橙と蒼
「ねえ」
と、あいつは言った。
「僕たち、どこまでやれるかなあ」
弱々しい声だった。あいつは俺と違って、臆病で泣き虫で気が小さくて、なんにもできないやつで、いつもランドセルを背負って下を向いていた。このときだって、あいつは座ったブランコをろくに漕ぎもせず、ずっと足元ばかり見つめていて。だから俺は、膝を曲げて両手に握った鉄の鎖をぐいっと体に引き寄せながら、こう言ったんだ。
「さあな」
明るく大きく、はっきりとした口調で堂々と。出来ているかはわからないけれど、正義のヒーローが敵に立ち向かうときみたいになんの不安もないかのような笑顔を浮かべているつもりで、そう言った。体が勢い良く前に揺れて、一瞬、さっきよりも少し上の視線で景色が見えた。と思ったら低くなって、今度は後ろに揺れて上がる。また勢いをつけてブランコを漕ぐ。きい、と金属が擦れる音が響く。
「未来なんてわかんねえよ」
俺にもあいつにも夢があった。やらなきゃいけないことがあった。その二つは全く別の方向を向いていたけれど、でもなんだか同じもののように見えた。
「そう、だよね。でも、僕しか、いないんだ」
あいつはまだ、下を向いていた。小さく揺れるあいつのブランコから、きい、という金属音がため息みたいに虚しく聞こえた。
もどかしくなって、俺はあいつが驚いてこっちを見上げるくらい、大きな声を張り上げた。
「でもさ」
さっきよりも一段と強く、鎖を引っ張る。
「上向いていこうぜ」
そう笑うと、あいつも小さく笑ったのがわかった。
「下向いてたらなんも見えねえよ。未来ってのはさ、きっと、上から来るんだよ」
「なに、それ」
楽しそうにとまではいかないが、あいつはおかしそうに笑って、ブランコを少しずつ漕ぎ始めた。
空を見上げる。
「だってさ、そっちの方がなんか、かっこいいだろ」
真っ青な空に、少し灰色に濁った雲が浮かんでいた。こんなに体は大きく揺られているのに、空の景色はちっとも変わらない。雲はゆっくりと、風に吹かれるままに流れていく。
もう漕げる限界に達していた。向かいに見える滑り台と同じくらいの高さだ。あいつはまだ半分くらいなのに、少し怖がっている様子だった。でも、漕ぐのをやめてはいなかった。
俺は鎖を握る手に力を込めて、思いっきり、体を後ろに反らした。
「わっ…!」
そこで見えた景色に、思わず声が出る。刹那急速に近づく地面に焦って体勢を戻し、あいつの方を振り向いた。
「お前もやってみろよ、これ!」
声を上擦らせながら言って、もう一度体を後ろに倒す。あいつは、最初は不安げな表情をしていたが、やがて両手で鎖を握りしめて恐る恐る体を仰け反らせていった。その様子を横目で見ながら、「地面に頭ぶつけないようにな」と悪戯っぽく言うと、「わ、わかってるよ!」という返事が返ってきて。
「わっ…!」
そうして間もなく、同じ感嘆が聞こえる。その目は驚きと感動で大きく見開かれきらきらしていて、きっと自分もさっき同じような顔をしていたんだろうな、と思った。
視線を前へと向ける。逆さになった視界に映るのは、逆さになった花壇と、フェンスと、その奥に流れる大きな川。そして川のさらにずっと先、地面に吊り下げられたたくさんの建物の間から、今は下にある深い深い空に向かって、複雑な構造をした巨大な柱がまっすぐに伸びていた。途中で一度膨らんで、そこからだんだんと細くなって、最後には空に消えていく、日本一高い樹。逆さになった、大きな大きな一本の塔。
東京スカイツリーだった。
☆
「…僕ら、あんなに高くも大きくもなれないけど」
それから数分後。ブランコを止めたあいつは、反対向きに座り直して言った。俺も同じようにする。目の前に、さっきまで逆さまだった高い塔が天を貫くようにそびえ立っている。
「でも、なんかどうでもよくなった。高いとか届かないとか、そんなの逆さまになってみたらよくわからなくて。よくわからなくなるものなんだって、初めて知った」
あいつはスカイツリーのてっぺんを見上げている。
「僕がやらなきゃいけないってことは、変わらないよ。上手くできないかもしれない。でも、それでもいいんじゃないかって思えたんだ。だって」
だって、本当に綺麗だったんだ。
そう、あいつは言った。
「それにさ」
俺を覗き込むように、だがどこか悪戯っぽく笑って見てくる。
「あの塔よりずっと高いところから僕らの未来はくるんでしょ?」
「…そうだよ」
なんだか恥ずかしくなって、上を向いた。
仄かなオレンジ色に染まり始めた空はどこか暖かく、けれどどこか寂しげで。視界の真ん中を邪魔するようにブランコの支柱が通っているから、それをどかすように小さくブランコを漕いだ。
あいつも隣で空を見上げながら小さく漕ぐ。
「それならもう、怖くないよ」
呟きだった。
だから俺も言った。聞こえないくらいの声で。
「ああ。俺たちは俺たちにできることを、やればいいんだ」
未来が、こんな空から来ればいい。橙と蒼、全く違う色同士が混ざり合い、雲の灰色で濁った空は格別綺麗というわけではなかったけれど。でも、どうしてだろう。目を閉じても、この空の色が消えない。遠い未来を想像しても、そこにはなぜか今と同じ空があって。
きっと俺は一生、この景色を忘れないだろう。忘れることなどできないだろう。なぜだかそう根拠もなく信じられるような。
そんな、泣きたくなるような空だった。
「きっと未来は、この空みたいな色をしてんだよ」
俺のその声が届いたのか届かなかったのかはわからない。だが、あいつは笑わなかった。
ひたすらまっすぐに、空を見上げ続けていた。