此処にいる、ということ。 2
ユエル様に言われたとおり、夜着に着替えて寝台に入った。一人寝には大きすぎる寝台。真っ白な平織りの絹の肌掛けと、水鳥の羽がふんだんに詰まっているらしい、大きな羽毛布団。贅沢すぎる舶来品の寝具に、未だに戸惑ってしまう。気もそぞろになる一方で、心地好さのあまり、毎夜深々と寝入ってしまうのだ。
ほどなくして、ユエル様が戻ってきた。水差しと、土鍋をお盆に乗せて。
「女中達がちょうど芋粥を作っていた。食べるといい」
「え、あの……っ」
「朝食代わりにちょうどいいだろう。何も食べないままでは体にもよくない。それと、薬も用意させた」
ユエル様はベッドに腰かけ、上半身を起こしたわたしにお盆を持たせた。水差しはベッドの脇にある小さな卓子に置き、そして土鍋の蓋を開けてくれた。お米と芋の、しっとりとした甘い香りが立ちのぼる。
「ああ、待ちなさい、ミズカ。そのままでは熱いだろう」
膝の上にお盆をのせようとすると、ユエル様は持ってきた綿布をたたみ、お盆の下に敷いてくれた。細やかな心遣いに、わたしは焦り、うろたえるばかりだ。
「あ、あの……っ、あの、ユエル様っ」
「ん?」
ユエル様は小首を傾げ、わたしの顔を覗き込んでくる。
銀色の長髪が、さらりと肩から流れ落ちる。卓絶した美貌を間近に見て、わたしの心臓は情けなく悲鳴を上げていた。
ユエル様の、わたしを見つめる緑色の双眸は木漏れ日のように美しく、優しい。
「あ、あの、ユエル様、こんなことをしていただいて、わたし…………」
どうしたらいいのか分からないです……。
恐縮しまくって、声さえ詰まり、言葉が紡ぎだせない。
ユエル様はわたしを宥めるように、にこりと笑った。
「私が好きでしていることだ。そう畏まらなくてもいいよ、ミズカ。たまにはこういうのも、悪くない。……そうだな。ミズカ、これは私の道楽なのだと思ってくれていい」
「道楽、ですか?」
「そう。ままごとのようなものだ」
「……はぁ」
「だから、気軽な気持ちで付き合ってもらえればありがたい。私にとっても、他人の看病というのは、貴重な体験だからね」
「…………」
ユエル様は、本当に優しい方だ。
もしかしたら、ユエル様は天上に住まう、天人なんじゃないだろうか。優美で、高貴で、それでいて、優しいなんて。
面倒くさがりで怠惰なところもあるけれど、それらは貴人らしい鷹揚さのあらわれなのだろう。
時々、わたしのことをからかって、いたずらっぽく笑ったりもするけれど、決してわたしを蔑み、嘲弄したりはしない。わたしの、わたし自身知らなかったような感情を引き出してくれている……そんな気がする。
だからきっと、これらの行為もその一環なんだろう。
艶然と微笑んで、
「食べさせてあげようか、ミズカ?」
と、言ったのも。
「……っ」
わたしはふるふると首を振る。頬が火がついたように熱くなり、額から汗が噴き出した。
「遠慮しなくてもいいよ? 熱いし、そのままでは食べにくいだろう?」
「い、いえっ、遠慮とかじゃなくて……っ! わ、わたし、自分で食べられますから!」
「そう?」
ユエル様は目を細め、くすくすと可笑しげに笑う。
わたしの反応を楽しむ時のユエル様の笑顔は、どこか少年じみていて、それでいて目が眩むほどに美妙だ。
「熱いから気をつけて、火傷しないようにね」
「は、はい」
もうとっくに、心は火傷を負っている気がします、ユエル様……。
芋粥を食べ終わった後、今度は風邪薬をいただいた。薄茶色の粉末のそれは、漢方薬のような独特のにおいがした。
薬なんて、初めてだ。高価なものなんじゃないかしらと、どきどきして、飲むのを躊躇ってしまった。
「少々苦いかもしれないが、飲んだほうが治りは早い」
ユエル様は、わたしが苦いお薬を嫌っているのだと思ったようだ。
「まぁ、粉薬は飲みにくいようだから……なんなら、私が飲ませてあげようか、ミズカ?」
「そ、んな……っ」
さっきと似たようなやりとりを繰り返す。
ユエル様に誘導されっぱなしだ。遊ばれているのかもしれない。けど、ユエル様がわたしの身を案じてくれていることもわかるから、こんなやりとりも、決して嫌ではなかった。……困ってはしまうけれど。
不慣れなものだから、上手く粉薬を嚥下できず咽てしまったけど、どうにかこうにか服薬した。ユエル様はわたしの頭に手を乗せ、「よくできました」と髪を撫でてくれた。心が、くすぐったさにざわめいた。
その後も、いつまでたっても部屋から出て行こうとしないユエル様に戸惑うわたしに、
「眠れないのなら、添い寝をしてあげようか」
と言ってわたしの頬を撫でて微笑みかけてくれたり、
「子守唄の代わりに、寝物語でもしようか」
と言いながら額に浮かぶ汗を綿布で拭ってくれたりと、ユエル様はわたしの動揺をさらに煽って、落ち着かせてくれない。
眠れないのはユエル様のせいです……――
非難めいたことを、つい口走りそうになる。
布団の端をつかんで、感情を包み隠した。
薬のせいなのだろうか、頭の芯がぼうっとなってきて、瞼も重い。意識がぼんやりとし、霞がかってきた。
「ミズカ、……大丈夫だから」
枕頭で、ユエル様が優しくささやいた。大丈夫だから、気を静めてゆっくり休みなさい、と。
「…………」
――怖かった。
目を閉じたくなくて、意識して、瞬きをしていた。
ユエル様の端整な顔が、次第にかすんでゆく。目を閉じたら、何もかもがすべて泡沫のように儚く消えてしまう気がして、……怖かった。
でも……――
――でも、夢でもいいと、思った。
だって、今こうしているのが夢だったとしても、ふわりとやわらかな幸福感は、きっといつまでも胸に残って、心を温めてくれるから。
今ここに、こうしていられるだけで、十分すぎるほど幸福だ。
視界が狭まり、暗くなる。水底に沈んでいくように意識が薄らいでいくのを感じていた。
「ミズカ」
囁くユエル様の声も、もう……遠い。
手を握られた感覚があった。
やんわりと押し包むように、わたしの手は、優しく握られている。
――無意識に、わたしはその手を握り返していた。
「ミズカ。……君は、……――」
かすれて消えそうな、切なげな声が聞こえた。
そして、枕頭にある気配はいつまでもそこから動かず、わたしの手をずっと握ったままでいてくれた。
* * *
わたしは、あろうことか三日間も床に臥し、使用人としてはありえない処遇を受け続けた。床払いをしたのは、寝込んでから三日後。
ユエル様の手厚い看病のお陰で熱も下がり、快癒した。ユエル様は、「油断は禁物だ」と窘めるように、言う。そして、「くれぐれも無理はしないように」と、微笑みかけてくれるのだ。
何度、ありがとうございます、と頭を下げても、足りないくらい。
感謝の気持ちを伝えるのに、わたしの語彙はあまりにも少なすぎ、感情は揺らぎすぎていた。
「今までの疲れが一気に出たのだろう。三日と言わず、五日でも十日でも、もっとゆっくり休んでいればよかったのに。何もそう、慌しく床払いせずとも」
「そんなわけには参りません」
「ミズカは働き者だね。性分のようだから、これはもう、直しようがないかな?」
類稀なる美貌の持ち主であるユエル様は、皮張りの長椅子にゆったりと腰を沈め、寛ぎきった姿勢でいる。片手には分厚い本がのっているけれど、視線は、わたしにばかり注がれていた。
ユエル様の目に映っているわたしは、使用人然としている……はず。
片手にハタキ、片手に雑巾を持ち、忙しなく室内清掃に励んでいる。掃除をしているのは、書斎。ユエル様の私的な空間で、ユエル様は、寝室で過ごすのと同じくらい多くの時間を、この書斎で過ごされる。
「それにしてもユエル様」
わたしは書斎をざっと見回し、ちょっとだけ責めるかのような声を出した。
「四日前に掃除したばかりだというのに、どうしてこんなに散らかってるんですか? もう……、本も服も、あちらこちらに放りっぱなしで!」
わたしは床に落ちている料紙や新聞紙を拾って歩く。ところどころに埃がたまっていて、掃き掃除の必要性をひしひしと感じた。
換気のために開け放たれた窓から、甘い香りのする南風がするりと忍び込んでくる。桜の花の香だろうか。和らいだ風に運ばれる蜜の微香は、心を奇妙な具合にくすぐってくる。そわそわと落ち着かなくさせる、そんな香りだ。
ユエル様は楽しげに笑っている。
「君のためだよ、ミズカ。散らかっているほうが掃除のし甲斐があるだろう?」
「それは、そう……とも言えますけれど」
ユエル様は時々こうした子供っぽい屁理屈を言って、わたしを困らせる。
「私の部屋の掃除は、ミズカに担当してもらうことにしたよ。だから毎日、ゆっくり時間をかけて、私の部屋の掃除を頼むよ、ミズカ」
「…………」
玲瓏なる微笑を向けられ、わたしは言葉を失い、頬を赤らめて立ち尽くしていた。
「そして、掃除の合間には、私とともに、お茶を」
そんなことできませんと、返すこともできず。
できたのは、ユエル様の要望に応え、お茶を淹れて差し上げることだけ。ともに居る、ということだけ。
今、此処に居る。その僥倖に感謝しながら。