4. はぐれ者、決別を謀る
「おいツヅ……。てめえこれは所謂あれか? イタリアンジョークか? 本気だとしたらもっと勘弁なんだが」
「へ? 何が? みーんなイチ兄の大好物じゃない! 何でそんなに怒った顔してるの?」
そのツヅの全く悪気のなさそうな無邪気な言葉に、またも俺の堪忍袋の緒が切れた。
頭で考えるよりも身体の反応の方が早かったと言うべきか――我に返った時には、テーブルの上にあった料理は皿ごと影も形も無く、フローリングの床の上にそれらしき物がどっ散らかっていたんだ。ものの見事に、全部の皿が裏を向いていた。
制服の外側の袖がソースで汚れている。どうやら俺は料理を腕を使って根こそぎ薙ぎ払ったんだ。
ふと、視線を床からツヅへ向けると、さっきまでの笑顔は消え失せ、目に輝きがなくなっており――瞳孔が開いており、放心状態になっていたんだ。
「な……なん……で……? イチ兄……。ツヅが……作った……料理……」
その場にへたり込み、大粒の涙を流しながらそう振り絞るように発した声。正直言って耳を澄まさなければ聞こえない程蚊が遠くで鳴くような声音だったが、静寂した室内ではその音量が適当だっただろう。
そして俺は何故このような食べ物を粗末にするような暴挙に打って出たのか。別に乱心でも壊乱でもない。俺はいたって正常だ。
俺は大層ご立腹だ。この女は十五年間共に屋根の下で過ごしてきて何も解っちゃいないと思ってな……。一体俺の何を見て生きてきたんだと思ったら、無性に腹が立ってこの行為に及んだんだ。分からず屋の歩くポルノ女に改めて解らせてやる為にな……!
「おいツヅ。お前勘違いしているようだから改めて言っておくが……俺はなぁ……」
「…………?」
「生臭ぇ魚介類が大っっっっっっっっっっっっっっっっっ嫌いなんだよぉ!」
「えぇ……嘘……?」
何? 何故そんな意外そうな顔する? もしかして本当に解っていなかったのか?
くどい様だが俺は一人になる前の十五年間は気を遣って生きてきたんだ。だとすれば物の好き嫌いもろくに文句を言うことさえできない。だから俺はどんな嫌いな物を出されようと必死に愛想笑いを浮かべて全部完食してきたんだ。
本当に馬鹿ばっかりだな俺の腐れ縁共は。そろそろ付き合うダチを変えるとするか。
「嘘だよ……! だっで……イヂ兄、パパやママやツヅがお魚料理作った時、全部美味しそうに完食してだのに……! 嘘だよね……? そんなのウソウソウソウソウソ……‼」
また始まった……。高一にもなって餓鬼みてぇに駄々をこね出したよ。そんなんで事態が収束すると思ってんのか? だったらこんなに楽なことはない。
「いつまでもそうしていろ」と言ってサッサと二階へと逃げるのも一つの手ではあるが、こいつももう高校生だ。
面倒臭いが、ここは一つ、駄々っ子を教育してやるとするか。別件として、さっきから目のやり場にも困るしな……。
「おい! 喧しいぞ!」
「ヒ…………ッ‼」
先ずは、一喝。素直に黙りやがった。『泣く子も黙る』とはよく言ったもんだ。
「てめぇは昔っからそうだったよなぁ? 自分が気に入らないことや不利なことがあるとすぐそうやって泣き出して、そっちにぶりっ子こっちにぶりっ子……。あざといにも程があるんだよ! そんなんでいつまでも何でもかんでも赦してもらえると思ってんのは大間違いだ!」
「…………」
頼んでもいないのにその場で正座をして、俯くツヅ。ポタポタと制服のスカートに零れ落ち滲みていく涙がここからでもよく見える。これで泣き顔が拝めれば最高だったんだが。
「駄々こねる前によぉ――事態が深刻化する前によぉ……てめぇが気を付けるべきなんじゃねぇのか? 第一今回のこの件は避けられた事態の筈だ。普通十五年も一緒に過ごしてりゃそいつの好みくらい解りそうなもんだけどなぁ! えぇ⁉」
「…………だよ」
と、貫木じゃねぇけえど、こいつの将来を心配し説教をしていると、だんまりと聞いていたと思ったツヅが、語尾しか聞き取ることが出来なかったが言葉を遮るように口を挟んできた。
人の話は最後まで黙って聞くよう教育されてきた筈だが……? こりゃあまた説教のし直ししなければいけねぇようだ。全く……教育のし甲斐のある餓鬼だ。
「おいおい、人が話をしてんのに勝手に口を挟むんじゃねぇよ――」
「やっぱり今のイチ兄は偽物だよ!」
「⁉」
説教の続きをしようとしたら、ツヅは俺が今まで出した大声よりもさらに大きな声でそう言ってきた――というより叫んできた。こんな小さな身体の何処からこれ程の大音声が出せるんだ……? 十五年共に過ごしてきて初めてかも知れん。思わずのけ反ってしまった。
というか今の俺が偽物だぁ? 全くなんだ今日は……どいつもこいつも俺に説教か? 説教日和か今日は? それについて言及しようとするよりも先にツヅが言葉を続ける。
「今のイチ兄は、イチ兄じゃないよ……。ツヅやパパとママと一緒に過ごしていた頃は、すっごく優しかったのに……今も優しくない訳じゃないんだけど、怒りっぽくなった……」
「…………」
何だよ……リュウもリュウならこいつもこいつか。何を言い出すのかと思えばやはりそんなことか。一体これから何度今まで知り合った奴らに説明していかなければならんのだ?
あと後付けで「優しくないわけじゃない」とか言ったが、フォローになってねぇし。フォローだとも思ってねぇしな。というかされる必要がねぇ。
「この際だから言っておくがツヅ……。お前にとって今までの俺は本物だったかも知れねぇが、俺にとってはあの時の俺は偽物だったんだよ……! 今の俺こそ本物だ!」
「嫌だ……もう聞きたくない……! 本物のイチ兄はそんな悲しい事言わないもん……。嘘も吐かないし怒ったりしないしそんな風に怖い顔するような人じゃないもん!」
「いいや、最後まで聞いてもらうぞ? いいか? お前は俺を買い被り過ぎだ。俺はお前が思う程お人好しでもねぇし、善人でもねぇんだよ。お前の脳内で形成された俺の人格は全て偽りだ……改めてインプットしやがれ、本当の俺を――正真正銘の俺をなぁ!」
嗚呼……暴君が愚民を見下している気分ってのは当にこういう感じの事を言うんだな。俺の気持ちは今……最高に高揚している! ハハハ……いい気分だ……!
逆にツヅの今の心境を例えるなら、信頼していた腹心に裏切られ止めを刺されようとしているカエサルの気分と言ったところか? そうなると俺はブルータスか?
ハハハ……我ながら歯の浮くような例え話だがこの例え方が適当だろう。そう、当に今ツヅは、今までがそうであると信じてきた俺に(別にそうではないが)裏切られたんだ。
文字通り立ち直れないと言った感じか。フローリングに両手をついて頭を項垂れ、ポタポタと涙を滴らせて――フッ……同情を誘っているのが見え見えだ、きっと慰めてくれるだろうと思っているんだろうがそうはいくか。
もう俺はこんな情になど流されるものか。ここで情けをかければ更にこいつは付け上がるだろう……リュウ同様に、もう昔の俺はこの世にはいないという事を完全に思い知らせるんだ! こいつには特になぁ……せっかく手に入れた俺の自由の為だ……何処かへ行ってもらおう。
「おい、結文」
「‼ へ……」
「結文。ほら、そこに散らかった残飯片付けてくれよ。帰るのはそれからにしてくれ」
「う……! うう……! …………!」
こいつは、リュウ同様に親しい奴から他人行儀に扱われるのを嫌い、そして料理人の家庭で生まれ育った為か、丹精込めて作った料理をどんな理由があろうとも貶す奴は赦さないんだ。例え相手が、腐れ縁――幼馴染である俺やリュウであろうとな。
そう……つまり俺は今、こいつに対して絶対に言ってはいけない禁句を言った――タブーを犯したんだ。一度こいつが作った料理を冗談半分で不味いと言ったことがあったが、あの時は宥めるのに大層苦労したもんだ。少なくとも一ヶ月は掛かったからな。二度とこんな事は言うまいとあの時は心に誓ったが、まさかこんな形で誓いを破ることになろうとはな。
するとツヅは、スクッと立ち上がりたかったんだろうが、正座をしていた為よろけながら立ち上がり、千鳥足で廊下へと続く引き戸へと向かい立ち止まり、俺の方へ向き直り、
「…………グスッ!」
強く鼻を啜りながら、慣れない鋭い目つきで俺を睨み、何も言わずに居間を出て行った。
そうだ……それでいいんだ。別に床に散らかった料理を片付けてほしかったからこんなことを言ったんじゃない。俺の住処から出て行ってほしかったからだ。
せっかく手に入れた俺の自由の象徴ともいえる住処に不法侵入した報いだ。あれだけの仕打ちを受ければあいつももう俺のことなど嫌いになっていてもおかしくはない。
よってもうあいつは学校でも然り、道端でも然り、当然この家にも勝手に侵入することはないだろう。邪魔者が居なくなってせいせいしたぜ。
だがまぁ……いつまでも床の上に散らかった料理のなれの果てを放っておく訳にもいくまい。面倒臭いが自分がしたことだ。自分で片付けるとしよう。
早速俺は床に散乱した皿や魚介類やらをソースがフローリングの隙間に染み込んだり埋まったりしないよう丁寧に雑巾掛けや掃除機で掃除を行った。
「済まないな……突発的だったとはいえ、お前を汚してしまうようなことをして……」
俺は何故か、そんな独り言を無意識に漏らしていた。まるで飼い犬を慰めるかのように。
俺にはもう家族といえる存在はいない。天涯孤独だ。だが唯一遺されたものがある。
無論、この家だ。
この家こそがいうなれば俺の唯一の家族であり、宝であり、財産なんだ。物件に対して使う言葉としては不適切かも知れないが、親父とお袋が遺してくれた忘れ形見なのさ。
俺が生まれた年に建てられたから築約十五年――なのに傷一つ付いてない新築同然だ。そりゃそうか……親父とお袋が住んでいた期間はそれ程長くはない。そして売りに出されることも無くずっとここに佇み続けてきたんだ。
十年も放置していたもんだから辺り一面埃を被っちゃいたが、それを全部取っ払ったらものの見事にピカピカだ。こんな良い家は他にない。どんな豪邸よりも良い家だ。
そんな家に対して床を傷つけるように皿をおとしてしまったり、ソースで床を汚してしまったり、魚介がフローリングの狭い溝に埋まってしまうような事をしてしまったりして、本当に申し訳ない。
これから十年二十年、果ては老後まで過ごすであろうこの家を早くも傷物にしてしまったことに申し訳なく思ってしまい、俺はこの家に対してそう謝罪を――独り言を漏らしたんだ。
傍から見れば異常とも思えるだろうが、愛着あるものがあると自然とこういう態度を取ってしまうんだ。それは犬や猫などの愛玩動物に限った話じゃない……家だってそうだ!
欲しい物も我慢して、安月給(例えそうじゃなくとも)でようやく築き上げたマイホームに愛着を持たない奴はこの世にいないだろう?
そんな経験をしたことのない青二才が何を抜かすかと罵詈雑言を浴びせる大人もいるだろうが、俺はそんなことをきっと思っていたであろう両親の遺志を継いだに過ぎん。
俺は確かに自由になったが、この家を守っていかなければならないという義務がある。例えどんな暴漢が襲ってこようが、リフォーム詐欺が押し入ろうが、どんな手段を使ってでも守ってみせる。それが一城の――一家の主の務めってもんだろ?
さて、漸く掃除が終わった……ぶち撒けてからかなり時間を要したから床の隙間に染み込んだりしちまったかと危惧したが、俺の懸命な施しにより前よりも一層綺麗になったように感じた。
皿を落とした時に一ミリにも満たない小さな傷一つ付いちまったのは凄ぇ残念だが、この程度の傷で済んだことは寧ろは不幸中の幸いといったところだろう。
全く……あの野郎が余計な事をしなければこんなことにはならなかったんだ――お陰で食う物も無くなっちまったし(食う気などさらさらなかったが)、一張羅の制服も汚れちまったよ。
結局俺は棚に常備してあったカップラーメンで今日の夕食を済ませる羽目になった。これで三日連続カップラーメンか……決して味は悪くないがこんな生活続けてるとそのうち身体壊すな……いい加減自炊しねぇとな――。
風呂に入るのも今日は止めておこう。ただでさえさっき雑巾掛けで大量の水を使ったんだ。来月の水道代の請求も怖いし、汗も大してかいてない……ああ、止めておこう。だが制服だけは洗っておかねばならん! 明日も着ていくんだし格好悪いったらありゃしねぇ……。
七時半か……今日の新聞のテレビ欄を見る限り、相変わらず良い番組はやってなさそうだ。特にやることもねぇし、年寄りでももう少し遅く寝るんだが、今日のところはもう床に就くとするか。
俺の部屋は二階にあるんだがこの部屋は元々親父とお袋二人の寝室だったらしい。だからこの家に似つかわしくないキングサイズのベッドが部屋の真ん中にドンと設置されているんだ。いい歳した大人が一つのベッドで一緒に寝てたってのか?
考えただけで虫唾が走りそうだが、そんなベッドも俺が独り占めできるんだって考えを変換すりゃそんなことは関係ない。
俺は勢いよくベッドに飛び込んで体を預けた。俺の体重の重みでボフッと一瞬沈むベッド。嗚呼、フカフカだぁ……こんな広くて柔くて寝心地のいいベッドで毎日睡眠を貪れることができるなんて、俺はなんて幸せ者なんだ……。
こいつで一晩寝ちまえば、今日一日遭った嫌な事全部忘れちまうんだよなぁ……。そして明日も嫌なことが起きて、寝たら忘れて、嫌なことが起きて、寝て忘れて……の繰り返しだ。
ん? それは学習能力がねぇからだって? …………放っとけ。
それでもいいんだよ。くどい様だが、俺はもう自由なんだ。不良だのダメ人間だの言われようが、勝手に言わせておけばいいんだ。金の心配だって必要ない。何故か俺の銀行口座に膨大な量の金が振り込まれていたからな。きっとお袋か親父が保険に入っていて、その保険金が支払われたんだろう。俺の暮らしは順風満帆、悠々自適だ。
何も心配することはない。備えなくても憂いなどないんだ。これで今日も安心して惰眠を貪るができる。いや、今日もとは言わず未来永劫、このまま永遠に安穏とした生活ができることを祈りたいもんだ。普通にこのまま暮らしていけば、少なくとも向こう十年は何もせずに暮らしていくことができそうだ――いや、それだと未来永劫とは言えんか。
でも、その願い……俺の力で叶えてみせよう。自由を守り、家を守り、そして安らかな熟睡も守るとしよう。なんせ俺は、一城の主……だからな。それくらいできなくてどうする。
そう心の中で宣言している内に、眠気に誘われ、夢の中へ誘われていったのだった。
でも……よくよく考えたら、口で言うのは簡単だよなぁそんなの。それを思い知らされることになるなんてな。
――実を言うとここまでが本当に全部前置きだ。
物語が始まるまでのプロローグとでも言うべきか、俺が自由を手に入れて早三ヶ月……そんな自由が……まさか、奪われることになっちまうなんて誰が予想した⁉
こんなことならリュウやツヅのしつこい説得の方がまだマシだったぜ。俺の自由を奪ったのは他でもない……あの事件だ。何故か俺達が住んでいるこの町限定で起こってしまった怪事件……ローカル過ぎる! だがテレビでは大々的に取り上げられていた。普段見ないニュースをこの俺が見入った程だ。当たり前だろう! この事件によって俺の自由が――奪われたのだからな! 誰かに話したくて仕方がない……そうだ、こうなったらお得意の独り言だ! その事件の一部始終……この俺が逐一説明してやろう!
む? 何故お前がその事件の全貌を知っているかだって?
――そんなの当り前だろう? なんせ俺は、結論から言うと、この事件の被害者であり、真相を解き明かした……四人の協力者の内の一人だったのだからな!