ミニチュアローズ 2
日が陰った。ついさっきまで聞こえていた朗らかにはしゃぐ人達の声が、遠く離れていく。
奇妙な静けさが薔薇のアーチを囲んでいた。空の高いところで鳥がチィチィと鳴いている。忙しないその囀りも、風に消された。
ユエル様は、まるで流れた血を拭うように薔薇の花弁の縁を撫ぜている。花びらを無理に千切り取ったりはしなかった。茎を折ったりも握り潰したりもしなかった。なのに、ユエル様が触っている花びらが次第に茶色く変色してゆき、みるみるうちに花びら一枚だけではなく、一輪の薔薇が……枯れた。
ひらりと、外側の花びらが散って地に落ちた。元は紅色した薔薇の花びら。色を吸い取られ、無残に枯死した。
一瞬、わたしとユエル様の間にひやりと冷たい風が吹き抜けた。
薔薇の香りだろうか。青臭さに甘さの混じったような香りが鼻を掠めていった。
ざわざわと胸が騒ぐ。痛いほどに胸が高鳴って、体中が熱くなってきた。
「ユエル様!」
居ても立ってもいられなくなって、ユエル様に声をかけた。つい声が大きくなる。
周りに人はいない。わたしとユエル様だけしかいない。
だけど誰かに見られたら。薔薇を枯らしてしまったのを、……しかも指先で触れるだけで枯らしたのを見られてしまっていたら。
ユエル様は慌てる様子もなく、薔薇から手を離した。ため息をつき、薔薇の生気を吸ったその手を握った。
「ユエル様」
ほとんど無意識に、ユエル様のこぶしを掴んだ。強く握られたこぶしを、両手で包み込むようにして。
ユエル様がこちらに顔を向ける。微笑んでいた。けれど、緑の瞳に儚い翳りが落ちていた。
ユエル様は時々こんな風に自嘲的な微笑を浮かべる。
わたしを見ているようで見ていないような、そんな目をする。
動悸がおさまらない。不安で不安で、堪らなくなった。
だって、ユエル様がふいに消えてしまいそうで。わたしの前からいなくなってしまいそうで。
「あ、あのっ、ユエル様、向こうに行きましょう!」
心にかかる雲を払うように、少々わざとらしくても、明るい声を出した。
「向こうにも行ってみたいです、ユエル様!」
「ミズカ」
ユエル様はいささかとまどったような表情をし、今度はちゃんとわたしを見つめ返してきた。
「あっちの薔薇も綺麗ですよ! 噴水の周りの花壇も絢爛豪華で! 近くにいって見てみたいです。せっかく来たんですから、たくさん見て回りましょう、ユエル様! あ、それとカフェにも行ってみたいです」
ちょっと強引にユエル様の手をひっぱって歩きだし、薔薇のアーチをくぐり抜けた。
それからわたしとユエル様は、園内をのんびりと歩いて回った。なにしろ薔薇の種類が多い。ひとつひとつじっくり観察していくものだから、前へ進むのに時間がかかった。
途中、カフェにも立ち寄った。
ちょうどティータイムの時間で店内は若干混んでいたけど、窓際の良い席に案内してもらえた。
カフェではローズヒップティーというのを飲んでみた。
初めて飲む濃紅色のそれは、甘いのかと思ったら、存外酸味が強く、口当たりもさっぱりしていて、美味しかった。香りは控えめで、薔薇というより檸檬のような香りがした。
ユエル様が頼んだのは、ピンクシャンパン。薔薇の蕾が三つ落とされたシャンパングラスにシャンパンを注ぐ、ちょっと贅沢な飲み物。甘くて爽やかな香りを弾かせる、なんとも贅沢で端麗なお酒だ。そして、シャンパングラスを傾けるユエル様の姿の、なんと艶麗なことか。思わず見惚れてしまう。当然、カフェにいた女性達の目も惹きつけた。ユエル様は場の空気を変える。ユエル様が醸し出す、一種独特の美麗な雰囲気は周りにいる人達の気を呑んでしまう。
お傍にいるわたしは、いつものこととはいえ、やっぱりどきどきして落ち着かず、委縮してしまう。
園内散策中も、ユエル様は注目の的になっていた。
けれど近づいて来て話しかける勇気ある女性達は皆無だった。それもそのはずで、ユエル様は銀髪に緑の瞳という、いかにも「外人さん」な外見なのだ。あまりの美貌ぶりに気後れして声をかけられないというのも大きいと思うけれど。
女性達の好奇心にあふれた、少しばかり不躾な視線に、ユエル様は時折煩わしげな顔をしつつも、あまり気にしないようにしてるようだった。ユエル様の卓越した美貌は、どうしたって人目を惹く。ユエル様もそれは自覚しているから、仕方のないことと割り切ってるのだと思う。
ユエル様の顔に、憂鬱げな翳りはもう見られない。笑顔は穏やかで、優しい。
カフェで一息ついた効果もあったのかもしれない。
わたしはほっとして、ユエル様とのそぞろ歩きを楽しんだ。
八百種類もあるという薔薇は、まだまだ硬い蕾の状態のものもあったり、咲ききってしまってるものもあったり、様々な状態の薔薇を観賞することができた。色も種類も大きさも、目移りしては感嘆の声を何度もあげてしまうくらい豊富で、圧巻だった。
薔薇は、豪奢で華やかな印象が強い。たとえばユエル様のような麗しい方に相応しい花だと思う。
血のように赤い薔薇は、耽美なる吸血鬼のイメージでもある。
――だけど。
ユエル様は耽美であるには間違いないけれど、残忍な吸血鬼なんかではない。優しい悲哀を胸中に秘めて、吸血鬼である自分を責めるような表情すらする。
一通り園内を周り、たくさんの薔薇の花を観賞し、満喫しきった心持ちでいたわたしに、そろそろ帰ろうかとユエル様が言った。
思いがけず長く滞在していた。目の前にある大きな花時計が三時ちょうどをさしている。
バラ園の出入り口付近で、ユエル様が「少しここで待ってて」と言われた。待つこと、数分。わたしの元に戻ってきたユエル様は薔薇のブーケを差し出した。
ブーケを受け取ったものの、意図が分からず、ぽかんとした顔をユエル様に晒してしまった。
「え……、あの?」
小さな薔薇の、ピンク色の小さなブーケ。ベビーピンク、サーモンピンク、紫がかったピンク。同じピンクでも微妙に色合いが違うように、花の形も少し違う。大輪の薔薇ではなく、小ぶりの薔薇。
可愛らしいブーケを突然手渡されて、反応に困ってしまった。
「せっかく来たのだから」
と、ユエル様は微笑む。
お土産って意味なんだろうか? 素敵な薔薇園に来た記念?
でもたしかに、持ち帰っても観賞したい素敵な薔薇ばかりだった。ブーケにされている小さな薔薇も、とっても可憐で綺麗。
まさか薔薇の花を買ってもらえるなんて思いもしなかったから驚き、戸惑ってしまったけれど、胸がどきどきするほど嬉しい。
「ありがとうございます、ユエル様」
お礼を言うと、ユエル様は安堵したような笑みを浮かべ、けれどすぐにその笑みの上に不安げな色をのせた。緑色の双眸が、ひどく心細げだ。
「ミズカ」
「はい?」
「……ミズカ、怒ってない?」
「え?」
目をぱちくりと瞬かせた。首を傾げると、ユエル様は決まりの悪そうな表情のまま語を継いだ。
「薔薇を枯らしてしまったこと」
「…………」
「あの時、ひどく顔を強張らせていたから。不用意に薔薇を枯らして、ミズカに不快な思いをさせた。すまなかった」
「ユエル様……」
普段は見ることのないユエル様のとまどいがちな表情に、わたしはしばし言葉を失ってしまった。
いただいた薔薇のブーケを胸に抱いてユエル様の顔をじっと見つめた。それから小さく首を横に振る。怒ってなんかいません、と応えた。
「あ、謝らないでください、ユエル様。ただ、ほんのちょっと慌てて、焦っただけなんです。……誰にも見られてなかったようですし、もう、気にしてません」
枯らしてしまった薔薇は可哀想だったけれど……。
胸が痛かったのは、あの時のユエル様がひどく切なげで、苦しそうだったから。
一度俯き、再び顔をあげる。
「ユエル様」
「うん?」
「わたしは……、ユエル様が辛そうにしてる方が、辛くて、堪えます。あの、だから……無理だけはしないでください」
「ミズカ」
すっと、ユエル様の手がわたしに伸びた。ユエル様の手が触れたのは、胸に抱いた小さな薔薇。ふんわりと、ブーケに触れる。
ユエル様との距離が近い。首をうんと伸ばさないとユエル様の顔を見られないくらいに。
「ミズカに無理を強いているのは私の方なのだが」
「え?」
「……いや、気をつけよう。私も、ミズカが辛そうなのは辛いからね」
ユエル様は曖昧な笑みを浮かべた。柳眉の下、緑の双眸は薔薇の葉の色のように深い色をして、艶めいている。
「この薔薇を枯らしたりはしない」
そう言って、ユエル様は薔薇のブーケから手を離した。
「…………」
きゅぅっと、鳩尾のあたりが痛む。
どうしてだろう。時々こんな風に苦しくなる。ユエル様の微笑が胸を締めつけてくる。
痛くて、苦しい。でも、それを言ったらきっとユエル様を困らせてしまう。 だけどどんな顔をしたらいいのか分からない。笑おうにも、頬は熱くなるばかりで、緩んでくれない。
返答に窮しているわたしを気遣うように、ユエル様は少し首を傾けて、にっこりと優しく微笑んだ。いつもの、余裕ありげな笑顔だった。
「さあ、もう日暮れも近い。帰ろうか。帰ったら、紅茶を淹れてくれるかな、ミズカ?」
「あ、はい」
踵を返して歩きだしたユエル様の後を、慌てて追いかける。歩調は緩やかだ。ユエル様はわたしの歩幅に合わせてゆっくりと歩いてくれる。ユエル様は高身長だし脚も長いから、わたしの歩幅に合わせるのはもどかしいだろうに。
前を歩くユエル様の背を見つめる。
ユエル様の肩から背にかけて流れる長い銀髪は、まるで天使の羽根のようだ。今はたたまれているけれど、いつか羽根をひろげてわたしの前から飛び去ってしまうのではないかって、……少し不安になってしまう。
――ユエル様。
声に出しかけて、やめた。唇の端を締め、軽く下唇を噛む。
黙ったまま、ユエル様の後ろについて歩き続ける。つかず離れず、ついていく。
ユエル様にいただいた薔薇のブーケを顔に近づけた。
思いの外薔薇の甘い香りはしない。みずみずしくて、ちょっとひんやりとした感触が気持ちいい。
ユエル様に話したい事があるのに、訊きたい事があるのに、それがなんなのか、はっきりとした形にならない。ただ疑問符だけが頭に浮かぶばかり。
ユエル様はわたしにいろんなことを教えてくれる。いろんなことを知ってるユエル様だから、もしかしたら、わたしの胸がこんなにも痛むその理由も知っていて、訊けば教えてくれるかもしれない。……知ってても、はぐらかされてしまうかもしれない。
どうして。なぜ。ユエル様に訊きたい事はたくさんあるようで、たったひとつだけのような気もする。
分かっているのは、ユエル様はわたしの「ご主人様」であり「先生」でもあり、それ以上にかけがえのない、たった一人の大切な方なのだ、ということ。
それを分かっていればいい。
ミニチュアローズのブーケを、さっきユエル様がしたように軽く撫ぜた。
わたしにこの薔薇は枯らせない。ユエル様のように、薔薇から生気を吸いとることはできない。ただ、触れるだけ。
つと、薔薇の葉と細い枝に指先が触れた。
「……っ」
小さな薔薇の小さな棘が、指先に擦れて小さな掻き疵をつくった。皮膚の表面を僅かに切っただけの、小さな疵。
こんなに小さな薔薇でも棘があって、身を守ってる。
わたしにもその棘はあって、もしかしたらユエル様を傷つけてしまっているのかもしれない。
だけどユエル様は微笑んでくれるのだ。痛みなど感じていないふりをして、優しく微笑みかけてくれる。棘ごと、わたしを包んでくれる。
わたしも、ユエル様にそうしてあげられたらいいのに。
ユエル様の苦痛や悲哀を、飲み込んで、なくしてしまえたらいいのに。
たとえ今は、ユエル様にお茶を淹れてあげられるだけしかできなくても。
できることならいつまでもユエル様の傍にいて、そしていつかは、……――
「ミズカ?」
立ち止ったわたしに気づき、ユエル様は振り返った。心配そうにわたしの様子を窺ってくる。
わたしは作り笑いをなんとか浮かべて、「なんでもないです」と応えた。
「また来たいなって思ったんです。薔薇、すごく綺麗だったから。ローズヒップのお茶も美味しかったから、茶葉を買っておけばよかったなって思って」
「そうか。それならまた一緒に来ようか。まだ咲いていない薔薇もあったから、それらを観に行こう」
ユエル様は快く肯諾してくれた。嬉しくて、今度は自然に笑みがこぼれた。
「はい! もう、毎日でも行きたいです!」
「いや、さすがに毎日は。まぁ、ミズカがそうしたいというのなら、時々はつきあうが」
苦笑するユエル様に、「それじゃぁ、時々はつきあってください」とお願いした。
そして、どこにも行かないでくださいと、心の中で独りごちた。