第二章その15(エストザーク王国王都フォヴァロス・象牙の塔)
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「あの門番の言うとおり、確かにこれは酷いなぁ……」
車を降りたおれは、出発前には真っ白いボディがぴかぴかに輝いていた大型SUVがわずか数時間で赤黒い血に染まっただけでなく、フォグランプは完全に割れ、フロントバンパーはナンバープレートごと外れ、フロントガラスは傷だらけ、ボディのところどころは鏃でえぐれたり凹んでしまったりしていることに驚きを覚える。当初の予定通り坑口でソフィと落ち合い、荷馬車でフォヴァロスまで移動していたら今ごろおれたちは命を落としていたことだろう。おれたちの身代わりになってくれた車はエンジンルームに一切の異常が無く、一応動かすことはできるものの、日本の公道を走るには修理をしなければなるまい。修理の暁にはさすがに異世界でボコボコにしましたなどと保険会社に言うわけにもいかないので、おそらく保険の等級が下がらない代わりに自費で修理する羽目になるだろう。
「まぁ、今はとやかく言っても仕方あるまい。ひとまずこびり付いた血を洗い流すことにしよう。メルちゃん、車を洗う刷毛や水はどこにあるのかな」
「ああ、それなら一通り厨房にあるだろうし、厨房に関してはおそらく私よりもソフィやシンのほうが詳しいだろう。いずれにせよ枢密院会議は午後からだから、馬なし馬車を洗い終えたら昼食まで思い思いに過ごすといい」
会長の問いに答えたメルはそのまま象牙の塔の中へと消えていく。おそらく彼女自身の準備に入るのだろう。おれたちはソフィが昼食を作る厨房にある手回しハンドル式の井戸で水をくむと、ブラシと桶を携えて車に戻り、四人で無言のまま車のボディをゴシゴシと擦り始める。ボディを染めた赤黒い血液は意外としつこくこびり付いており、力をかけて何度も刷毛を往復させる必要があった。
「なぁみんな……。ちょっと聞いて欲しいんだが」
身長の高さを利用してルーフを洗う会長が沈黙を破る。
「私の祖国は決して治安は良いほうではない。高速道路では追い剥ぎに遭わないよう制限速度ギリギリまで飛ばすし、街では夕方五時になると仕事を終えた勤め人でいっぱいになるが、無用のトラブルを避けるため彼等はすぐさま帰宅し、十五分と経たないうちに街から人の姿が消えてしまうような場所で私は育ってきたんだ。知人が銃撃されたことも一度や二度ではない。ゆえに私はこの場所に来ることの意味を誰よりも理解し、『この場所は日本の主権が及ばない』という君に突きつけられた覚悟を自分なりに受け入れたつもりだったが、上には上があるというのはまさにこのことで、どうやらその覚悟は足りなかったようだ。正直言ってさらに前に進むのは怖い。だがな……」
いつの間にか車を洗う会長の手の動きが止まり、アイシャ先輩が会長の隣に寄り添っている。
「不思議なことに、命を奪われるかも知れないという恐怖よりもこの世界を知りたいという気持ちのほうが上回っている自分がいるんだ。これは私が冷酷であるということなのだろうか」
「会長。確かに会長が言っていることは間違いではないと思います。あの兵たちにもおそらく家族や友人がいて、その背後にいるであろう黒幕からの命令に従い、その結果車に撥ねられたり投てきした矢で怪我を負ったりした。おれたちの常識では彼等の立場からすればこれほど理不尽なものはない。だけどこの世界の物差しでは下っ端である彼等は単なる捨て駒の歩に過ぎないし、捨てられるほうも何の疑問もなくそんな理不尽を受け入れているような世界なんです。ですからそう簡単に『気持ちを切り替えろ』なんて言うことはできませんが、それでも気持ちを切り替えざるを得ないんです」
会長は数分間の長考の後、ようやく口を開く。
「そうだな。トンネルに入る前に君が言っていた『ここから先は日本の主権は及ばない』という言葉の本当の意味を改めて思い知らされたよ。ここでは私たちの常識はおろか、価値観や考え方は一切通用しない。君たちは、このようなハードな環境で今からとんでもないことに挑まんとしているのだな。たった一晩で、この国にパラダイムシフトを起こすほどの強い企てを……」
「おーい! 済まないが、昼食の準備を手伝ってはくれないだろうか? 皿の配膳をしてくれるだけでいい!」
会長の少し寂しそうな笑顔の後ろでソフィが両手を振っておれたちに呼びかけてくる。
「分かった! ちなみに今日の昼食は?」
ソフィの呼びかけに反応したおれは、彼女に向かって大声で昼食の献立を問う。すると彼女はこう返してきた。
「丸く固めた挽肉がたっぷり入ったスープだ! 美味いぞ!」
「この道をそのまま行けば王城に架かる跳ね橋にぶつかる。跳ね橋を渡り切ったら先ほどのように門番がいるはずだからそこで停まって欲しい」
昼食を食べ終えたおれたちは再び車に乗り込み、三列シートの真ん中に座るメルの案内で一路王城に向かっている。当然ながらこの車を日本に逆輸入したときに取り付けたであろうディスプレイにはGPSが捕捉できないというエラーメッセージとともに、大月と上野原の市境付近の山中の地図データが表示されている。
見覚えがある道を道なりに進むと、王城の堀を周回する道の向こうに木製の跳ね橋と城門が見えてくる。
「わかった。あの橋ね……って、うわぁ、橋が木製だし欄干無いじゃん……ニュー・ドライバーにはかなりきついよ……」
「跳ね橋なのだから当たり前だろう。どこの世界に石でできた跳ね橋があるというのだ。重たくて跳ね上げることができないではないか」
「私たちの世界にはあるんだよ! 石と鉄でできたやつが!」
会長は泣きそうな声で答える。もはや元会長としての威厳もへったくれもない。
「そうか。君たちは違う世界から来たのだからな。済まなかった。だが現実はご覧の有様だ。せいぜい頑張ってくれ給え」
「もう……他人事みたいなことを言っちゃって……」
会長は運転席の窓を開けて窓からくしゃくしゃになった顔を出すと、ハンドルを左右に調整しながらタイヤが橋から踏み外さないようゆっくり、秒速五十センチメートルほどの速さで車を前に動かす。すると、車両総重量三トンを超える荷重に木製の跳ね橋が徐々にたわみ、逆に城壁から橋を吊上げる鎖が金属棒の如く真っ直ぐ張っている。
橋の下は防御を目的とした水堀となっており、万が一橋から落ちたら脱出はまず不可能だろう。S字カーブやクランクを凌駕する難易度が高い木造の橋を渡るというハードな状況に一人の初心者が委ねられているのだ。
「会長。左側オーライ……That’s itです。頼むから折れないでくれよ……」
助手席に座るおれもまた窓を開け、左側のようすを観察しながら英語混じりで会長に声を掛ける。ちょうど橋の真ん中あたりの、最もたわみが大きな場所に到達したところで一旦停止する。なぜなら、王城側の橋のたもとに門番と思しき二人の兵が槍で十字を作り行く手を阻んでいたからだ。
「メル。これはどうする?」
「無論、そのまま突っ込んでも構わない」
会長の問いにメルは平然とした態度で答える。
「勘弁してくれ。人はもう轢きたくない」
「大丈夫だ。そんなことにはならないから構わず突っ込んでくれ。ただ、橋を渡りきったら一旦停まってはくれないか。一応『フォローアップ』はせねばならんから」
そう言ってメルは一息つくと、「済まないな。君ばかりを辛い目に遭わせて」と続ける。
会長は無言のままギアを二速にし、ギアボックス手前にあるホイールを回転させて四輪駆動に切り替えると、エンジンを高速回転させながら一気に跳ね橋を駆け上がる。慌てた様子の二人の兵は両手を大きく振って停まるよう指示をするが、それでも速度を緩めない車にさらに動きを大きく見せる。そして接触直前で諦めたと思しき二人は橋の左右から水堀の中に飛び込み、同時に大きな水柱を作る。車はカンガルー・バーで城門の扉を粉々にしながら城内へと乗り上げると、少し入った安全そうな場所で停止する。
「やぁ。某は枢密院顧問官のメルキオーレ・ワイズマンである。否。君たちは既に某の顔に覚えがあったな。此度は臨時の枢密院会議のため証人たちとともに馳せ参じた次第である。城門を粉々にした上に君たちを濡れ鼠にして済まないことをしたな。今日は枢密院会議以外の政は行なわれないゆえ、此処でゆっくり水浴びでもしていたまえ」
車から降りて橋のたもとまで駆け寄ったメルは水堀に顔を覗かせながらずぶ濡れになった二人の兵に声を掛けるとすぐさま再び車に乗り込み、会長に声を掛ける。
「待たせたな。この先にある二つ目の城門を抜けたところにある建物のひとつが枢密院だ。ここから先は狭窄な道は無いゆえ、安心して進むと良い」




