第二章その5(エストザーク王国王都フォヴァロス・象牙の塔)
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「ねぇ……、早くぅ……」
「んんっ?」
深夜。ミチの呼びかけにおれは寝ぼけたまま返事をする。徐々に焦点が定まり、ミチの姿を明確に視認するや彼女のただならぬ雰囲気におれはおもむろに上体を起こす。
「いいからワタシのところに来て……」
「どうした……」
意味が分からない言葉を発するミチにおれは首をかしげる。
「一緒にイッてくれなきゃワタシ、もうガマンできない!」
ミチは首をかしげたままのおれの手を引くと、そのままおれを引き連れて階段を駆け下りて外へと飛び出す。
「一体どうした! そして何があった? この世界独特の何かが起きたのか?」
おれは月明かりと星明かりで辛うじて視認できるミチに不可解な行為の意図を質す。
ここは日本でもなければ、地球上にあるいかなる国でもない。いくら重力や気圧が地球と同じとはいえ、メルが使った『翻訳魔法』が発動できるように、地球には存在しない何らかの要素が本来この世界に存在しないおれたちに何らかの精神的あるいは肉体的な影響を及ぼす可能性だって十分にありうるのだ。
「ト……」
「へっ?」
「だからト・イ・レだって。言わせないでよ!」
「寝ぼけた状態で察しろとか無理言うなよ!」
夜の帳におれとミチの声が響きわたる。こだました自分たちの声に我に返ったおれたちは各々立てた人差し指を唇にあてる。
「寝る前にメルに訊いたら、どうやらあそこの掘っ立て小屋みたいなところで用を足してるみたいだぞ」
おれは一坪ほどの大きさの粗末な小屋を指差す。ようやく瞳孔が開いて夜目が利くようになったらしい。落ち着きを取り戻したミチは黙ったまま小屋の中に消えていくが、すぐさま小屋の中から「臭っせぇ!」という声が漏れてくる。王都であるこの地でこういう状態であるということは、どうやらこの世界には水洗トイレという概念は無いらしい。
ふと後ろを振り返ると、おれから数メートル先で一人の女がおれの様子を伺っている。そのミチでもなければメルでもない。鎧姿――正確には肩、胸、下腹部のみが金属製と思しき防具で護られているほかは両腕両足にはなめし革の手袋とブーツを装着している以外は白い柔肌が露出している。おれは、こんな格好で寒くはないのかと不思議に感じたが、全身を覆う甲冑ではそのものの可動域や重量によってかえって制約が多いのだろうと一人で勝手に納得する。だが、悠長に彼女のことを推察している場合ではない。なぜなら彼女は自分の剣を抜き、その切っ先を丸腰であるおれに向けているからだ。
「×××、××××××××××××!」
彼女はおれに向かって何かを問うている。おそらくお前は何をしているのかと訊いているものと推察したおれは言葉が通じないことは分かっていたが「厠を使っている。終わったらメルキオーレ・ワイズマンの邸宅に戻り、朝になったら王都の中心に向かう手筈となっている」と日本語で答える。
『メルキオーレ・ワイズマン』という固有名詞に眉がぴくりと動いたことからメルの知り合いか何かだろうか。しかし彼女は好戦的な態度を崩すことなく一向に剣を鞘に収める様子を見せない。
彼女が握る剣は日本刀と異なり、身長一四〇センチ足らずと思しき彼女の体躯の割に剣身が長くて太く、両側に刃が付いている一方、刀独特の反りがまったく無いことからおそらく洋剣だろう。あんなもので心臓を一突きされようものなら一発で即死である。
「×××××××!」
彼女は何かを叫びながら右手一本で握っている剣をおれに向かって振り下ろしてくる。おれはすんでのところで振り下ろされた剣を避けると、剣に身体を持って行かれて右斜め前方に軽く体重が移動している女剣士の背中を取って右足で彼女の腰を押すように蹴って彼女を転ばせる。女性を蹴ることにおれはちょっとした罪悪感を覚えたものの、命が狙われている以上フェミニズムを標榜している場合ではなかった。
隙を見ておれは彼女に背を向けぬよう横歩きで象牙の塔の入口付近に移動すると、立て掛けあった複数の箒のうち、刷毛の部分が朽ち果てて柄だけになっていたやつを手に取ると、再び立ち上がった女剣士と真正面で対峙する。もちろん真剣相手に鍔迫り合いを演じるつもりは毛頭無い。そんなことをしたらたちまち箒の柄は真っ二つにされてしまうことだろう。
つまり、できるだけ時間を稼いで重たそうな装備を身に付けた女剣士を疲れさせ、ミチが厠から戻ってきたタイミングで隙を見て象牙の塔の中に逃げ込むのが現状考え得るベストな選択であろう。
しかし女剣士はおれの甘い目論見を許してはくれなかった。
再び彼女は剣を振り上げ、おれに向かってそのまま駆け込んでくる。相手が剣を振り上げた状態でおれが狙うところはただ一つしか無い。
おれは思い切って彼女の懐に飛び込むと、箒の柄で彼女の露出した腹部を突く――がしかし、おれの両腕に手応えは一切感じられない。
「なにっ!」
おれの突きはすんでのところでひらりとかわされ、渾身の突きは空を切る。それを千載一遇の好機を捉えたと言わんばかりに嘲笑うかのような笑みを浮かべた女剣士がおれに向かって剣を振り下ろしてくる。
おれは咄嗟に箒の柄を横にして防御の態勢を取るが、こんな貧弱な木の棒など、衛星の明かりに照らされる剣の前では無力に等しい。
斬られることを覚悟した刹那、おれの身体が箒の柄ごとうっすらと光ると、木製であるはずの箒の柄が剣をはじき飛ばし、くるくると宙を回転しながらスローモーションで舞い降りそのまま地面をブスリと突き刺す。
いきなり丸腰となった女剣士が慌てふためき始めた刹那、花を摘み終え背後から忍び寄るミチが彼女の後頭部めがけて箒の柄を振り下ろす。すると、数秒間彼女の動きが固まったと思ったら、そのまま膝から崩れ落ちる。
「ミチ! 助かったぜ!」
「急所を狙ったのが見事に決まったわね」
「言ってることが何気に怖いよ」
「えーっ! 殺されかけていたのを助けてあげたのに文句ぅ? って言うかこの女の人誰? 刀剣もののアニメのコスプレ?」
「こんな真夜中に何の目的でコスプレするんだよ。もしかしたらおれたちは王国から歓迎されていないんじゃないのか?」
女剣士は口から泡を吹き、数秒に一度の割合で四肢をピクピクさせている。
「それって日本政府と交渉することに反対してるってこと? だったらメルちゃんは何で……」
「おそらく王国の総意としては交渉に賛成なんだろうけど、決して一枚岩じゃないってことだろ」
「まったく、一体何の騒ぎだ……って、どうしたソフィ! 一体何があった!」
象牙の塔の玄関から迷惑そうだと言わんばかりの表情を隠そうとしないまま外に出てきたメルがひっくり返っている女剣士を一瞥するや否や彼女の元へ駆け寄り、両手で彼女の肩を握る。
「しっかりしろ! 誰にやられた!」
メルの女剣士への必死の呼びかけに、おれとミチはおそるおそる右手を挙げながら「あのぅ……おれたちがやっちゃったんだけど」と答える。
「へっ?」
二人の言葉にメルは意味が分からないと言わんばかりに気の抜けた返事をする。
「いやほら、この人いきなりわけの分からないことを言ってきて真剣振り回してくるからさぁ。そりゃおれたちも必死になるよ」
「シン君が箒の柄で剣をたたき落とした隙にワタシが後ろからスコーン! と後頭部を殴ったらこんな感じに。あっ、死なない程度に加減はしたからそろそろ目が覚めるんじゃないかなぁ……」
「まったく、君たちは一体何者なんだ……」
ミチの説明にメルは半分驚き、半分呆れたような反応を見せる。
「――だが私も迂闊だった。ここでは私自身に魔法をかけるのではなく、君たちに魔法をかけるべきだったのだ。シン、ミチ。悪いが横に並んでくれないか」
「あっ、ああ……」
おれたちは横に並んで膝をつき、目線の高さをメルに合わせると、メルはおれたちの頭頂部に両手をかざしながら小声で詠唱を始め、十数秒ほどおれたちの身体が青白く発光したかと思うと徐々にその光が消えていく。
「これは一体何をやってたんだ? 身体が光ったことは分かったが、それ以外何の変化もないみたいだし、痛くもなければ痒くもないぞ」
「ああ。一見何も変化していないように見えるかも知れないが、すぐその効果は分かる。次は彼女の番だ」
おれが呈した疑問にメルはわずかに口元をにやつかせながら答えると、今度は女剣士の胸元に両手をかざし、先ほどとは異なる文言を詠唱し始める。すると彼女の身体が胸元から徐々に全身が青白く光り始める。ただ、光り方はおれたちの時とは異なり、粒子のようなものが身体全体を包み込むように光っている。
「よし。こんなものでいいだろう。これより戦場に行くわけでもあるまいしな」
メルがかざしていた両手を下におろすと、女戦士が軽いうめき声を上げながら瞼を開き、おもむろにその上体を起こす。
「あれ……? 私は何でこんなところで……って、あーっ! 貴様! よくもこの私を――」
意識を取り戻し、信の姿を視認した女剣士は上体を起こした姿勢のまま傍に落ちていた剣の柄を右手で掴もうとするが、メルはそんな彼女の肩を抱くと、耳元で「落ち着けソフィ。この者たちは敵ではない」と声を掛ける。
「ひとまず言葉の壁は何とかなったな」
「声が日本語になってる……」
日本語で文句を言っている女剣士の姿にミチが驚きの表情を見せる。だが女剣士もまた、メルと同様口の動きと発せられる言葉がまったく合っていない。
「シン、ミチ。紹介しよう。私の秘書兼護衛役として軍隊から派遣されてきた女剣士、ソフィ・シグルーンだ。彼女は以前――」
「ミス・メルキオーレ。昔の話は、もういいですから……」
「そうか。とにかく中途半端な時間に起きてしまったが、もう一眠りしたらここを出発して二人に王都の現状を見てもらうことになっている。悪いがソフィ、私のみならずこの者たちの護衛も頼みたい」
「御意にございます。ただ、この者たちは私よりも強いようですのでお役に立てるかどうか分かりませんが」
「まあそう拗ねるなソフィ。この者たちはこの世界での勝手が分からぬようだからしっかり面倒を見てやってくれ」




