10. はぐれ者、はぐれるのを辞める
「う……うぅ……ん――眩し……」
この和室の窓は、内側に障子張りの引き戸、外側はサッシにはめ込んだガラスという二重窓の構造になっているにも関わらず、しっかりと朝の日差しは差し込んできて、眠りを貪る俺の瞼を刺激し、朝の訪れを知らせるんだ。
一応寝室としての役割を果たしているこの部屋だが、二重窓のくせに二階にある天窓から当たる日差しとほぼ明るさが変わらず、何より俺はい草の臭いが嫌いだ。だから俺はこの部屋で昼寝したり、一晩明かすまで眠るのは御免なんだ。オプションとしてどこの馬の骨とも解らん奴の血液が付着した布団で眠るのなら尚更だ。
だがそれをせざるを得ない状況に陥れられてしまったんだ――まだ隣で寝息を立ててながら、俺の身体に両腕を回して眠っている……お――腐れ縁の所為で。
もう既に約半日近くの時間眠りに落ちている筈なんだが、俺の身体に纏わりついた腕が離れた形跡がない。普段の寝相を考えるのであれば、一度くらいは寝返りなりなんなり打ったことが解るもんなんだが、今回ばかりはそんな風なことは微塵も感じ取れなかった。
コイツとは――ツヅとはもう十五年来の付き合いになる。朝起きて夜寝るまで、ずっと一緒だった。
寝坊助だった(今もそうかもしれん)コイツを何度起こし続けたことか……大声上げて泣いていた時に、何度慰めてやったことか……コイツの隣で寝ていた時、何度コイツの寝相の悪さで何度も起こされ、幾度となく寝不足になったことか……。
だから分かる、分かるんだ。コイツが俺の身体に纏わりついてきて以来、一度も寝返りを打たなかったことを。
そうまるで――俺から離れたくない、ずっと一緒に居たいと言わんばかりに……。
否が応にも思い返される……昨日寝言とは言え、ツヅが言ったあの一言が……。
仕込みにしてもあまりに出来過ぎた状況、行動、展開。何かのフラグが建たんばかりだ……! 俺の考え過ぎかもしれんが……この何とも言い表しがたい感情は何だ……?
まただ……また俺は何を考えようとしているんだ……! ふざけるなよ俺! 振り払え! そんな杞憂など振り払え! ――と、文字通り、俺は頭を振り払っていた。
「おい、起きろツヅ!」
頭を振ったことで乱れ狂った前髪を整える間も置かず俺はツヅを起こしにかかった。とにかく俺は余計な考えを起こすのを止めたかったんだ。
「うぅ……う……ん――あれ? イチ兄……?」
俗に言う――『天使の輪』というヤツだろうか、二重窓から差す朝の日差しに綺麗に照らされたその輝きは、おかっぱカットの髪の毛が一切乱れていないからこそ成り立っている。一度も寝相を打っていないのだという事実をまざまざと思い知らされることにもなる。
十六年生きてきてこんなに綺麗な輪っかを見たのは正直、初めてだった。毎朝毎朝酷い有様になっていて――その後、手鏡片手に手串でいそいそと整えるのが定番だったからな。
「なぁに? ツヅの髪じっと見つめて――あ!
もしかしてまた寝癖ヒドイ⁉ 直ぐ治さないと!」
「乱れてねぇよ。むしろ乱れてんのは俺の方だ……」
と、思い出したかのように俺は乱れた自分の前髪を手串で整え始めた。慣れたもんだ、前まではワックスを付けなきゃいけなかったのに今ではもう綺麗に三本の束を作る事が出来る。形状記憶でもしてんのかね? 俺の髪は。
「さて、寝起き早々で悪いがツヅ、俺はお前に訊きてぇことがある。お前……何でまた俺の家に勝手に侵入しているんだ? あれだけ俺に酷い事を言われ、されておきながらまたも懲りずにここへのこのことやってきた……お前の鋼のメンタルには正直、この俺も末恐ろしいものを感じずにはいられねぇ」
「………………」
まあ……あんな泣き顔を俺に晒して出て行っている時点で、鋼も糞もあったもんじゃないと思うが。
「……ツヅは、別に……イチ兄のこと、嫌いになったわけじゃないから……」
「何?」
「昨日ね、イチ兄にひどい事されてすごく悲しかったし、寂しかった。今のイチ兄は……イチ兄だって認めたくないけど、それでも、ツヅにとって、イチ兄はいつまでもツヅの思っているようなイチ兄だから。ね? だから――」
そう言いながらツヅは、自分の両手でも包みきれないくらいの大きさの俺の両手を出来る限り包み込ませながら、
「イチ兄の為に、また美味しい料理作ってあげたかったの。それだけ」
「………………」
ツヅは笑った。口角をやや上にあげて、ニコッと。
歯痒い。この場合の歯痒いってのはツヅのこの行為に対してのそれではなく、自分が昨日行った行為、そしてそうなるであろうと予想した俺の浅はかな考えに対してだ。
共に暮らしていた筈なのに。寝食を共にしていた仲だというのに。俺は何も解っちゃいなかったんだという無知さが愚かで歯痒くてしょうがない。
俺が思っていた以上に、コイツは――ツヅは強い心を養っていたんだ。
判断材料に欠けるところもあるが、たった数ヶ月別居しただけで。別居すると決まった時、大声上げて泣きじゃくっていた女が、強くなったもんだよ。
何故だろうな……娘を持つ父親の気持ちってのが、まだまだ餓鬼の分際でありながら、解った様な気がするぜ。
「……へッ、お前のそのツラ見ると、拍子抜けって言うか、怒る気も失せちまうな」
「怒っちゃ駄目だよ。イチ兄は笑っている方が格好良くて、ツヅは大好きだよ!」
「ツヅ……」
俺は甘い。甘ちゃんだ。不良少年が形無しだ。
いや、元々不良ですらなかったのかもしれない。人間良くも悪くも直ぐに変われるもんじゃねぇ。身なりや行動など、形だけでは不良になっていたかもしれんが、心まではそこまで黒く染まっていたわけではない。所謂、白い部分がまだ俺には残っていたんだ。
昨日、賽子をあそこで放っておいたり、ツヅを起こすことが出来なかったりしたのも、全て俺の白さが招いた行いだ。
せめてあわよくば、グレーぐらいに染まってくれていたらと思って言ったが――ものの見事に真っ白だったよ。燃え尽きていたというよりは、不完全燃焼だ。
そう思えば思っちまうほど、不良として過ごしていたお試し期間が無駄な事だったと思い始めてきた……!
「ツヅ、済まなかったな。俺は、なんて無駄な時間を過ごしていたんだ」
「へ?」
「俺はやっぱり、自分を偽って生きてきたようだ。この三ヶ月のブランク――って言い方はおかしいかも知れねぇが、本来の俺を、お前やリュウが望むような俺に、戻ろうと思う。だからツヅ――」
「イチ兄――」
「それは素晴らしい心がけでございますわね!」
「⁉」
しんみりとした雰囲気に水を差す様に不似合な大声と拍手と共に現れたのは、銀髪碧眼の毒舌委員長――有栖川愛梨栖だった……じゃねぇ! いや待て待て待て待て待て待て待て!
「お前いつからそこに居た⁉ ていうか勝手に人ん家に這入ってんじゃねぇ!」
「あ、アイ姉……おはよう……」
「おはようございます結文さん。ですがもう少し元気よく大きな声で挨拶しましょう。あと私の事を、そのようにあだ名みたいに呼ばないで下さい、不快です」
女相手にも容赦ない毒を吐くなコイツ……友達いんのか?
「そしておはようございます一さん。我が校の生徒らしく全うな学校生活を志して頂けたことにはまこと感心させられるのですが、不純異性交遊はいただけません。思春期の女子と共に一夜を過ごすなんて淫猥の香りがプンプン致します!」
「へっ。お前みたいな優等生にも、そこら辺の知識があるとは意外だ」
「ええ、むしろ興味が持てます」
持つな。そして優等生であることを謙遜しろ。
「というか話を逸らさないでいただけますか? お互いに衣服の乱れはなさそうですが、ここで一夜を過ごしたのは確かでございます。原稿用紙五枚分の反省文をお書きになる覚悟はおありですか?」
「はあ⁉」
人の家に勝手に上がり込んでくるような奴がどの口叩いてやがるんだ。そっちの方がよっぽど反省文ものじゃねぇか! と言うか、それ以上だ! 犯罪だ犯罪!
あと『一夜を過ごす』とか言うんじゃねぇ……! 確かに一緒に寝たは寝たけどよ!
「学校へ登校したら直ぐに書いてもらいますからね。あなたは面倒な物事を後回しにする癖がありますから」
「くそ……」
「イチ兄……ガンバ」
「? 何を言っておいでですか結文さん? あなたも連帯責任ですよ? 常識ですよぉ?」
「うえぇぇー⁉」
鬼だな。ツヅは大して気にしてないようだが、煽るような毒舌がまた癪に触る。
まあ当然と言えば当然か、俺だけが書くってのは不公平ってやつだ。俺の家に上がり込んでいたから自業自得ではあるが、共に犠牲になってもらおうか。
「ほらほら、解ったら早く学校へ行く準備をして下さーい! 遅刻しますよぉ!」
「ふざけんじゃねぇ、まだ七時じゃねぇかよ! どうせ飯は食わねぇんだ。あと一時間くらい寝かせろ」
「イチ兄……ツヅが作った朝御飯、食べてくれないの……?」
「朝飯って言うか昨日の夜飯の残りだろ! いや……食ってねぇから残りでもねぇのか」
「どっちでもいいので二人とも早く学校へ行く支度をして下さい! 愚図は嫌いです!」
それはもう毒舌じゃねぇ。ただの悪口になってるぞ。
だが不思議とストレートに悪口を言われると実際それ程ムッとは来ないもんだ。こいつにとっての、そして受け身側にとっての悪口ってのは、決して悪気のない毒であるということらしい。
「チッ。五月蝿えなぁ……眠気も冷めちまったい。ほらツヅ起きろ、委員長様の命令だ」
「う、うん……あの、イチ兄。御飯は、食べて行って……ね?」
「わあかったっつうの。食ってってやるよ」
「やったー! イチ兄大好きぃ!」
変わり身の早いことで。守りたい……その笑顔――なんて言葉が口を突いて出ちまいそうなくらいの邪気の『邪』の字の部首、『おおざと』も知らなそうな喜色だ。
今までケンカしてきた不良どもにこの笑顔を見せてやりたいぜ。一目で改心しようって気にさせてくれる女神の微笑みだ。……いや、女神と言うよりは――小天使か。
「あの……一さん? ちょっとよろしいですか……?」
と、後ろから震えた声色でそう尋ねてきた有栖川の表情を見ると、身体も同様に震え、表情も顔面蒼白だった。さっきまで顔を真っ赤にして怒っていたというのに一体どうした?
「あの……非常に卑猥な表現なので申し上げにくいところではありますが、いつかは私も経験せねばならぬ身でありますので……勇気を持ってお訊きいたしますが――」
「?」
言っている意味がいまいち解らず首を傾げていると、俺達が寝ていた布団を指差し、
「初めてとは……そんなに出るものなので御座いますか……?」
家から追い出してやった。いや、有栖川が布団に付着した血痕を例の何かと勘違いしたのを説明するのが面倒くさかったからじゃあなく、ふとあいつの足元に目を向けたら、土足で我が家に侵入してたという衝撃的事実に、堪忍袋の緒が切れたからだ。