第一章その9(東京都目黒区駒場・ISWC)
連休の間に挟まれた平日の五月一日。おれとミチとメルの三人は大学のキャンパス内にあるとある建物の前にいた。
おれはこの建物の存在こそ知っていたが、講義や研究に使われている様子はなく、建物の前を通り過ぎるばかりで、この大学の学生であるにもかかわらず一体何のための建物なのかまったく知らなかったのだ。
まずはメルと手をつないだミチがエントランスから中に入り、そのあとにおれが続く。
メルはキャンパスの敷地の中に入ってからというものの、そこはかとなく醸し出される雰囲気から何かを感じ取ったのか、少し驚いた表情のままあたりをキョロキョロと見渡している。
「ここだよ」
ミチが一階エントランスからほど近いオープンスペースを指差す。そこには『International Student Walfare Centre』の文字が入ったアクリル看板が天井からぶら下がっており、カウンターの手前では年齢や性別、人種も異なる様々な人たちが思い思いに過ごしているこの場所は、日本人が圧倒的なマジョリティとして闊歩する他の場所とは一線を画している。
ウェルフェア? 福祉? ああ、海外から来た留学生のためのサポート施設か。
おれは英連邦式で綴られた英語の看板からこの場所の目的を推察する。
「会長さ~ん、連れてきましたよぅ」
ミチがおれたちに背を向けている白人女性に向かって声を掛ける――んんっ、会長?
「おお、久しぶりだなハナちゃん。元気してたか。少し遅れたが入学おめでとう」
白人女性が振り返って流暢な日本語とともにミチとハグを交わした瞬間、おれは彼女のことを思い出す。
「会長、結局この大学にしたんですね」
「マコト、マコトじゃないか! 君もこの大学に入ったのだな。あと、私はもう会長ではないよ。今はアンダーグラデュエイトの学生をやってるただのマーガレット・ワドルさ」
ミチに引き続き会長はおれとハグを交わす。これには挨拶という意味以上でも以下でもないということは頭では理解しているが、それでもドキドキしてしまうのは日本人の性だろうか。
おれたちが彼女のことを会長と呼んでいるのは彼女が二年前、おれたちが通っていた東京都立代官山高等学校では史上初の外国籍を持つ生徒会長だったからだ。どういうわけかおれたちのことを気に入っていた彼女は生徒会長の任を終えようとしたとき後継候補としておれたちを指名し、それもあってか昨年度はミチが生徒会長に、おれが副会長を務めていたのだ。ちなみに会長はおれのことを本名のマコトと呼び、ミチのことをハナちゃんと呼んでいるのは、本名である倉永花の花をそのまま呼んだことに由来しており、どちらかといえば高校時代までのミチの友達もハナと呼ぶことのほうが多かったりする。
「そしてこの子がメルちゃんか。カワイイなぁ。まるでビスクドールじゃないか」
会長はメルと同じ高さに視線を合わせるべく膝立ちになるが、それでも身長は会長のほうが大きい。
「Me, Meg. You, Mel」
会長が自らを指差しながらターザンのような自己紹介をすると、メルは一言「メグ」と答える。どうやら会長の名前を認識することができたらしい。
「Jy is so oulik! In elk geval, waar kom jy vandaan?」
会長が謎の言語でメルに何かを語りかけるが、メルは右斜めに首を傾げながらキョトンとしている。
「会長、今何て言ったんですか?」
「ああ。『キミキャワウィねぇ。どっから来たの?』って言ったんだ」
「そのチャラい台詞はアフリカーンス語ですか」
「そうだ。だがこの子は同胞ではないようだ」
南アフリカ共和国で生まれ、高校進学を機に横浜にある自動車メーカーの要職を務める父親について家族とともに東京にやって来た彼女は英国貴族の流れを汲む家柄を自称しているが、真偽の程はよく分からない。
「となれば、別の言語でも試してみることにしよう。アイシャ! ちょっといいかい?」
「ええ。良いのコトですよ」
会長は自分の近くにいる浅黒い肌を持つ清楚な感じの女性に声を掛ける。
アイシャと呼ばれた三つ編みの女性はメルと向かい合うと上半身を落として中腰になり「Siapa namamu. Dari manakah kamu ini?」とか「Dari mana kamu berasal?」などと尋ねる。するとメルは、昨日と異なりゆっくりとかぶりを振る。
「言ってることが通じたのかな?」
「いや、違うのと思うよ。今のはYesやNoで済む質問違うから、首を振る言うことは質問そのものの意味が分からないんじゃないのコトかな?」
ミチの言葉に彼女は少しおかしな日本語で否定的な見解を示している。
「あっ、Self-Introductionがまだだったね。私はアイシャ・ビンティ・ハフィス。二年生です」
アイシャ先輩は右手を差し出すと、ミチ、おれの順番でそれぞれの手を握る。
「マレー語もインドネシア語もダメか。それなら……」
それからというもの、会長はやって来る外国人たちに手当たり次第に声を掛け、彼等の母国語や話せる言語でメルに話しかけてみたものの、誰一人としてメルとの意志疎通に成功した人はいなかった。
会長は申し訳なさそうに『すまない』などと言っていたが、これは誰かが悪いという類のものではないのだ。