2.5 「殺せば死ぬ。道理でありましょう」
水の女神の名前を「スプレネム」に変更 (20/06/28)
燃え上がるような、しかし真っ暗な闇があった。その闇が、巨大な腕の形になり、生えている。
ソウィユノの右肩からだ。
こんな魔術を君たちは見たことがあるか――奴は勝ち誇ったようにそう言った。
少し考えるうち、段々これが有り得ないってことが染みてくる。
こんな風に象られ、その像を保っているような――そんな魔術は聞いたこともない。
まして闇、だろうか。闇とは光の罔いことを言うんじゃないのか。
要素のように何かの作用をさせることができるなんて、いや、それだけで存在するなんて考えられない。
魔力に縁がないオレでも、こんなバカげたことは考えない。
家に手刀だと? こんな破壊力と正確さで――。
立っているのはソウィユノと、背後のミラのみ。
ジャックはギリギリのところで腕の一撃を避けたのか、残った床の上に倒れて――なんとか起き上がろうとしている。
「おや。少女に当たってしまったかな。君が躱してしまうからだよ」
リンの居たテーブルが、無い。
テーブルは砕け、椅子はぺしゃんこになって散らばり、リン、リンは――。
壁の近く、粉々になったテーブルの木材の中に倒れ、小さく痙攣していた。
多量の出血をし、猿轡の間からもさらに出血している。
「リン!!!」
オレは叫んで、駆けつけてしまっていた。
もう一人居たのか、とソウィユノは笑った。
「これはこれは。今日は来客が多い。この無欲のソウィユノ、我が理想の在り方も形無しである。未熟なことと、わが身を深く恥じ入ることよ」
ソウィユノは一人、まだ朗々と何かを吟じていたが、オレの耳には入っても来なかった。
オレは倒れたリンに取りすがり、呼びかけた。
返事はない。
どうにか直撃を免れたようではある。吹き飛んだテーブルに弾かれたようだ。
ゴボゴボと口から血の泡を噴くばかりで、オレは何とか猿轡を外して……。
出血を、傷口を押さえて……。
「ダメだ! 血が止まらない!」
視界が滲む。泣いている場合じゃないのに。
「助けて!」
誰か、誰か治療を。
止血ができる魔術はないのか?
ミラは口を押えて、こちらとジャックとソウィユノを交互に見ている。
ジャックは呻きながら立ち上がろうとしては、腰から崩れ落ちている。
オレが今こそ魔術を――。
「水の神スプレネムの名において――止血を……」
手を翳す。
当たり前のように、何もおきない。
「風と大気の神アトモセムよ。御身に触れる者どもの、喉に、肺に、風の息吹を」
何も起きない。
「なんでだ! なんで誰も応えない!」
ミラが、弾かれたようにこちらに駆け出したが――ソウィユノの左手に阻まれた。
オレが使えない魔術を必死で試すのを、ソウィユノはさぞ面白そうに見ている。
奴は笑いながら血に汚れた自らのマントを取ると、その左の脇腹に、鮮血の痕がある。
そこから真っ黒で小さな無数の腕が生えていて、奴の傷口を縫い合わせてゆく。
「お願いだ、勇者よ。あんたの目的は爺さんなんだろう!? オレがマーリーンの孫だよ! オレがリンの代わりになる! 頼むから、その魔術でリンを救ってくれ!」
「……ん。なるほど。悪い話ではないな。だが見たところ、手遅れのようだが」
ハッとして、リンを見た。
呼吸がない。血も噴いていない。
目隠しを外した。
その眼には――光がなかった。
「――リン? ……リン」
「案ずるな。私なら、その死んだ娘を蘇らせることができる。半日ほどかかるが、どうだね」
蘇す――だと?
「……耳を貸すな、ノヴェル。そいつの言っているのは……蘇生なんかじゃない。死霊術のことだ……」
君は――とソウィユノが巨大な腕で、ジャックの足を抓んで持ち上げた。
「君は少しおしゃべりが過ぎるな」
そう言って、ジャックをポイと真上に放り投げる。
ジャックは崩れかけた天井を突き破って消えた。更に上階の天井に当たる衝撃の後、再びその穴から落ちてきて床に激突した。
ぐったりと倒れたジャックの上にばらばらと、天井の木材が剥がれて落ちる。
どうすればいいんだ。
爺さん――。
『困ったら割れ』
そうだ。爺さんから預かった、あの黒い小瓶がある。
この状況で、何の役に立つかは知らない。
知らないが、もうこれにすがるしかない。すがると決めたら、もう迷うことはない。
ポケットから瓶を取り出す。
その口を捻ると、瓶のくびれた口がポキリと折れた。
すると、不思議な光が、中から漏れ出す。
妖精のような、光る小さな粒が互いに踊るように空中に、飛び出してくる。
なんだこれは。
わからない。
わからないが、オレはもう夢中で、それを捕まえた。
リンの口に、それを放り込む。
飲み込まない。
だから瓶をリンの口に押し込んだ。
「なんだね。それは」
リンの口から、光が漏れ――。
その眼に、輝きが戻る。
リンは激しく何度かむせ返り、血の塊を吐き出すと……呼吸を始めた。
「それはなんだね。どういうものか。どこで手に入れた。言いたまえ」
焦りだ。
その言葉の端々から、焦りを感じる。
オレが知るかよ。
そんなことより、リンを連れてどう逃げるか。
何と言って奴の気を逸らすか……。
「答えないか。いや、知らないのか? ならば仕方がない。その娘を裂いて、取り出して調べる」
ソウィユノが、あの大きな黒い腕を振り上げた。
オレはリンと腕の間に立って……こんなことしたって、あの腕の破壊力だ。気休めにもならない。
黒い腕は、天井近くで拳を握り、そこから真っすぐにオレとリンの方へ――。
「ワシが渡した」
よく知った声がした。
鼻先まで迫った腕がピタリと止まる。
オレの背後を見たソウィユノが、目を剥いた。
「あなたが……あなたが大賢者か」
振り向く。
そこに、ゾディ爺さんがいた。
爺さんは、死んでいなかった。
「やれやれ。遅くなってすまんの。魔物どもが、思ったより散らけていてな。まさか、七勇者に手を出す粗忽者がいるとは思わんかった。それが孫とは、さすがにこのワシにも予想できんかったわい」
そう言いながら、爺さんはリンの横にしゃがみ込んだ。
「全く。苦労をかけた。痛かったろう。怖かったろう。死んでも詫びきれん」
頬を撫でる痩せた手に、リンは無言で応じた。
「動くでない。肺の出血を止め、心の臓の痙攣を取り除いて動かしただけじゃ。生命力の強い子でよかった」
「どういうことかね。どうしたらそんなことが」
「何。ただの救命処置じゃよ。お主、人間は殺せば死ぬと、そう思うておるじゃろ」
「殺せば死ぬ。道理でありましょう」
「そうして何人も殺してきたか? ワシのために?」
「大賢者よ。私は無欲のソウィユノ。一命により、貴方様をお迎えに上がった。仰せの通り、今宵の犠牲は貴方様のため。貴方様が来ぬと仰るなら……翻意なさるまで、まだ幾人でも殺す覚悟です」
「これまでの、他所の惨事は知らんと申すか」
「寡聞にて」
「シラを切りよる」
オレは……ようやく口が利けるようになった。
「爺さん……オレはてっきり、あんたが死んだんだと。魔術ショーに出た後、ロイって奴と戦って」
「魔術ショー? 何のことかわからん」
「サイラスの家の、酒場で『マーリーンの魔術ショー』が」
「あの悪趣味な宿か。知らん。贋物か、人違いじゃろ。マーリーンなんて名は、六十年も前に捨てたもの。ワシはただのゾディ爺。お前の爺様じゃ」
「なら今までどこに!? 心配……したんだぞ!」
悪かった悪かった、と爺さんは表情一つ変えずに言った。
「何。その者がここへ来たとき、すぐにわかった。ワシに害意のある者には、看板が違って見えるようにしておいたからの。ワシは一旦外に出て、街の外でゴブリンどもを見つけた。大勢な。奴の暗示を解く時間はなかったから、阿片を与えた」
「阿片……?」
「まあ、そんなもの沢山はないからな。少量じゃよ? 彼奴等もそういう情報は足が速くてな……まぁまぁ効いたが、襲撃は止められなんだ。あとはコレを奪えと誘導したのよ。門の兵士は残念じゃったが……港は無事じゃ」
「……」
ソウィユノは苦々しい表情で聞いていた。
「……お話はわかりました。なぜ今宵の襲撃が大失敗に終わったのかも。予定数の死者を出せず、このままでは大変な事態になりましょう。だが、貴方様の責任は問わないとお約束します」
「もう少し喜んでくれると思ってしたことじゃがね」
「その咎はゴアが負います。私の目的は、貴方様の保護のみ」
そりゃそっちの都合じゃろ、と爺さんは言った。
爺さんは落ちていたナイフを拾い上げ、袖口で血を拭う。
ナイフの刃を見つめながら、ソウィユノに聞いた。
「ワシはこの者らの安全さえ保証してもらえればいい。さて、この老いぼれに、一体何をさせようというのか」
「お答えする言葉を持ちません。私などには理解できぬこと。あのお方に直接お尋ねを……さて」
「まぁ、連れてゆくがよい。ワシは元よりその覚悟よ。……孫の顔を見たら、決心が鈍ってしまうがね」
「……悼み入りますぞ」
なんだかさっきから妙だ。
ソウィユノは一歩も動かないわりに、落ち着きがない。そわそわとして、正面から爺さんを見ない。
何かを警戒しているような、待っているような。
「さても、さても。さても、といったところですが」
「なんじゃ。早く連れて行け」
「よろしいのですか」
「かまわんよ。ワシはどうせ死んだと思われてたみたいだし」
爺さんは残った椅子の座面にようやくナイフを置くと、呆れたように言う。
待て、待ってくれ。
それでいいのか? 本当に?
「……爺さん、行かないでくれ。そいつらの仲間になんかなるな」
「心配するでない。孫よ、お前達にしてやれなんだことの多さよ。二百年生かされて、これほど悔しいことはない。だが」
爺さんは振り向きもせずに言う。
「元々、この世はもうお前達若者のものじゃ。お若い人、名も聞けなんだが、孫たちが世話になったようだ。礼をいう。さぁ、あとは、お前達に任せたぞ」
待ってくれ。
自分だけ言いたいことを言いやがって。
こっちはまだ言いたいことがあるんだ。
なのになぜだ、言葉が何も出てこない。
ソウィユノはまじまじと爺さんと対峙し、その眼をのぞき込んだ。
おそらく、読み取っている。
爺さんの真意を。
「……たしかに。大賢者マーリーンよ。貴方様のご覚悟は拝見しました。参りましょう」
ソウィユノの巨大な腕が伸びて、爺さんを掴んだ。
爺さんの痩せた体が持ち上がる。
そのとき、爺さんは一瞬だけちらりと――こちらを見た。
そのままソウィユノのほうに引き寄せられ、額が付くほどの距離になった。
と。
ソウィユノの顔が、歪んだ。
二人の足元が、真っすぐの直線で四角く切り取られる。
そこから、光が伸びあがる。
「な、何を」
「結界じゃな。逃れられんよ?」
ソウィユノの背中を治療していた黒い小さな腕が伸びて、光の壁を破ろうとする。
その腕は、光の壁に当たって破裂し、闇をぶちまけて消滅した。
「あなたは……行くと。連れて行けと! 私は、その覚悟をこの目で見た!」
「お主の技術はいいとこ二流よ。ワシの看板も見破れなかったんだから。そんなもんに頼っているから」
「私を! 謀ったのか! この! 無欲のソウィユノを!」
苦しみにもがく様に、奴は叫んだ。
「謀る? そんな上等なもんじゃないて。お主、騙されたんだよ。バーカ」
長髪の僧は、化け物じみた声を上げて喚く。
何を言っているのかはひとつも聞き取れないが……凄まじい怨嗟だ。
「こんな! こんなことがぁ!! こんな老人に、この……」
「ああ。ああ。無欲のソウィユノな? お主ら、よくそういう二つ名を名乗れるよね。自分でさ。とはいえワシも、いっぺんやってみたかった」
気が付くと、オレの肩に掴まってジャックが立っていた。
ミラも、リンを庇うようにその傍らに居た。
「我は大賢者マーリーン! 光の神フォテム、その名を使めて貴様に天中を下す!」
ぐああああ、とソウィユノが絶叫した。
その黒く巨大な腕に力が籠る。
ブチブチと音を立ててその腕は弾けつつあるが、尚も力強く、爺さんを掴んでいた。
「……ああ、やはり、こそばゆいものじゃな。しかしよかろう、死ぬ前くらいは」
「馬鹿な! でたらめだ! 光の神などいない!」
「居らなんだよ。だからな、造ったんだ。ワシらが」
「……つ、造った……?」
一瞬、呆けたような顔をしたソウィユノだったが。
「戯言を抜かせマーリーン! 黙らぬつもりなら……よかろう……喋れぬようにしてくれる」
ソウィユノは獣のような形相になった。
暗黒の腕がひと際力強く、爺さんを締め上げるのがわかる。
爺さんは光の壁の中から、こちらを見た。
苦しいはずだ。
それでも――フッと小さく笑った。
まるで懐かしいものを見るような、少しの寂しさを残して。
光が弾けた。
目を開けてはいられないほど。
続く轟音と爆風に、オレは、意識を失ったようだった。
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