第二章その13(東京都目黒区大橋)
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翌土曜日の朝四時半。以前メルと三人で丹沢を目指したときと同様、おれたち三人はマンションの前で落ち合う。前回との違いは着替えのみならずノートPCやプロジェクターが詰め込まれ、さらに発電機や赤いガソリン携行缶が収められた大型のスーツケース四個と専用ケースに入ったスクリーンが並べられ、その荷物の多さにおれは思わずため息をつくが、気を取り直しスーツケースに手をかけた刹那、後方からの穏やかではない気配に気付く。
「これは一体、どういうことかな?」
おれとミチは聞き覚えのあるその声に固まってしまうが、言うことを聞かない身体に鞭打つようにおもむろに振り返ると、そこには元生徒会長で大学の先輩であるマーガレット・ワドルが仁王立ちし、その横でアイシャ先輩がどうしていいのか分からないといわんばかりの表情で右往左往している。
「か、会長……何でこんな時間に……」
「『何でこんな時間に……』じゃないだろう。どうして大学の備品倉庫からプロジェクターとスクリーン、そしてジェネレーターとジェリカンを持ち出したのか、お聞かせ願おうじゃないか。無論無断で持ち出したのは感心しないが、君たちのことだ。何かしら理由があるのだろう。もし君たちに問題があるのならば叱責するし、やむなきことであれば手を貸すのもやぶさかではない。まずは正直に話してくれ」
おれは会長が目に見えたものだけを盲目的に信じ、頭ごなしに叱りつけるとのは異なり、まずは事情を聞くという姿勢に対し好意的に捉えていたが、とても『丹沢にあるトンネルを抜けて異世界に行き、戦争を回避するために借りた』などと言える雰囲気でもなかった。都会とはいえ静寂に包まれた朝、どんな言い訳をすべきか考えを巡らせているうちに時間はどんどんと流れていく。
「どうした。黙ったままでは何も分からないぞ……そうか。もしかしたらこのカワイイ幼女が絡んでいることなのか?」
「あっ、はい。コイツにちょっと困ったことが起きてまして」
おれの言葉に会長はどういうわけか「分かった。三十分ほど待ってろ」とだけ言い残し、アイシャ先輩とともにこの場を去っていってしまった。
「ねぇ、もう行かないとバス乗り遅れちゃうよ」
「分かってる。でも会長が待ってろって言ってるしなぁ」
新松田駅から午前中に出るバスは二本しかなく、今から出発してももう枢密院会議には間に合わない。タクシーの利用を覚悟したおれは腕時計を一瞥し、小さくため息をつく。
会長が姿を消してからちょうど三十分が経過したそのとき、後方から聞こえてくるプッという一秒にも満たない警笛音におれとミチが振り返ると、そこには日本メーカーの大型四輪駆動車がハザードを出しながらおれたちがいる左側に車を寄せる。そして運転席から出てきた人物を目にした瞬間、おれたちはその場で固まってしまう。
「か、会長……その車……免許はどうされたんです?」
「ああ。私は四月生まれでね。高校を卒業した去年の三月から教習所に通って誕生日に仮免取って、月末には鮫洲で本免許が取れたんだよね。嘘だと思うならこれを見てみるといい」
元生徒会長マーガレット・ワドルは二人に運転免許証を見せつける。紛れもなく交付年月日が去年の四月になっており、有効期限欄の色も新規取得者を意味するライトグリーンとなっている。免許の条件等欄には特に何も記載されていないため、実家のある南アフリカの免許証を書き換えたものではなく、日本で免許証の取得をしたようだ。
「ちなみに車は日本製だがヨハネスブルクの自宅から持ち込んだ日本未発売モデルだ」
「はぁ……」
「『はぁ……』じゃないだろう。不思議に思わないのか? どうして君たちの目の前に都合良く我々が現れたのかを」
会長の言葉におれはハッとさせられる。これはもしかしたら……。
「なぁメル。昨日の三限、一体どこに行ってたんだ」
「サンゲン? ああ、十三の刻と十五の刻の間のことか」
「もしかして二人に洗いざらい話したのか」
「いかにも」
驚くおれにメルは平然と答え、そして話を続ける。
「この者たち、メグとアイシャは君たちと同じ世界の人間ではあるが、メグは日本国から遠くに位置するスイード・アフリカ、アイシャはマレーシアなる国から来たそうではないか。さすれば君たちにとって少々特殊な状況にも一定の理解があると踏んだのだ」
「まったく、このことに限れば君たちは高校の頃からまったく変わらないな。君たちの悪いところはイージーなことでもディフィカルトなことでも何でも自分たちだけで抱え込まんとすることだ。かれこれ五年以上日本に住む私はそれが君たちなりの美徳であり美学であることはある程度理解できるが、そろそろ他者の力を借りることは恥ずべきことではないということを学ぶべきではないかと私は思うのだがな。それとも、我々のことが信用できなかったのかな?」
「いや、それは……その……」
「済まない。どうやら日本人にとって少々意地の悪い質問をしてしまったようだな。そういうわけでさっさと荷物を後ろに詰めないか? ほら、私も手伝ってやろう……って、ん? このスーツケース、まったく動かないぞ」
会長は一般的な日本人よりも大きい体躯に似合わず微動だにしないスーツケースと格闘を始める。
「すみません。お世話になります」
おれは会長からスーツケースを引き継ぐと、そのまま軽く持ち上げて後部のラゲッジスペースに積み込む。それに続いてミチがスクリーンを収納する専用ケースや軽めのスーツケースを積み込んでいく。
「君たち、その見た目では信じられないくらい力があるのだな」
「ええ、昔おれたち剣道やってましたから」
「ケンドーって重量がモノを言うブドーだったか?」
会長は首を傾げながら運転席に戻ると同時におれは助手席に、ミチとメルとアイシャ先輩は後部座席に座る。坂道発進に失敗してエンジンを止めてしまった彼女は再びイグニッションを回すと、無駄にエンジンの回転数を上げつつ律儀にギアを一速から入れ、ゆっくりと車を走らせる。
「ところで、どうしてマニュアルなんです?」
数字が刻まれたシフトノブに気付いたおれが会長に尋ねる。
「AT限定免許なんぞ日本と北米以外ではクソの役にも立たないからな。それより道案内以外では静かにしてくれないか。運転に集中したい」
会長からはいつもの威風堂々な佇まいが消え、全身に力が入った状態でステアリングを握っている。
「おれたちが卒業した高校に沿って角を右折したら旧山手通りに出ますんでさらに右折して、国道二四六号を左折します。そしたら首都高の池尻入口から高速に入って下さい。あっ、入口は右側なんで国道二四六号では右車線を走ってくださいね」
「一気に言ってくるな! 今は言われても半分も頭に入らないからその場その場で言ってくれ」
「なら次の信号を右です。次の指示は近付いたら言います」
ゆっくりと母校である都立代官山高校前交差点を右折するマーガレット・ワドルのいっぱいいっぱいなハンドリングに一抹の不安を覚えるおれだったが、今は彼女に頼るしかないのだ。
会長は「左側通行なのにアプローチが右側なんて訳が分からない」といった不満を漏らしつつも池尻入口から首都高速三号渋谷線に入り、用賀方面に車を走らせている。高速道路に入ったら会長はもっと喚くかと思いきや、信号や曲がり角がなく、料金所や渋滞以外で変速の必要がないせいか意外と安定した状態で運転を続けている。
「ふぅ……。広くなったせいか東名に入った途端、急に運転しやすくなったぞ。日本での運転が基準になったら南アフリカの高速だったら目を瞑って運転できるだろうな」
「いや、どこであろうと目は開けて下さいよ。それより途中、料金所がありますけどそれ以外は大井松田までずっと道なりで大丈夫です……あっ、食料品を買い込むのと、ガソリン缶にガソリン……じゃなかった。ジェリカンにペトロールを入れたいんで海老名のサービスエリアに寄ってもらえますか?」
「分かった」
会長は高速道路での運転に慣れてきたのか、おれの問いかけにちゃんと言葉を返してくれるがそれも束の間、彼女は約一時間後に通る県道に苦心することとなる。
「本当にこんなところに異世界なんてあるのか? 道がぐねぐねしてるし、ところどころ道が狭くなっているではないか!」
東名大井松田インターチェンジを出て渋谷区内のそれとはまったく趣が異なる国道二四六号から県道七六号線に入り、丹沢湖を抜けたあたりから会長は再び不安そうな表情を見せる。
「ええ。この先片側交互通行ですから」
「ちょっと待て。それを早く……」
「あーっ、対向車とお見合いしちゃいましたね……」
「だったら一旦後ろに下がるか?」
「いや、後続車がいるんで無理ですね」
「だったらどうしたら……」
「しまった! またエンストだ!」
幾多の小さなトラブルは頻発したものの致命的なトラブルもなく、北九州で製造されたあと一旦南アフリカに輸出され、再び日本に戻ってきたという少々ややこしい経緯を抱えた大きな四輪駆動車は何とかバスの終点である西丹沢ビジターセンターを通過し、先日おれとミチとメルの三人で歩いた、キャンパーのために舗装された林道に入る。そして会長はおれの指示に従い九十九折れの急坂が控える脇道を右折すると、駆動方式を四輪駆動に切り替え坂道を登り始める。
「会長、このまましばらくヘアピンターン……じゃなかった、スイッチバックが続きますので頑張ってください」
「分かってる。ようやくコツがつかめてきたんだ」
おれはヘアピンカーブを英連邦式英語に言い換えつつ、直進区間で三速、カーブの部分で二速に落としながら車を転回させる会長を励ます。
「さて、もうそろそろ最初の難関が見えてくるはず……あそこだ」
「やっぱり閉まってるかぁ……」
おれが前方で行く手を阻むゲートを指差すと、ミチは小さくため息をつく。
「ええっと、『お知らせ これから先の林道は一般車両通行止です』か。それじゃここから先は車では通れないということか? ここからデスティネーションまでの距離はあとどれくらいある?」
「そうですねぇ……あと数キロはあると思います」
「ええーっ、嘘でしょう? ここからあんな重たいの持って山道登るの?」
アイシャ先輩は一旦背後に振り返って大型スーツケースを一瞥すると、こわばらせてた表情のままおれのほうを見る。
「申し訳ないですけどここから先は……んっ! アイシャ先輩、前髪を留めているヘアピンを貸していただけますか? できれば二本」
「ヘアピン? どうして今それが要るの?」
「ええ、それがあればもしかしたら車を降りる必要がなくなるかも知れないからですよ」
「そ、そうなの? だったら……」
おれは怪訝そうな表情のままなアイシャ先輩から二本のヘアピンを受け取ると、車を降りてゲートの脇を抜け、内側のかんぬき錠に取り付けられた錠前を手に取ると、一本のヘアピンを鍵穴に差し込み、もう一本のヘアピンでシリンダーの内部をいじり始める。それから数分後、カチャという音とともに錠前が開き、ゲートを全開にしたおれは運転席で様子をうかがう会長に向かって右手で手招きをしてみせる。
車がゆっくりとゲートを通過したのを確認したおれはゲートを閉め、南京錠を施錠して元に戻すと、再び助手席に乗ってシートベルトを締める。
「すごいな。まるで魔法じゃないか」
「いや、別に魔法じゃないですよ。あらかじめYouTubeの『ヘアピンで南京錠を開けてみた』で開け方を調べてましたから」
感嘆する会長に対しおれは冷静に答える。
「だが、果たしてこれは合法なのか?」
「いや、よい子はマネをしちゃダメなやつでしょうね。それともコンプライアンスを最優先させてシェルパにでもなりますか? ここから先は舗装こそされていますけど、ところどころに落石や倒木があるので気をつけてくださいね。ここ数日雨は降っていないですし、車であればボディでプロテクトされて大丈夫かと思いますが、十センチ程度の小さな石でも当たり所が悪ければ下手したら死ぬこともありますので」
『死ぬ』という言葉に反応したのか、会長は黙ったままこくこくとうなずくと、クラッチとアクセルそれぞれのペダルを微妙に前後させつつハンドブレーキを解除させながら再び隧道を目指して車を走り始める。
走ること十数分。おれたちは徒歩での移動と比べて比べものにならないほど速く隧道の坑口にたどり着く。
「『イヌコエジズイドウ』か……マコト、ハナちゃん、『ズイドウ』とはどういう意味だ?」
会長は使われていないトンネルの坑口の前に車を停め、運転席から降りてアーチ部分のすぐ上に埋め込まれている扁額の文字をたどたどしく読むと、同じタイミングで助手席から降りたおれとミチに質問する。
「トンネルという意味ですよ。てゆーか会長よく読めましたね」
「まぁ、日本にはかれこれ五年近く住んでいるからな」
「えーっ、ワタシは初見じゃ読めなかったのに……」
「ハナちゃん、君はどうやって入試を突破したんだ?」
「会長。その疑問はあとで追及するとして、トンネルの中は真っ暗なんでヘッドランプはハイビームを使ったほうがいいですね。半マイル先にある出口に荷馬車に乗った女の人がいると思うんで、彼女のあとについていってください。あっ、その前にメル、アレを」
「分かっている。四人とも、私の前でひざまずいてくれ」
メルの言葉におれとミチが彼女の前でひざまずく。
「えっ? これから何を始めるの?」
アイシャ先輩が怪訝そうな表情のまま、会長はにやついた表情のままおれたちの両隣で片膝をつき、頭を垂れる。メルは左右の掌をおれと会長の頭上にかざして小声で何かを詠唱する。引き続きミチとアイシャ先輩の頭上に掌をかざして再び詠唱すると、二人の頭上がうっすらと光り、その光は僅か数秒で消える。
「熱いとか痛いとかそういうのを特に何も感じなかったんだけど、一体何をやったの?」
「アイシャ先輩、何でもいいんで母国語で何か言ってみてもらえますか?」
「ええっ? 急にそんなこと言われても……そうだなぁ……Adakah anda faham apa yang saya cakap?」
「Ya, saya dapat memahami apa yanganda katakan」
「ああっ、シン君がマレー語を話してる!」
「いや、別にマレー語を話してるわけじゃなくて、普通に日本語で話しているだけなんですけど、アイシャ先輩にはおれがマレー語を話してるように聞こえるんですよ」
「そうなの? と言うことはメルちゃんが私たちの頭に手をかざしたときに……」
「自動的に吹き替えをする魔法をかけたということです。これがどういうメカニズムかを語るには時間があまりに少ないのでそれは一旦置いておいて、すぐにでも出発しますよ」
おれの呼びかけに全員が車に乗り込む。
「一応言っておきますけど、このトンネルから先は日本の主権が及ばない地域になりますので、それを心にとどめておいてください」
「分かった。出発しよう」
会長はエンジンをスタートさせると前照灯をハイビームに切り替え、クラッチ操作をしながらするすると車を前進させ、トンネルの中へと入っていく。
直進で走りやすそうな道ではあるが、念のため生徒会長はギアの切り替えを三速で止め、速度を時速三十キロに維持し続けている。つまり計算上では一分三六秒後に出口に到達することになる。
「シン君、やっぱりワタシたちの肌がうっすら光ってるよ」
後部座席のミチが運転席と助手席の間から身体を乗り出しながらおれの右腕を指差す。
「ホントだ。お前もうっすら光ってるな。それじゃ会長とアイシャ先輩は……光ってない……」
不思議なことに後部座席に座るアイシャ先輩の褐色の肌とステアリングを握る会長の白い腕は二人とは対照的に一切光る様相を見せない。
「二人とも何をわけの分からないことを……って、光ってる!」
会長はうっすらと光る二人を一瞥すると車がわずかに蛇行する。
「前見てっ! 気持ちは分かるけど」
おれは敬語を忘れ、前方で眩しく光り、徐々に大きくなっていく点を指差す。
徐々に大きくなっていく光は出口に近づくにつれ暗闇との比率が逆転し、その光の中で見覚えのあるシルエットの輪郭が徐々に荷馬車の形へと変わっていく。
「連絡手段が無いからなぁ……。まぁ、こうなるよな」
トンネルの坑口から少し出た、荷馬車の真後ろで車が止まるとおれは車を降り、ソフィに向かって手を上げる。
「これが噂の『馬のいない馬車』か……白くて大きくてつやつやしているな……」
ソフィはおそるおそる車に近付くと周囲をぐるぐる回ったり、ボンネットを撫でてみたりしている。
「マコト、ここは本当に日本ではなくてエストザーク・キングダムなのか?」
王国側の坑口もまた、周囲が森に囲まれているため会長やアイシャ先輩は今ひとつピンときてはいないようだ。
「ええ。ここじゃ分かりにくいと思いますけど、森を抜けたら実感できると思いますよ。あっ、そうだソフィ、せっかく荷馬車で来てくれたのに悪いんだけど、車で来ちゃったから荷物は積まなくても……危ないっ!」




