47.1 「ノートンさんて、たまに頭おかしいよね」
チェーンで宙吊りにされる女神もいるなら、ロープ一本で崖にぶら下がる人間もいる。
「まったく人使いが荒い」
ファサの崖を垂直に昇りながら、ロウはぼやいた。
「本当に――こんなところにスプレネム様はいらっしゃるのですかね?」
五メートル下で、セスが大声を上げる。
いるさ、とロウは答えた。
気温も高く、前に登ったときよりは遥かに登り易い。
人手不足からロウは事前にファサの冒険者ギルドに立ち寄って募集をかけたが、ギルドは殆ど空っぽで芳しい反応はなかった。
山登りが趣味という若者を紹介されたのですぐさま声をかけたが、パルマ皇室と聞いて彼は顔色を変えた。女神絡み、特にスプレネム絡みということで敬遠された形だ。
元々あまり人望のある女神とは言えなかったことに加え、二度も立て続けに神罰を起こしたことですっかり恐れられているようだ。
ただでさえ、ブリタシアの事件で冒険者たちは駆り出されている。
(――どこも人材難だな)
ギルドでは気になる噂も耳にした。
ここ数日、魔術師らの魔術の出力が不安定になっているのだという。
報告された魔術の暴走事故は聖域並みに高い。不発の類はいちいち報告がないので把握が難しいが、暴走と不発は同根のものであるとすると同数以上のトラブルが起きているのだろう。
――バランスが崩れつつあるということだろうか。
大賢者、否、電子の神クォルタネムのぼやいていたこととも合致した。
ロウにはその説明はよく判らなかったが――魔力とは宇宙が生まれたばかりのころにひとつの力が分化したものの、亜流であるらしい。
その亜流も一つではなく、魔力や勇者の黒い力になったのだとかなんとか。
末端まで来るとどれが上流とか下流とかではなく、それぞれのバランスが肝要であるらしい。現象を記述する基本相互作用でバランスをとっているところに魔力が介入することで、ヴォイドが生まれる。
だがそこに生まれたヴォイドは、通常他の力によって無害のまま消滅する。いわば自己修復だ。
そのあたりが最新の研究成果だ。あの勉強熱心な皇女陛下やノートン室長が最新だというのだから本当に最新なのだろうし、『最新の研究成果』などと甚だ怪しいものに飛びつくしかないところも、事態が余程窮まっていることを示していた。
しかし世界は変わりゆく。
女神が消滅したり新たに神が生まれたり――ここ数週の間に、世界は大きく変化した。
突然スプレネムが姿を消したこともそれと関係があるのかも知れなかった。
(バランスなぁ)
ロウはロープを頼りに全身をスイングさせ、次に手をかける岩を掴む。
指先の力で全身を引き寄せ、火薬式の掘削ガンで新たなペグを打ち込み、下へロープを垂らす。
それをセスが掴んで更に登る。
そうして崖を上りきり、スプレネムの聖域へと足を踏み入れた。
「スプレネム! いるんだろう!」
山頂付近は煙っていた。
燃料式カンテラの赤い光を点けて、ロウとセスは靄の中を進む。
「出てこい! ミハエラ様の遣いの者だ! 手荒な真似は止せ!」
否応なしに警戒した。
前回は、ここで酷い目に遭わされたからだ。
「スプレネム! 危害は加えない! もうこんなことをする必要はないだろう!」
山頂へ向けて小川沿いに進む。
ヒッ――と息を呑む声がした。
セスではない。
ふっと靄が晴れ――そこに立つ者がいた。
女神スプレネムだ。
「バ、バ、バランス、バランスが――こ、こわ、く、くず、崩れ」
***
「世界のバランスが崩れつつあります」
女神フィレムはそう宣言した。
コーマとインターフェイスのいる集中治療室に、ミハエラ様、ジャック、ミラ、ノートン、爺さん、そしてオレが集まっていた。
フィレム神の希望で、主治医は外してもらっている。リンを連れてこなかったのは爺さんの判断だ。
カーライルは各国のチームとの通信を仕切るために手が離せない。
ジャックは昨日の非道などなかったかのように平然としている。ミラはもとより無口だが――どことなく気まずそうだ。
ミハエラ様以下、他のメンツはフィレム神が拷問されたことなどは知らない。
昨日から夜にかけてひっそり行われた女神の拷問から尋問を経て、一晩が過ぎていた。
これは、あくまでフィレム様が進んで話すことだ。
「ツインズ・オメガによって多量の魔力が地表から奪われました。これが、バランスを壊してこの惑星の魔力の量に影響を与えています」
「バランスが崩れると何が起こるのでしょう?」
ノートンがそう訊いて、答えたのは爺さんだ。
「バランスは全ての要。何が起こるかは予想できぬのう。魔力は偏り、魔術がコントロールできなくなり、ヴォイドの暴走が起こるかも知れぬ」
「それこそ、大祖母様が危惧されていた世界の終わり――なのですね」
「しかしながら――魔力は生きている限り回復するものではないのですか」
ノートンがそう言うと、フィレム神はやや不愉快そうに薄目でちらりとノートンを見た。
「そもそも回復とはどういう意味ですか? 魔力の上限はどのように決まるのです?」
「個人の持つ魔力の上限は、個人の適正と、遺伝の両面であると考えられております」
「適正? 遺伝? 定量的な話ではありませんね。大賢者の孫でありながら魔力を持たぬ者が、そこにいるではありませんか」
どうやらフィレム神はよっぽど虫の居所が悪いようだ。
まぁ、無理もない。人間風情に地下の入り江に吊るされたんだから。
「ガキをあんまりいじめるもんじゃないぜフィレム様。本題に入ってくれ」
ミラがそういうと、フィレム神は「私はそのように野蛮なことを致しません」と否定した。
決してジャックのほうを見ようとしない。
「――よろしい。あまり時間もありません。魔力とは相対的なもの――この世界の魔力の総量は、この世界の外の魔力量にバランスするよう決定されます。あなたがたが回復のように思っているのは、そのことです。従って個人の魔力もその影響下にあります。より正確には、魔力の存在する系ごとに。あなたはよくご存知ですね? 大賢者よ」
爺さんは頷き、相槌を打った。
「二百年前、多量の魔力を宇宙へ打ち出したからな。そのときも、この星の魔力は不安定になったのう」
「そうしたことは何も珍しいことではありません。神代より度々生じ、そのたびに私たち女神が介入することになっているのです。しかし二百年前、そして今回、これは人の手によって意図的に引き起こされたもの――そうですね?」
フィレム神は、ベッドの上で横になるコーマに鋭い視線を向けた。
コーマは、体の半分だけでこちらを睨んでいる。反対側がどんな顔をしているのかは見えなかった。
「神々は――そのバランスのためにこの世界におります。この星の魔力のバランスを保つための鍵が、女神の泉です。ひとつには、あの泉にはそのような働きがあります」
「だからツインズ・オメガは――ストーン・アレイを襲撃したのですか」
核心に迫ったかに見えるノートンの相槌に、フィレム神はイエスともノーとも答えない。
「泉は――無限に魔力が噴き出すわけではないのです。あくまでバランスのためだけです。ひとつの聖域が奪われた今、元の水準に戻ることはないでしょう。二百年前にも、私は世界のバランスを戻すために尽力をしました。ですがその過程で――小さな過ちを犯しました。女神病に感染したそこのアレスタの子供たちに――女神病を治す方法として、泉のことを教えたのです」
「フィレム様がですか? な、なぜそのようなことを――」
「私は――以前からアレスタとも、アリシア同様に懇意にしておりましたし、何より――女神病は、私の妹を切っ掛けに生まれてしまったものですから。私たちは二人で一人の女神でした」
ようやくフィレム神は白状した。
ツインズに泉の使い方、その働きを教えた。
それは同時に神を造る方法でもある。女神病に罹患した者を救うたった一つの方法は、神になることだからだ。
でも――ヴォイドの半神であるツインズに限っては、周辺の魔力をコントロールすることで自身を生かさず殺さず、延命することも可能だ。
つまりオメガには二つの選択肢がある。
泉を使って完全な神に転生すること。
どうにかして自身のヴォイドを安定させ続けること――。
「あの子――あの者は今、泉を使って神に転じるか――、もしくは何らかの方法で自身のヴォイドを安定させる必要があります。いずれにも泉を必要としますが――空に浮かべた聖域の安定は、地表の荒廃と引き換えになります」
泉があればツインズが神となって延命できるかというと――どうもその可能性は極めて低い。
「しかしながら、彼らをヴォイドの神として転生させることは、私には不可能と思えました。この世界では誰もヴォイドを知らないからです」
ヴォイドの力はレアだ。
光のような人気もなく、電気のようによく知られた力でもない。
殆ど全ての人間はヴォイドを知ることなく一生を終える。南の星空が吹き飛んだときだって――それは真空崩壊によるものであって、その裏にヴォイドのような力が隠れていたと知る者はごく数名だった。
「アリシア様たちが拵えた神だな? ありゃ胎児の姿だったぜ。ガラスの液体から出したら死にそうだった」
実際、生まれてきたヴォイドの神は胎児の姿をして、ガラス瓶の中ででしか生きられなかったのだ。
ミラの証言を受けて、フィレム様は頷く。
「ヴォイドの神など、この世界には存在できないのです。そして孤立は死を招く。自らを維持するための多量の魔力が得られなければ――消滅か暴走。一方で魔力量とは本質的には不安定。つまり――あの者が生存するためには、ひとつは自ら世界の魔力を完全にコントロールすることです」
「魔力を完全にコントロールする――? ではオメガは、そのために泉を使おうとしている? 空の上に、小さな箱庭世界を造って――」
この世界の魔力をコントロールできない代わりに空に小さい世界を造ってコントロールする――それも一つの方法かも知れない。
箱庭か箱舟か、はたまた世界から根こそぎ魔力を奪う海賊船か。
もっともらしい話だが、オレには弁解染みて聞こえた。
アレスタやツインズと関係があることは認めつつ、『箱庭世界説』を盾に自分の責任逃れをしているような。
なぜならその答えを、フィレムはもう知っているからだ。
チッ、とジャックが腕組みしたまま舌打ちする。
「はい。しかしながら、それだけではありません。更にあの女神の泉にはもうひとつ使い方があり、おそらくツインズ・オメガがやろうとしているのは――」
そのときだ。
女神の発言を遮って、「大変です!」と集中治療室の扉が開いた。
息を切らせたカーライルが転がり込んでくる。
「皇女陛下! 至急ご報告がございます!」
「この場で、皆にも知らせなさい」
カーライルは一堂を見渡し、口を開いた。
「中立国エストーアが――」
***
『見えてる?』
そう書かれた紙を、キャスは掲げていた。
「ああ、よーく見えてるよ、大飯食らいめ」
ベティはナッツを一つ抓んで、キャスに投げつける。
ナッツはキャスの体をすり抜けて、反対側の地面に落ちた。幻影だ。
二人はそれぞれ、離れた山の山頂にいる。
謎の国エストーアの城が見えるほどの距離まで迫っていた。
パルマに悲報が知らされる、その数時間前だ。
ベティとキャスは前日より、ノートン室長からの勅命を受けてここ、モートガルド大陸南部まで辿り着いた。
命令を受けたとき彼女たちは大陸中西部沿岸の通信網を敷設中で、ノートンの命令はそこから遥か南方のエストーアまで、可能な限り通信網を整備せよとのことだった。
『移動中はくれぐれも空に注意せよ』
そう指示されていた。
「空って何――またあのヤバいスティグマってヤツかなぁ。勘弁してよ」
「あんたが『船だけはもう厭だ』っていうからこんなことになったんだからね!」
南部を目指して移動中、ベティはキャスにそう文句を言っていた。
二人が以前搭乗していた船、ルーク・ミステスは突如現れたスティグマにより、一瞬で沈められた。
キュリオスで脱出した二人は、命からがらパルマに逃げ帰ったのである。
もっとも、スティグマという呼称はもう使われていないようだ。
指示書の付録によれば『新たな暗号名はツインズ・オメガ、及び
「ツインズ・コーマと呼称される』――って、えっ? なんで二人になってんの!?」
「『ツインズ・オメガが島を浮かべて、エストーアに向かっ』――えっ? 島?」
二人は車内で指示書を読み、ひっくり返った。
エストーアまでは相当な距離がある。
それでも旧モートガルドの整備したインフラのお陰で車が使え、移動は楽だった。
移動しながら、数十キロおきに中継機材を置く。
新型の魔術式で、魔力さえあれば電波を自動で中継してくれる。
ほぼ使い捨ての機材であったが、まさに今回の任務には適していた。
僻地でも通信が可能になる。
ただ、未開の地、中立国エストーアまで一日でとなるとこれはハードワークを越えた無理難題だ。
「ノートンさんて、たまに頭おかしいよね。煙草臭えし、ド近眼だし」
「でも室長は――室長なんかじゃなくて、もっとビッグになる器だと思うよ」
「あんた好きだもんね」
「もう、絶対ついてく」
「ついてくどころか、あたしたち島流しじゃん。この中継器と同じ、使い捨ての人材だよ」
「ところがよ、この新たに手に入れた光の魔術。こいつで活躍すりゃ、あたしの株も爆上がりってなもんよ、はっはっは。なっはっはっはっはっは」
キャスはステアリングから手を放し膝を叩いて笑った。
ちょっとちゃんと運転してよ、とベティは不安になる。
ハードワークと思ったが、この仕事は存外楽しい。
何やら世界はとにかく大変なことになっているようだけれど、この仕事は楽しい。
情報室に配属されて、スパイとかもっと夢のある仕事だと思っていたのに、これまでずっと名ばかりの引きこもり作業だった。
送られてくる電文をそのまま打ち込んだり、時にはまとめたり翻訳したりするだけ。
多くはないが時差もあって電文はいつ来るか判らず、待機待機でストレスが溜まる。
キャスなどは出発前「モートガルド怖い!! 巨人とかいるんでしょ!?」と泣いていたが、蓋を開けてみればずっと上機嫌だ。
南半球は冬の足音も近く、空気は清涼そのもの。
南部も深まると、巨人は確かに多かった。
言葉は判らなかったが気のいい連中で、はじめのうち巨人のほうがベティたちを恐れているように見えた。
長い間モートガルド人に迫害されていたせいで、特に街道沿いの街では威嚇されたりもした。
ただ――巨人といっても身長は二メートル前後。
確かに背は高いが、身の危険を感じるほどでもない。伝聞と異なり目も二つ付いている。
朝になり、彼女たち二人は中立国エストーア付近にまで迫っていた。
地図上ではもう車で二、三時間というところまで来たが、そこからはもう道がない。
険しい山脈に阻まれた。
中継機材の在庫もとうに尽きていた。結局、通信をエストーアまで伸ばすことはできなかったのだ。
何か起きたらその報告には、車で二百キロ戻って通信圏内に入らなければならない。
ここからは山岳装備に切り替えたキャスが一人で山脈を攻略し、エストーアを監視できる範囲まで近づく。
このためにカロリーを蓄えてきたというが、ベティは不安だ。
絶対に落とさないでよ、と小型通信機を渡した。
その通信可能範囲も越えてしまうだろう。そうなればもう、山に登って光魔術に頼るしかない。
ベティは近くの山頂で待機する。
一足先に山頂に到着したベティは、凍える手を擦りながらナッツ缶を開けていた。
『見えてる?』
やがてキャスも到着した。
そう書かれた紙を、キャスは掲げていた。
二人はそれぞれ離れた山の頂で、お互いの姿を光魔術によって確認した。
声はとても届かないから、筆談することにしたわけだ。
キャスの幻影にナッツを投げたあと、ベティはメッセージを書いて見せた。
『エストーアってどんな感じ?』
キャスもそれに応じる。
『山の上のお城だね。お城だけ。お城が国』
人口不明。一説によると数千人規模の、小さな街ほどの人口だ。
聖地を擁し、住民全員が神官であるという。
地図上、ここは既にエストーアのはずなのに、国境にすら何もなかった。
国土のうち人が居住しているのはあの城のみである。
『もしかして、これ覗けたりする?』
と、キャスの幻影は望遠鏡を固定して見せた。
その望遠鏡も幻影にすぎなかったが――覗いてみると、なんとその望遠鏡の景色がベティにも見える。
灰色の険しい山肌、その山頂ににょっきりと突き出した黄金色の巨大な城壁。
全体が巨大な円筒形になっており、天守らしき部分が上部に僅かに覗くのみ。
――これがあのエストー――。
その景色がフッと真っ暗になった。
望遠鏡を塞がれたのだ。
「ちょっと――」
ベティが慌てて望遠鏡から目を離すと、慌てた様子のキャスが紙に何か書き殴っていた。
周囲が妙に暗い。
キャスは書きながら、『あれ、あれ』と指で東の空を示す。
思わず振り返る。
振り仰いだ空に――巨大な島があった。
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