第一章その5(東京都渋谷区南平台町)
おれは女の子をローブごと抱きかかえると、階段を降りて五階の自宅に運び込む。そして自分の部屋のベッドに寝かしつけ、救急車を呼ぶべくスマートフォンを取り出し1を二回押すが、9を押す直前に彼女の身元が分からないことに気付き、電話をかけるのをやめる。
こういう時には何をすればいい? 粥か? ハニージンジャーティーか? いや、まずは摂取しやすい水分だと判断したおれは冷蔵庫からアクエリアスを取り出すと、キャップを開けて女の子の口に流し込む。すると彼女は喉が渇いていたのか、意識を失った状態のまま砂が水を吸い取るかの如くゴクゴクと喉を鳴らし、あっという間に五〇〇ミリリットルのペットボトルを空にしてしまった。
少し落ち着きを取り戻したおれは、クローゼットから先日しまったばかりの毛布を二枚引っ張り出す。ところが毛布を掛けるべく女の子を覆っていた掛け布団を剥がした瞬間、生ゴミのような悪臭がおれの鼻腔を急襲する。
「ゲホッ、ゲホッ、く……くっせぇ……」
おれは涙目になり、気を失いそうになりながらも部屋の窓を全開にして新鮮な空気を取り込む。
「臭いの原因はこれか……だが許せ。緊急事態だ」
おれは彼女を包む悪臭漂う黒いローブを脱がせると、綿でできていると思われる、今まで見たことがない形状の下着姿が露わになる。相変わらず汗臭く、下着もぐっしょりと濡れているが、これ以上脱がせるのはさすがにはばかられる。
おれはキッチンからウェットティッシュを持ってくると、容器から数枚取り出して汗まみれになっている女の子の白い肌が露わな四肢そしてお腹のあたりの汗と汚れを拭き取る。
女の子はみるみるうちに黒くなるウェットティッシュの冷たさに最初は少しびくつきながらも、高い体温の熱がアルコールの気化で奪われていくにつれ、苦しそうな表情が徐々に和らいでいく。そしてそんな彼女の姿に少し安堵したおれは二枚の毛布と掛け布団を掛ける。
改めて彼女の黒いローブを見たおれは、そのローブがセンター街や目黒の山手通り沿いのディスカウントストアに置かれているような化学繊維で作られた宴会用のチープなものではなく、綿でもなければましてや絹や麻でもない、今まで目にしたことがないような繊維で作られていることに気付く。だが、このままでは分析が完了する前に自分の鼻がダメになってしまいそうだ。さりとて未知の繊維で作られたローブを洗濯機に突っ込んだとしても臭いはきれいさっぱり無くなってしまうかも知れないが、今度は異常に縮んだとかボロボロになってしまったといった別の問題が出てきてしまうかも知れない。
おれは部屋を見渡し、机の上に置かれたアマゾンの箱を手に取ると、ひとまず中に入っている数冊の本の代わりにローブを詰め込み、臭いが漏れないようガムテープできっちりと密閉する。『臭い物には蓋』ではないが、正しい対処法が分からない以上、ひとまず先送りしなければ部屋中が生ゴミのような臭いで充満し、到底生活などできなくなってしまう。
だが、材質は分からないもののこのローブの縫製はしっかりしており、日常的に使用することを目的としたものであることが推察できる。
デザインもコスプレの割には手が込んでいるし、ハロウィーンは半年も先だから菓子が欲しかったわけでもあるまい。
果たしてこの子は一体何の目的でうちのマンションに闖入したのだろう。
看病しながらいくら考えても答えが出ないまま夕方を迎えたその時、玄関のドアの鍵が開き、何者かが部屋の中へと入ってくる。しまった! 部屋のドアが開けっ放しだ。このままではおれが身元不明の幼女をかくまっていることがバレてしまう。
「お、おう、来たか」
おれは部屋から出てそれとなくドアを閉めると、努めて冷静に来客に向かって声を掛ける。
「うん」
大学から戻ってきた来客ことミチは玄関から家に入ると躊躇なくリビングルームに足を踏み入れ、バッグをオットマンの上に置き、まるで自分の家にいるかのようにそのままソファの上にダイブする。スカートがめくれ、中のパンツが見えそうに――いや、正確に言えば少し見えているが、おれは敢えて見なかったことにして夕食の準備を始める。
「パスタとサラダでいいか? スーパー行ってないんだ」
「えっ、午後あんなに時間があったのに、何か別の用事でもあったの?」
「あ、いや……別に……つい昼寝しちゃって……」
「ふーん、珍しいね」
ミチはおれの問いに生返事をしながらテレビのリモコンに手を伸ばしている。画面に映し出された夕方のニュースでは成田空港や関西空港で大型連休を使って海外へ渡航する人々の様子や、記者のどこへ行くのか? という質問に頭の悪そうな子どもが頭の悪そうな声で「インドネシア!」と答える様子が流れている。
「おじさんとおばさん、また旅行か?」
「そうみたい。でもどこ行ってるかよく分からないんだよね。国内に行ってるんだか海外に行ってるんだか」
ミチはリモコンでチャンネルをザッピングしながら答えると、この時間の地上波はどの局も同じような番組しかやってないんよなぁなどと独り言を言いながらケーブルテレビのアニメ専門チャンネルにチャンネルを合わせ、ようやくリモコンをローテーブルの上に置く。
「ところでさぁ……」
「ん?」
「この部屋、臭くない?」
「そ、そうか?」
ミチの指摘におれの背筋が一気に凍る。ていうか心臓に悪い。
「いや、正確に言うならこの部屋じゃなくてシン君の部屋のほうから臭ってくる。何なんだろう、この汗臭さと酸っぱさが混じったような臭いは……」
「き、気のせいじゃないのか? いや、違う。たまたま洗濯物が溜まってたし、汗をかいたまま放っておいたスポーツウェアの臭いじゃないか?」
おれはエプロン姿のままキッチンからリビングルームに移動すると、それとなく開けっ放しだったおれの部屋のドアをゆっくりと閉め、再びキッチンへと戻る。
「ええっ、洗濯物溜まってんの? 洗濯してあげようか?」
「遠慮しとく」
「どーして?」
「少なくともおれはミチより家事能力は高いし、先月純白の男物のシャツをピンクの『セクシーランジェリー』に変えた奴が何を言っている?」
「それを言われるとぐうの音も出ない……。でもなぁ。この臭い、臭いことは臭いんだけど、男臭さとは違うみたいだよね。何というか、男子が使ってた防具と女子が使ってた防具の違いみたいな感じというか……」
ミチはおれ同様剣道経験者であり、経験者ならではの言い回しで臭いの違いを指摘する。
「とにかくおれの部屋のドアは閉めといたからもう臭ってこないだろ。それよりもそろそろできるから皿とか出すのを手伝ってくれ」
「はーい」
おれたち二人が夕食を食べ終えたあともミチはゲーム機のVRゴーグルを被ってリビングを右往左往した挙げ句足の小指をローテーブルの足にぶつけて苦悶したり、オンライン配信の外国ドラマを見たりと自由に過ごした挙げ句、眠くなったという理由で日付が変わった頃にようやく斜め向かいにある自宅へと帰っていった。
おれはベランダからミチが自宅に戻り、十数秒後に二階の窓が明るくなったのを確かめると、キッチンに戻って冷蔵庫からアクエリアスのペットボトルを一本取り出し、音を立てないようゆっくりおれの部屋のドアを開けて中に入る。ナツメ球で黄色かかった部屋のベッドで女の子が落ち着いた様子ですうすう寝息を立てている。一時は乱れた口呼吸を繰り返し、ひどい寝汗をかいていたことを考えるとだいぶ好転してきたといえよう。おれは枕元にアクエリアスを置くと、再び部屋の外に出てゆっくりドアを閉める。
謎の幼女にベッドを譲ったおれは、今日のところは両親の部屋のクローゼットから客用の布団を引っ張り出し、リビングルームで寝ることにしたのだった。