アーセムの亡き後も不干渉・不可侵を貫いていた。
海を隔てたウェガリア・ロ=アラモの聖地も、元は一つの聖地。
世界最大と言われる泉を擁し、それを守るためだけに一万二千人の神官を抱える。
国民全員が神官。
元首は天守に住まう賢人にして最高司祭と言われるが、外国人は首脳であっても対談を果たした者はいない。
その国については、過去数度だけ入国を許された使節団が伝えるのみである。
今、その謎の国に謎の島が迫りつつあった。
空飛ぶ島はあまりにも巨大であるため、動くだけで周辺の大気を激しくかき回す。
暴風が吹き荒れ、キャスは飛ばされないように必死で望遠鏡を押さえた。
(なんだこりゃあああっ)
空飛ぶ島は墜落するのではと思うほど高度を下げ、エストーアの城に接近してゆく。
飲み込まんばかりだ。
他人事じゃない。見上げればそこに島の、歪で複雑な岩石の構造がある。
キャスは思わず望遠鏡を外して腹ばいになった。
エストーアも負けてはいない。
その巨大な城壁に穿たれた無数の銃眼と天守から、大砲や投石などの質量兵器、そして大皇女級の特大サイズの魔術を放った。
その火焔は天翔ける大鷲にも似て、両の翼を羽ばたかせて空飛ぶ島を撃つ。
しかし――島は島、岩石の塊である。
焼けた巨石がバラバラと振り落ちるだけの結果に終わった。
その岩が地表の山肌を転げ落ちて、麓の森に火を放つ。
あっという間に周辺には、真っ黒な煙が幾筋も立ち上り始めた。
空飛ぶ島は、エストーアの反撃をものともしなかった。
(ああっ、これはまずい――歯が立たない)
キャスは望遠鏡を更に高倍率にして、煙の間のエストーアの様子を見る。
大勢の魔術師が天守に集まっているのが見えた。
そこで地の魔術を使い、壁を垂直に伸ばしているのだ。
通常、地の魔術は伝わるのが遅い。しかしエストーアの神官たちは高位の土魔術を弄し、たちどころに巨大で分厚い壁を構築してゆく。
だが――。
浮遊島が僅かに動いて、その風で森から昇る煙をひと浚いする。
そのまま新たに構築された壁に突っ込み、焼き菓子のように叩き崩してしまう。
ひとたまりもなかった。
空飛ぶ島は、エストーア城の巨躯に強引にめり込む。
崩れ落ちる瓦礫が、逃げ惑う神官たちに降り注ぐ。
緞帳を落とすようにエストーアの城壁が崩れ落ちた。
二百年、外界と関連を断ってきた屈強な城壁が、である。
内部構造が露わになる――。
ロンディアのように複雑な街が、城の内部に築かれていた。
中心部、内郭と思しき広場には巨大な砂の滝が見えた。
(あれが――アカデミーで習った『天つ賽』)
キャスは聞いたことがあった。
エストーアでは税制などの政策を決定する際にその滝を使うのだ。
複雑に沢山の釘を打った滝に砂を流すと、ミクロには砂の動きはそれぞれ二項分布する。
全体では正規分布に近づく。
政策のあらゆる点でそれを重みづけの計算に使っているらしいと、アカデミーで習ったものだ。
歪みない分布を得るには、注意深く釘のパターンを配置する必要があるはずだ。
キャスはそこに関心があった。
滝をもっとよく見ようと、キャスは更に倍率を上げる。
しかし、今そこを落ちるのは天の砂などではない。
瓦礫と神官たちだ。
落ちてゆく神官、一人一人までよく見える倍率にはなったが、生憎滝の構造まではよく見えなかった。
瓦礫の量が増している。
メリメリと、城全体に浮遊島が食い込んでゆく。
名高い伝説の滝『天つ賽』までが、端のほうから崩れ始めた。
(ああっ、人類史に残る重要史跡があっ)
滝のすぐ上は天守だ。
天守も崩れ、壁はすっかりなくなっていた。
大勢の神官が逃げだしている。
そこには大きな、輝く泉が残されていた。
――女神の泉だ。
そのすぐ傍らに、一人残った神官が背を向けて立っていた。
降り注ぐ瓦礫にも動じずに。
(あれが――エストーアの最高司祭――?)
キャスは固唾を呑んで見守る。
いつの間にか、天守だった場所は宙に浮かび始めた。
泉とその傍の神官が、エストーア城の中心が床ごと持ち去られようとしている。
神官が――徐にこちらを振り向いた。
赤茶色の長い毛並み。突き出した黒い額。
それは、猿であった。
(えっ?)
正確には類人猿、オランウータン。誰が言い出したものか、森の賢人とも呼ばれる。
白く高貴な法衣を着ているが、それは紛れもなくオランウータンである。
元首兼最高司祭は、何が起きたかも判らない様子で首を傾げたまま、泉と共に高く持ち上がり――浮遊島の上へと消えた。
謎の国は事実上、人による治政を放棄した国であった。
(すぐにパルマに知らせないと)
『エストーア陥落!』
そうキャスは書き殴ってベティに見せた。
すぐ脇に現れたベティの幻影は『あんたばっかり望遠鏡覗いてて全然見えなかった』と書いて見せた。
『エストーア城の真ん中から、泉と神官(猿)を奪った! すぐに報告して!』
『あんたを待たないと』
通信圏内まで、ここから車を飛ばして三時間はかかる。
下山に一時間以上かかるとすると、ベティを待たせる時間がもったいないと思えた。
空飛ぶあれがこの後、どこへ向かうにしても、だ。
『あたしを置いて行って! キャンプの資材も置いて行って! 迎えに来て!』
ベティの幻影は、やや逡巡しつつ二、三度頷いて消えた。
どこまで意図が伝わったかは判らないが――せめて最後の一文だけは忘れてくれぬよう、キャスは祈った。
振り向くとそこは燃える森、崩れた山、主を失った瓦礫の城――そして海へと飛び去る巨大な空飛ぶ島があった。
島は、森や北方の険しい山の、物々しいシルエットだ。
この世から二つの聖地を奪ったその島は、もはや大陸と呼ぶのがふさわしいように思えた。
***
エストーア陥落。
その報せは、まさにフィレムがそれを予言する瞬間に齎された。
ツインズ・オメガは世界中の女神の泉を回収する――オレたちは昨日、フィレムを尋問してその結論に至っていた。
「ベティノア分析官からの報告によりますと、現地時間の午後一時頃、ツインズ・オメガは東からエストーアを襲撃し、女神の泉と最高司祭と思われる――猿? ――を略奪し、西の外洋へ向かったとのことです」
時差を補正すると襲撃はパルマ時間の朝八時。四時間ほど前だ。
火の女神フィレムはその報告を聞いて小さく頷き、オレたちに向き直った。
「もはや疑いの余地はありません。ツインズ・オメガの浮遊島は、浮遊大陸としてこの世界を乗っ取るつもりでおります」
「どういうことなんだ」
「あの者は、聖域を奪い、その魔力を我が物とするだけではありません。空飛ぶ島への、地上からの入り口を奪おうとしているのです」
一同は首を傾げる。
事前に口を割らせていたジャックとオレたちだけは、その意味が判る。
爺さんが「なるほどな」と言った。
「フィレムよ。それは、女神の泉を通じて、あの浮遊要塞へ行けると、そういう意味か?」
「はい。その可能性があります。聖域の女神の泉は異界への出入口。異界を通じて泉同士は接続されています。あの者は、それを取り上げるつもりでおります」
ノートンが挙手する。
「可能性とは、どういう意味ですか。通じているのなら、泉のある場所をどこへでも行けるのではありませんか」
「我ら女神は自由に出入りができますが、人にそれが可能か試した者はおりません」
「異界とはつまり天界のことでしょうか」
姫様の質問に、フィレムは困ったような顔をした。
「何と言ったらいいか。異界は異界です。この世ならざる世界です。無数にあり、同時に同じ入り口を入っても同じ場所へは行けない。それは神々の世界――天界とは限らないのです」
「地獄かも知れない、と?」
「人にイメージしやすいように言うのであれば、そうです。わたくしが彼らに――アレスタとその息子たちに話したのはそこまでです」
「あんたはなぜそんな、泉の秘密を奴らに話したんだ? 俺たちの敵か?」
「そうではありません! この世界の外にも世界がある。わたくしは、女神病に苦しむ子供たちの希望になればと――」
そうだ。
フィレムは、はっきりとじゃないがロ=アラモでオレにもそんな話をしてくれたじゃないか。
「本当にそれだけか? あんたはそうして、人が神を造りだすうちに、あんたの妹が戻ってくるんじゃないかと期待してたんじゃないのか?」
女神病は、空間のどこかを漂う女神の欠片――その情報――量子ゆらぎというパラメータに触れることで感染する。
消滅したフィレムの妹の情報が残っているのなら、それは女神病の感染者の中にあるかも知れなかった。
「そ――そうかも知れません。そうだとして、わたくしが泉の秘密を教えたのは悪意からではなく――」
「善意からなら、なぜそこにいるミラの母親にはそれを教えてやらなかったんだ。彼女も女神病の犠牲者だ」
「ファサはスプレネムの土地です! 火の神たるわたくしが参るわけにはいきませんでした。ですが――ヘイムワース。あの者がファサから出た折りに間接的には、お伝えしました。何度も。しかしあの者は頑なで――」
それでファンゲリヲンは泉について詳しかったんだ。
ファンゲリヲン、いや、ヘイムワースはそれを知って尚、女神を信じずにツインズの話に乗ってしまった。
「だから七勇者のうち、ファンゲリヲンだけが泉の使い方を知っていた?」
「そうかも知れません」
ジャックが腕組みを解いた。
「――だそうだ。どうだ皆、この女神を許せるか? ミラ?」
「ああ、あたいは納得したぜ。あたいはこの神様をまだ信じるつもりだ」
ジャックは全員を見渡す。
皆、ぽつぽつと頷いた。
「ツインズ・オメガを止めるには、わたくしたちにはまだ神々の力が必要です」
「私も皇女陛下と同意見だ。ジャック君、進めてくれたまえ」
よかったな、とジャックがフィレムの肩を叩く。
びくんとフィレムが跳ねた。
「女神様の疑いが晴れたところで、早速だが対策会議に移ろう。オメガの狙いが明らかになったことで、次のターゲットがほぼ確実になった」
ジャックは星儀を動かし、光点でマークして見せた。
そこは――ポート・フィレムの近く、フィレムの森だ。
「聖域としてはロ=アラモもあるが、あっちは立ち入りが物理的に不可能だからな。女神様の言った通り奴が入り口の封鎖だとすりゃ、優先度はフィレムの森が高い」
リンと爺さんの転生に使った泉は宮殿に移されていたが、これは無用になったため既にフィレムが破壊したという。
「つまりこの森から迎撃ができる。オメガの、くそったれな空飛ぶ庭をな。ここにはフィレムの泉と、天文台が残る。そうだな?」
フィレムが頷いた。
それにしても迎撃とは――?
「ノートン、四時間前に奴はエストーアにいた。フィレムの森まで予想されるのはどれくらいだ?」
「う――再計算しないと断言はできないが、おそらくは二十四時間前後だろう」
「オーケイ。もう四時間が消えた。残り二十時間か」
ノートンもそれに同意した。
つまり残された時間は今夜いっぱい。
明日の朝、八時かそれくらいには――空からオメガがやってきてフィレムの森が襲撃される。
「幸い、奴は空にいる。角度次第で天文台から狙えるはずだ。マーリーン、二十時間以内にここの設備を復活させて、オメガに食らわしてやることは可能か?」
「二百年前と同じにだな。出番があるのではないかと思っておったわ。既にチャン・Bを呼んである」
オメガがヴォイドの特性を持つなら、魔力を照射することで倒せるわけだ。
「しかし二百年前は、三か所からの同時照射であった。今回は一か所からのみになるぞ」
「しょうがない。もう残る天文台はフィレムの森だけだ。ストーン・アレイも、エストーアももう奴の手の中だ」
つまりフィレムの森がやられたらもう終わり。
後がない。
爺さんは作戦の問題を指摘する。
「まだ問題はある。前回と違って、今回は標的が小さい。一定時間照射を続けるのに、奴が動き回っては困る」
「なるほど」
「下から撃っても当たるのか?」
「前回は光に乗せたから遮蔽物があってはいかんかった。今回も、光として打ち出すが、島の手前で魔力そのものに変化させる。遮蔽物の影響はない。多少、難しいがな」
なら問題は限られてくるとしても、オメガの位置を知る方法のほうは全く判らない。
「どうにかして奴の動きを正確に知り、それができぬなら奴の動きを止めておく必要があるのだ。でなければいくら魔力を撃っても無駄になるだけだ」
そんな方法があるだろうか。
一定時間、奴に魔力を浴びせ続ける方法――それさえできれば奴は消滅し、島は――。
「ま、待ってくれ。一つ忘れてる。もし、その方法でオメガを殺せたとして――浮遊島はどうなる? 堕ちるのか?」
全員が黙った。
「ポ、ポート・フィレムに――?」
「海上で撃ち落とす。心配は要らん」
「一定時間照射するって、爺さんが言ったろ。もし予想より時間がかかったら――? あそこには、オレの友達が――サイラスやミーシャがいるんだぞ!」
姫様がオレの前にまで出て来た。
「ノヴェル。作戦前に町民は避難させます。だからどうか」
「そういうことじゃない! 故郷なんだぞ――? オレだけじゃない。みんなの故郷だ。そこにそんな、大陸みたいなものが落ちてきたら――」
「ノヴェル。聞きなさい。全員が、国を、家族を、街を守るために善処します。ですが、全ては救えないこともあります。優先順位を付けなければならないこともあり得ます」
「つまり」
「ポート・フィレムも守ります。ですがお約束はできません。その代わり、全員を救出します」
オレは頷く。
頭では判ってるんだ。姫様が正しい。
でも心の整理がつかない。
「姫様!」
オレは、姫様の背中に向けて叫んだ。
「オレにできることはないんですか! 何か、街のためにできることは」
「――そうですね。避難を呼びかけるのを手伝ってください。ポート・フィレムに戻って、そこの人たちに伝えるのです」
すいません、久々に社に出たらなかなか帰れなかった。
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