第一章その4(東京都目黒区駒場・教養学部)
「それじゃ、おれは先に帰るからな」
「えっ、帰るの?」
「午後の講義が休講になったからな」
「じゃあ、ワタシは午後終わったら来るから」
「そだな。夕食の準備くらいはやっておく」
「うん。またあとでね」
大型連休直前の金曜日の正午過ぎ。午前中の講義を終えたおれは一緒に講義を受けていた幼馴染のミチに帰る旨を告げ独り自転車置き場に向かい、合格が決まった直後に購入したマウンテンバイクにまたがると、目黒区駒場の教養学部キャンパスの敷地を出て山手通りに向かって漕ぎ出す。
おれは大学入試センター試験の足切りを辛うじて回避し、二次試験を突破してアジアでもトップクラスのこの大学への入学を果たした。だがそれ以上におれが驚きを覚えたのは、模試でE判定だったミチもまた文科三類でこの大学に合格してしまったことだ。
近所に住む――正確にはうちの両親が一棟まるごと所有し、忙しい両親に代わって管理を任されている自宅マンションの斜め向かいの一戸建てに住むミチとは保育園時代からの腐れ縁で、幼い頃から同じ剣道場に通い、高校受験そして大学受験でも周囲から学力不足が危惧されながらも果敢におれと同じ高校と大学を受験し、一度のみならず二度にわたり代打サヨナラ満塁優勝決定ホームランを打ち放った強運――いや、悪運の持ち主だ。
十五分後。マンションのエントランス前でマウンテンバイクから降りたおれは建物を見上げて小さくため息をつく。
「さて、どうしたものかな……」
想定していたよりも数時間早く訪れた今年の大型連休。同級生たちは教習所に通い始めるとか、絶大なるブランド力を誇る大学の名前の威を借りて中学生の家庭教師を引き受けて割の良い稼ぎを得るなどといった会話が飛び交う中、おれはある一つの悩みを抱えていた。
おれはマンション入口に設置されているオートロックの集合玄関機に自宅の鍵をかざして自動ドアを開けると、集合ポストに入っていたピザ屋のチラシとケーブルテレビの請求書を片手にエレベーターに乗り込み、マウンテンバイクとともに自宅のある五階へ上昇する。
おれが住む五階はフロアごと代々この土地と建物を所有する渡瀬家が占有しており、両親との取り決めでエントランスと駐車場がある一階を除いた二階から四階を高級な賃貸住宅として貸し出し、賃料から経費や修繕積立金、固定資産税、都市計画税などを差し引いた金額の一部を自身の小遣いにすることができることになっているのだが、年度替わりの引越シーズンが一段落したにもかかわらず、四階に住んでいた実家が和歌山の豪農だという同じ大学の先輩が卒業を機に、商社勤務の女性がUAEへの転勤を機に、そして所属事務所の名義で契約していた今売り出し中の若手女優は四月スタートのドラマで新聞のテレビ欄に三番手で名を連ねるようになったのを機に相次いで退去してしまった一方、新しい入居者が集まらず、四階の三部屋すべてが空き部屋となっていることに多忙な両親に代わって管理するおれは危機感を抱いていた。
春の引越シーズンは既に終わってしまい、夏は賃貸物件がほとんど動かないので、空室が埋まるかどうかは秋の引越シーズンに期待するしかないだろう。それでも八十平米で一ヶ月の賃料が四十五万なので、半年で八百十万という損失はかなり痛い。
やはり不動産屋が言うように四十万に下げるべきだっただろうかなどと軽く後悔しながら鍵穴に鍵を差し込み回そうとした刹那、どこからともなく布が擦れるような音が聞こえてくる。
最初は気のせいか何かと思ったが、ドアノブに手をかけた瞬間、さっきよりも大きく、明確に布が擦れるような音が聞こえてくる。店子である渡瀬家以外の住人は二階と三階にいるため、この場所には部外者はおろか住民が来ることはまずないはずだ。
おれは聞き耳を立てながら、おそるおそる音が聞こえてくる階段に近付いてみる。
以前団地の屋上の踊り場で事に及んでいるアダルト動画をネット上で目にしたことがあるが、ここは誰もが立ち入ることができる郊外の団地ではなく、オートロックと監視カメラを備えた高級マンションなのだ。
いや、違う。
おれはオートロックの致命的な弱点を思い出す。正規の方法で自動ドアを開けた住民や訪問者のあとをつけて闖入する共連れをされ、階段を使われてしまったら対応のしようがない。
おれは足音を立てずに防火扉の影に隠れている階段におそるおそる近付く。
布が擦れるような音が先ほどよりも大きく、かつ明確におれの鼓膜を震わせている。願わくは、盛りのついた見知らぬ男女が互いの局部を舐めていないことを願おう。
おれは密かに標的の後をつける探偵よろしく防火扉から階段を覗き込んでみる。すると屋上へと続く中間踊り場に、黒くて大きな布が落ちているのが視認できた。
男女の営みではなかったことに安堵したおれは階段を昇り黒い布に近付く。
建物の構造を考えれば、風に飛ばされた洗濯物である確率は限りなく低く、さりとて階下の居住者がわざわざ渡瀬家しか住んでいない五階の中間踊り場までこの布を運び込んだとは思えない。
「まったく、誰がこんなことを……」
右手で布の端を握り上に持ち上げようとした刹那、おれの右腕に布の重さとは思えないほどの強い負荷がかかる。しかも根拠は分からないが、この負荷は石ころのような無機物ではなく、何かの生き物であることを自身の本能で感じ取ると、布と床の間に手を入れて布に覆われた『有機物』をひっくり返す。
すると布の隙間から瞳を閉じ、顔を真っ赤にして息を荒くしている齢十歳もいかないと思しき小さな女の子の顔が露わになる。
深夜や日曜朝のアニメの魔法少女やMMORPGの魔導師が着ていそうな黒いローブに身を纏った女の子は短い呼吸を繰り返している。そしておそるおそる右手で女の子の額に触れた瞬間、あまりの熱さにおれは思わずその手を引っ込めてしまう。
「おいおい、マジかよ……」