此処にいる、ということ。 1
本編よりずっと昔、ユエルと出逢って間もないころのこと。
気忙しい文明開化の足音が、身近に聞こえるようになった、あの頃――
明暗入り混じった時勢がめくるめく流動していたように、わたしもまた、落ち着かなげに、新しい日々を過ごしていた。
美風が頬を撫ぜるような、優しく甘い、夢のような日々――
夢でもいいと、思った。
たとえ、いつかは醒めてしまうにしても。
それでもよかった。
目醒めてしまうという不安を抱えながら、あたたかな夢にまどろんでいた。まるで揺りかごの中で安らいで眠る赤子のように。
不安という感情さえ、わたしには贅沢な思い。だから不安を抱えているそのことすら、わたしには「夢」のようだった。
夢は、いつか醒める。醒めるからこそ、夢に浸っていられる。
だから、せめてと思う。夢なら、と。
優しい緑色のまなざしに包まれた夢の中、ひと時でいい、ひそやかにたゆたっていたい。
たゆたっている、というより、今のこの感覚は、ふわふわ頼りなく浮いている、といったところかも。
気だるくて、頭も重い。身体もかたくて、きしむような痛みがある。
薄曇の空模様が、そのままずしりとわたしの身体を覆いかぶさってくるようだった。
霞がかかっている空と同様に、わたしの頭もぼんやりと靄がかかっていて、薄暗い。
知らず、ため息がこぼれでた。
と、その時だった。
「ミズカ」
「……っ!」
人気のない静かな廊下、いきなり背後から名を呼ばれ、飛び上がるほどに驚いた。
くすっ、という忍び笑いが聞こえた。振り返ると、銀の長髪と緑の双眸がことに目を惹く、美貌の青年がいた。優艶な微笑を浮かべてわたしを見ている。
まだ耳慣れない、「ミズカ」というわたしの名を、ごく自然に呼ばわるその人は、現在のわたしの「ご主人様」。
容姿端麗、眉目秀麗という覚えたての語句が目の前でチカチカしていて眩暈がする。心臓もドキドキ鳴ってて落ち着かず、わたしはみっともないくらいに周章している。
だけど! ご主人様に対して礼を失してはいけない。
わたしは深々と頭を下げた。
「おはようございます、旦那様」
「おはよう、ミズカ」
わたしの新たなご主人様は優しげに笑いかけてくれる。白く細い指で、しなやかな銀髪をかきあげるその仕草の優雅さときたらまぶしいほどで、とてもじゃないけれど、真正面からは見ていられない。
「ところでミズカ」
「は、はいっ」
美貌のご主人様はわたしに近づいてきた。手を伸ばしたら届きそうなくらいに、近い。
「はい、なんでしょう、旦那様」
「……旦那様と呼ぶのはやめて欲しいと、前に、言ったね、ミズカ」
「あ、……は、はいっ、申し訳ありません! だん……いえ、あの、ユエル様」
わたしは慌てて言い直した。
「ユエル様」と、ご主人様の名を口にした途端、頬が熱くなった。さっきからちっとも治まらない動悸は、さらにひどくなって、息まで苦しくなってきた。
「怒っているわけではないよ、ミズカ」
ユエル様は小さなため息をこぼし、困ったような微笑を口元ににじませていた。
「旦那様と呼ばれるのが嫌なわけではないからね」
「…………」
ユエル様は、わたし以外の使用人に「旦那様」と呼ばれても、やめるよう注意することはない。むしろ、名を呼ばせないようにしているみたいだった。たまにある来客も、曖昧な呼び名を使っていた。「貴殿」とか「貴公」とか「公子殿」とか。
ユエル様はそうした呼び名を、あえて使わせているようだった。何故なのかは分からない。本気かどうか、これもまた分からないけれど、以前、「自分の名を、他人の記憶に残したくない」と述懐したことがあった。
案外、本気なのかもしれない。
「繰り返して言っているが、ミズカ、君は使用人ではないんだよ。そんなつもりでこの屋敷に招いたのではないから」
「ですが……」
ご主人様に反論なんてもってのほかだけど、つい、消極的にだけれど、言い返してしまった。
「わたしはユエル様に召し抱えられたのだと思っています」、と。
あれから、一年あまりが経った。
行き倒れている銀の髪の異人さんを、見捨てて置けず、助けてから。
もっとも、助けたといっても、大そうなことはしていないのだけれど。
風雨をしのげる程度の粗末な部屋で、濡れた身体を拭き、ごわついてかたい布団でくるんで温める程度のことしか、できなかった。
あの時の行き倒れていた異人さん、それが、今わたしの目の前にいるユエル様なのだ。
ユエル様はわたしに恩義を感じたのだろう、奉公していた子爵家から、わたしを召し抱えてくれた。多額の買い付け金を、子爵家に置いて。
「恩は、たしかに感じているよ。金で買うような真似はしたくなかったんだが、あの場合はやむをえなかった」
ユエル様は、優しい方だ。
人を金で買う、という行為を厭っていた。
「不愉快な思いをさせて悪かった」と、すまなそうな顔をして、言ったのだ。
卑しい身分の、わたしなどに。
ユエル様のまなざしを受け続け、苦しくなった……のかもしれない。喉がいがらっぽくなって、咳きこんだ。咳をとめようとすればするほど、かえって咽てしまい、ひどくなる。
「ミズカ、具合悪そうだね? 風邪かな?」
「いっ、いいえ、大丈夫です」
わたしはどうにかこうにか咳をおさえこんで、言った。
「このところの花冷えで体調を崩したんだろう。無理をしないほうがいい」
「いえ、あのほんとに……」
「大丈夫とは思えない。……こんなに熱くなって」
「……っ」
ユエル様のひやりと冷たい手が、わたしの頬に触れた。思わず、身を竦めた。
「熱が上がってきているようだ。顔も、赤い」
「あ、の……」
ユエル様は硬直しているわたしの顔を覗き込んでくる。「寝んだ方がいいね」と、心配げに言って。
半ば強引に、わたしは部屋に連れ戻されてしまった。
「とりあえず着替えて、ベッドに入りなさい、ミズカ」
「あの、でも、だんな……いえ、ユエル様」
「なに?」
「わたし、あの……掃除やなんか、仕事が」
「さっきも言ったね、ミズカ。君は使用人ではないんだよ。それに、そんな足元も覚束ないような状態で、掃除などできないだろう?」
「でも……」
以前いた子爵家では、どんなに具合が悪くても、休ませてもらえるなんてありえないことだった。そもそも私室を与えられることもなかった。家畜同然……ううん、働く道具程度にしか見られず、そのような扱いしか受けてこなかったから、身体を労わられること自体にとまどった。
ユエル様は、そんなわたしの動揺を察してくれたのだろう。微笑し、優しさと悪戯っぽさを含ませた声で言った。
「病人は病人らしく、おとなしく横になっていなさい、ミズカ。私のように、思いも寄らぬ場所で行き倒れたいのなら別だが?」
「…………」
返す言葉も見つからず、わたしはこくんとぎこちなく頷いた。
ユエル様優しさを無碍に断るなんてできなかったし、これ以上の迷惑をかけたくないということもあった。
わたしの、少し汗ばんでいた額に手をあて、ユエル様は嘆息した。
「――熱があがってきたようだ」
「…………」
わたしは身を縮こまらせ、目を瞑った。全身が粟立っている。とくに背中と両腕に、針で突かれるような痛みがあり、それを堪えるために歯を食いしばっていた。
「水など持ってこよう。その間に着替えて、ベッドに入っていなさい。いいね、ミズカ?」
「は……い」
わたしの返事を聞いてから、ユエル様は部屋を出て行った。