ミニチュアローズ 1
ユエル様はわたしの大切な「ご主人様」。それと同時に、様々な事柄を教えてくれる「先生」でもある。
ユエル様と出逢う前のわたしは、何の教養もない無学な奉公人で、多少の「読み書き」が出来る程度だった。そんなわたしを教育してくれたのが、ユエル様だった。根気よく、丁寧に、たくさんのことを教えてくれ、身につけさせてくれた。学問だけではもちろんなくて、時代に合わせた生活様式から慣習、作法や雑学まで、その幅はひろく、憶えきらない程たくさんのことを教えてくれた。
ユエル様は「日本人」ではないのに、言葉ばかりではなく、本当に驚くほど日本の風習に馴染みきってた。
「長く日本にいたからね」
とユエル様は言ったけれど、日本語などを教えてくれる「先生」がいたとは聞いていない。適応性が高いどころじゃないと思う。何かにつけ、やっぱりユエル様は非凡な方だ。
一方、凡人のわたしは、必死になって勉学に励んだ。それこそ「読み書き」も一から始めるという心構えで。実際、日本語の「読み書き」は難しく、これに関してはユエル様も苦労したようだ。
「ミズカは素直に物事を吸収するから、教え甲斐があるよ」
ユエル様にそう言ってもらえた時は嬉しかった。優秀な生徒だとは言えなかったろうけど、ユエル様はわたしの努力を褒めてくれ、励ましてくれた。
わたしは「知る」ことに貪欲になっていった。
知識を得るというのは、なんて楽しいことなんだろうって、感動した。それがどんな些細なことでも嬉しかった。
もっといろんなことを知りたくて、気にかかったいろんなことをユエル様に尋ねて、答えを得ていた。といっても、ユエル様はいつも明確な答えをくれるとは限らなくて、返答を曖昧にぼかすことも度々あった。わたしをからかうためにわざと答えをはぐらかす時もあれば、詮索を避けるために話を逸らす時もあった。そういう時は無理に質問を重ねたりしない。必要な事であれば、ユエル様はちゃんと教えてくれるもの。
「ミズカは真面目だね。少し、生真面目すぎるくらいに」
ユエル様は緑の瞳をやわらかく細め、微笑してそう言った。「そこがミズカの美点でもあるが」と、付け加えて。
「もう少し気楽に構えている方が吸収しやすいよ。ミズカは、けっこう思い込みが激しいところがあるからね」
「うぅ……気をつけます」
「責めてるんじゃないよ。――ほら、肩の力抜いて、ミズカ」
「は、はいっ」
短く息を吐き、こっくりと頷いた応えた。
頬杖をつき、わたしを見つめてユエル様は可笑しげに目を細めて、優しく笑う。
小首を傾げると、長い銀の髪が肩からさらりと流れ落ちる。ユエル様の、その優麗な仕草を目の当たりにするたび動悸が激しくなることを、ユエル様は知っている……と思う。知ってて、わたしが顔を赤くするのを楽しんでる気がする。そういう人の悪さがユエル様にはあるもの!
そんな時、気恥ずかしさだけでなく、ちょっと口惜しいような、ちょっと嬉しいような、不可思議な気分になるのだ。自分では分からない感情が、胸の内に募っていく。
感情も、ユエル様に育ててもらってきたのだと思う。
たくさんのことを学んでいくうち、感情もたくさん増えていった。その感情のすべてを説明はできなくとも、心の動きがひろがっていったことだけは分かる。
ユエル様がわたしに生命を吹き込んでくれた。心を与え、潤してくれた。
――遠いあの日、……妖しくも美しかった満月の夜に。
ユエル様はわたしの見聞を広めるため、今まで、いろんな所に連れていってくれた。大抵は、のんびりと観光地を巡ることが多かった。
気ままな観光地巡りは“生気”を得るためでもある。人が自然に集まるところは生気を得やすい。ユエル様は苦笑まじりに、「選り取り見取り」と言う。
わたし達“吸血鬼”は、人間の生気を糧に生きている。だから人間の目から身を隠すことは結局できない。それでも、様々な人が集まっては流れる観光地は、身を潜ませるには都合がいいとユエル様は言う。
ユエル様は人出の多い所はちょっと苦手のようだけど、わたし自身は、人の賑わっている所へ行くのは、それほど嫌いじゃない。とまどいつつも、観光地巡りをけっこう楽しんでいた。
そして、それは春まっただ中の、とある日のこと。
「なかなか見ごたえのあるバラ園がある。ちょうど開花の頃だ。散歩がてら、観に行こう」
そう言って、ユエル様はわたしを誘いだしてくれた。
向かった先のバラ園は、さほど大きくはないけれど、観光スポットだ。開園したばかりの施設だったけれど、薔薇のシーズン真っ盛りということもあって、それなりに賑わっていた。パンフレットを見ると、様々な催し物があるようで、カフェもある。
チケットを購入し、入口の門をくぐると、そこはまさに薔薇一面の世界! まずは蔓バラのアーチがわたし達を迎えてくれた。
「わぁ!」
思わず歓声をあげたくなる、それほどの花々しい光景だった。
アーチを飾っているのは、ころんと丸いピンク色の薔薇。外側の花びらは白く、中心にかけてピンク色が深くなっていく。アーチに枝を絡ませながら、たわわに花をつけている。
足元を見ると、鉢植えがずらりと並んで、薔薇以外の花も彩りを添えていた。とにもかくにも花爛漫で、右を見ても左を見ても上を見ても、今が盛りと咲き誇っている。
ひとつめの短いアーチを抜け、続く別の薔薇のアーチに入る。深紅の、大人びと雰囲気の薔薇。幾重にも重なった花びらは、決して花の芯を見せない頑なさを感じさせた。
歩きながら、ユエル様が教えてくれた。
「ここには約八百種類の薔薇があるそうだよ。長い期間楽しめるように、早咲き遅咲きと、豊富に揃えているそうだ」
「八百種類ですか!」
すごいと感嘆の声をもらしたわたしに、ユエル様は微笑して言葉を続けた。
「薔薇の品種の数は、およそ三万種あると言われている。品種改良は今も続けられていて、毎年新しい品種の薔薇が生まれている。とりわけ、幻の青い薔薇をつくるために育種家達が躍起になってるようだ。遺伝子組み換えの技術で、青い薔薇をつくることに成功したというニュースもいつだったかあったようだが、あれは、青というよりは紫に近い色だったね」
「青色の薔薇なんて、想像もつきませんけど……」
「紫の薔薇ならここの園内にもあるだろう。紫の薔薇だけでも何種類もあるからね。まぁ、ピンクや赤に近いものもあるが……」
「紫の薔薇、見てみたいです。すごいですねぇ、いろんな色の薔薇をつくりだせるなんて」
「そうだね。……しかし、薔薇に限らないが、人の手が加わってここまで種類が増えたことを思うと、人の好奇心というのは、実に貪欲なものだね」
「好奇心?」
「自然科学に対する好奇心といっていいのじゃないかな、花の品種改良というのは」
「…………」
たしかにそうかもしれないと、わたしはなるほどと頷いた。
ユエル様はくすっと小さく笑う。苦い笑みだった。
「好奇心というのは、人間の性でもあるね。好奇心によって良き結果をもたらすことも多いが、同時に厄介な性でもある。……存在を秘さねばならない身としては。しかし私達にもそれはあり、何故と問わずにはいられない」
ほとんど独り言のようにユエル様は呟く。薔薇に語りかけているようでもあった。
「……?」
首を傾げて、ユエル様を見やった。
ユエル様は手を伸ばし、薔薇の花弁にそっと触れた。まずは一番外側の花びらに触れ、次に一枚花びらを捲るようにして指を内側へ滑らせていく。
アーチの隙間から日がこぼれ、ユエル様の指先と深紅の薔薇を照らした。白い指が、深紅の薔薇をなぞる。
「…………」
ユエル様は黙したまま薔薇を見つめている。黙って、薔薇に触れていた。
何をするんだろう……?
ふと、不安になった。胸がどきどきする。
場の空気が変わるのを感じた。ユエル様の表情と同じように、空気がひりつくように冷たい。暖かな陽気だというのに、体が凍りついたように動かない。唇も動かず、一言も発せられないまま立ちつくし、半ばぼう然と、ユエル様のすることを見つめていた。