第一章その8(東京都渋谷区南平台町)
「もう、それならそうと昨日のうちに言ってくれれば呑気にゲームなんかやってないで一緒に看病したのに……」
「どっちに転がったって結局おれをロリコン呼ばわりしてただろう」
「そんなの分かんないよ」
「いや、今はあーだこーだ言ってる場合じゃない。これは一体どうしたものかな」
おれが小さくため息をついている向こうでは、ミチが幼女にドライヤーで髪に温風をあて、丁寧にブラッシングをかけている。もちろん幼女は全裸ではなく、ミチが小学生の頃着ていたTシャツとハーフパンツを身に纏っている。
「いいなぁ、ちゃんとメンテナンスされたすごくきれいな髪。たぶんだけど、お金持ちの家の子だと思うんだよね」
ミチは幼女の長い髪を撫でながら恍惚の表情を浮かべている。
「さすがにいつまでもうっとりしている場合じゃないぞ。もしミチが言うとおり金持ちの家の子なら――いやまぁ、普通の家の子でも今頃大騒ぎになっているだろうから。でもなぁ……」
「うん。だったら……」
ミチはドライヤーの電源を切ると幼女の目の前に回り込み、右手の人差し指を自身に向けると、「ワタシはミチ、ミチ」と語りかけ、次にその人差し指をおれに向けながら「シン、シン」と語りかける。
「ミ……チ……、シ……ン……」
幼女がたどたどしくおれたちの名前を復唱する。
「それじゃ、君の名前は?」
ミチはおれに向けていた人差し指を幼女に向けて名前を聞く。すると幼女は何かを思いついたような表情を見せながら一言「メル」とだけ答える。どうやらおれたちの意図は理解できたらしい。
「ひとまず名前は分かったな。次は場所だ」
おれは今なお悪臭漂う自分の部屋に戻ると本棚から高校時代の地図帳を取り出し、ソファにちょこんと座るメルに向かってメルカトル図法で描かれた世界地図のページを開き、「おれたちは今、ここにいる。お前は一体どこから来たんだ?」と言いながら日本の本州あたりを指さし、さらに関東地方の地図が描かれている縮尺の大きいページを開いて渋谷区のあたりを指さすと、ページを再び世界地図に戻す。するとメルは興味深そうに地図を数分見つめるが、どういうわけか頭を上げてゆっくりとかぶりを振る。
「首を振った。一体どう言う意味だ?」
おれはメルの動きに疑問を抱きつつも、ヨーロッパ、アジア、北米、南米、オセアニア、アフリカそしてまさかの南極と、各地のページを開いて見せるが、メルはそのどれに対しても強い反応を見せず、再びかぶりを振っている。
「各大陸のどれでもない……ということは、一体どういうことだ……」
世界地図というものの存在を知らないのか、それともただのアホなのか……。おれは頭を抱えるが、あくまで彼女の見た目から判断したおれの主観ではあるものの、決して頭が悪いようには見えなかった。むしろ熱が下がってからというものの、彼女は終始落ち着いた様子を崩すことも、喜怒哀楽いずれの表情を見せることもなく、一貫してニュートラルな表情のまま一切変わらない様子はおれにとって少し不気味ですらあった。
「日本語が通じないとなると、正解にたどり着くのも結構難しいぞ」
「うん。考える手がかりや材料が何もないのに考えたってしょうがないしね。せめてこの子が何語を話してるのかだけでも分かればいいんだけど……そうだっ! あそこなら分かるかも知れない」
「何か手掛かりのあてでもあるのか?」
「手掛かりというか何というか……いずれにしろ今日は祝日だから無理。だからとりあえずピザでも頼もうか。シン君、マルゲリータの生地が薄いヤツ頼んでおいてね」
「って、手掛かりが無いからピザにするってどういう論理なんだよ……まぁ、別にいいか。ピザ食うの久しぶりだしな」
おれは独り言のように文句を言いながらテーブルの上に置かれているピザ屋のチラシを手に取ると、固定電話の子機から電話を掛け、マルゲリータとシュープリームのMサイズを一枚ずつ注文したのだった。