セーラー服と、うそつきな日常。
本編9話内で少し触れた、ミズカが高校へ通う数日前の小話。
街路樹が赤や黄に色づき、空の青さがいっそう鮮やかになった、とある秋の日のこと。
ユエル様がそれらをわたしに差し出し、唐突に言った。
「あさってから、学校へもぐりこむよ」
ユエル様はいつだって唐突だ。
はぁ? と素っ頓狂な声で聞き返すと、ユエル様は同じ台詞をもう一度繰り返し、それから平たい箱のふたを開けた。
「高校のことは、説明したね? もう一度おさらいしたほうがいいかな? ちなみにこれはセーラー服。もぐりこむ学校の指定の制服」
「ちょ、ちょっと待ってください、ユエル様!」
困惑するわたしを見、ユエル様はにこりと笑う。
「もう手続きはすませた。私も行くから、安心していいよ、ミズカ」
「って、いきなりそんなっ」
「私は臨時の教師としてだけどね。ミズカは一年生ということで、苗字は適当につけさせてもらったよ。私とは見た目に差異がありすぎるから、まるきり知らない者同士という設定にしたよ、やむなくね」
「や、あの、ユエル様」
ユエル様はわたしの不安を拭い去ろうと、優しく笑う。
わたしの不安は「ユエル様とは知らない者同士設定」という以前問題なんですけど!
「ちょっと待ってください、ユエル様、わたしっ」
「編入試験のことなら大丈夫。受けたことになっているから」
「や、そうでなく!」
「他に何か不安要素が?」
「あ、あるに決まってるじゃないですか! わたし、高校っていうか、学校に行くこと自体、初めてなんですけどっ!」
ユエル様は出逢った頃のまま、その並外れた美貌は変わらない。蒼白く透き通る珠の肌、湖水のような深い緑色の双眸、そして絹糸のようにしなやかな白銀の長髪。毛一筋ほどの乱れもなく、艶めきのある神秘的な美しさを保っている。
人間とは異なる種族、“吸血鬼”であるユエル様は長命で、不老だ。そしてユエル様の眷族として仕えることになったわたしも、長命を得た。ユエル様の眷族になったその時に、わたしの「時」は止まり、老いの影に怯えずにすむのと引き換えに、人目を避けて生きなくてはならなくなった。
わたしは何の力も持たないけれど、ユエル様は特別な力を操れる。“幻惑術”もその一つで、その力をもって人目をごまかし、逃れている。
幻惑術とは人の記憶やら思考を自在に操れる力で、ありていに言ってしまえば、洗脳だ。
「人聞きの悪い。せめて催眠術と言いなさい、ミズカ」
「……」
――どう言ったって同じだと思うのですけど。
でも、その力のおかげでこうして存在していられるのだから、吸血鬼という人外の生き物には必要不可欠の力には違いない。
だから、その力を使うことを責めるつもりは毛頭ない。
それにしたって、いきなり高校なんて!
「行きたかったんだろう、学校へ? そう言っていたじゃない、ミズカ」
「そ、それは、そうですけどっ」
頬杖をついて、ユエル様は目を細めて笑う。銀の髪がさらりと揺れる。
優美な仕草にも、艶然とした微笑にも、いっこうに見慣れず鼓動が速まる。
何かで読んだか聞いたかしたことだけど、「美」というのは一種の「衝撃」なんだそうだ。
その通りだと思う。
美しすぎる衝撃をぶつけられて、卒倒しそうだもの。
「いきなり高校なんて無理です! 現代の日常生活にだってやっと慣れてきたばっかりだっていうのに!」
「大丈夫、ミズカなら。それに、そんなに長く居る訳ではないしね」
「けどけどっ」
冷や汗が流れる。
ユエル様は暢気に構えているけれど、「そうですよね」なんて気楽には応えられない。
ユエル様の眷族になる以前、しがない奉公人だったわたしは読み書きと簡単な算数ができる程度だった。学校なんて通える身分じゃなかったから、そりゃぁ……学校へ行ってみたいとは、思っていたけれど。……今も、行ってみたいとは、思ってるけど……。
「生気をもらうためなんですよね? だったらいつもみたいにユエル様だけもぐりこめばいいじゃないですか。わたしが一緒だと、……ユエル様、いろいろ面倒でしょう?」
今までは、そうだった。
人間の生気を容易く得るのに、学校という場所は便利らしい。生気を飲む相手も、若い…………女の子達……の方が、いいみたいだし。
「ミズカ。何かわかりやすく誤解しているようだけど」
ユエル様は小さく笑った。
仮住まいにしているマンションの窓から射し込む真昼の光が、ユエル様の瞳の中の緑をいっそう鮮やかに映えさせる。
「若い子達を選ぶのは、生気を少々飲んでも気付かれにくいからだよ。濃度もあるからね。女の子に偏るのは、私のこの美貌ではいたしかたあるまい? それとも男の子にちやほやされている方が、いいかな?」
「や、それは、えとっ」
――……一瞬その図を想像して、顔が赤くなった。
「まぁ、あいにく私にそっちの趣味はないからね。ミズカがたとえそれを望んだとしても、これだけは応えてあげられないな」
「わっ、わたしだってそんな趣味はありませんっ!」
声が裏返ってしまった。いきり立ったせいで、髪の毛まで逆立ってる気がする。
ユエル様はというと、なにやら嬉しそうに笑っていた。
間違いなくわたしのこと、からかってる。わたしの反応見て、楽しんでるよ、ユエル様!
悪気のないユエル様のいたずらに、いつもひっかかってしまう。冷静な対応をとってやろうって思うのに。口惜しいけど、絶対敵わないってことも知っているから、しかたない。
「それはともかく」
「…………」
ユエル様は強引に話を戻すのが得意だ。得意というか、常だ。
わたしはそれに慣らされていたし、文句をつけたりしない。ただ軽くため息をつくくらい。
「ミズカ、見聞を広めるいい機会だと思って、ね?」
「……う」
たおやかに小首を傾げて微笑むのはずるいです、ユエル様。逆らえないです。
「辛いと思ったら、そう言いなさい。無理をさせるつもりはないからね」
「……ユエル様」
ずるいです、ユエル様。……こんな風に優しいのは、反則です。
……結局、わたしは頷いた。
もしかしなくても、ユエル様には見抜かれていたと思う。
本当は、行ってみたいって思ってた。
怖いし、緊張もするけど、学校には行ってみたい。ほんとは、はしゃぎまわりたいくらい、嬉しかった。
「あの……ユエル様、えと」
「ミズカ、それじゃまず、このセーラー服を着てみて。サイズ、大丈夫だとは思うけれど、……着方はわかるかな?」
「あ、はいっ、これくらいなら」
お礼を言いそびれてしまったけれど、ユエル様に促されるままセーラー服を受け取った。
「着てきますね!」
初めて着る、セーラー服。
それは今までユエル様にいただいたどんな洋服よりも、輝いて見えた。
紺色のサージ、白い襟のセーラー服は糊がきいて着心地は少々硬い。それに、上着の丈もプリーツスカートの丈も腰や膝が見えてしまうほど短めなのだけど……。
「これで、ちょうどいいサイズ……でしょうか?」
少しばかり窮屈そうに尋ねると、ユエル様は「よく似合うよ。サイズもちょうどだ」と笑みを返してくれた。
洋服を買ってくれる度ユエル様は「似合う」と言ってくれるけど、どうしてかな、そう言われてこんなに照れくさいのは初めてだ。
備え付けの浅緋色のスカーフをどう結んでよいやらとまどい迷っていると、ユエル様はおもむろに立ち上がり、そっと手を伸ばした。
「軽く結わえるだけでいい」
ひゃぁぁっ、とうっかり奇声をあげるところだったけど、寸前で堪えた。硬直したせいもあったけれど。
「すっ、すみませんっ、ユエル様っ」
「靴下や靴、あとは鞄なんかも一式用意しておいたから、後で確認しておくといい。教科書は明日届くことになっているが」
「はっ、はい」
ぽんっと、ユエル様の手がわたしの頭の上に置かれた。わたしは顔中真っ赤にしていて、顔を上げられない。ううん、顔だけじゃない。頭の先から爪先まで、しびれているみたいに、熱い。
「学校はあさってからだけど、その前にもう一度おさらいをしようか、ミズカ。ミズカの“設定”のことなど」
「設定、ですか?」
「そう。転入生ミズカのもっともらしい“設定”。訊かれてもすらすら答えられるよう、暗記しておいてもらわないといけないからね」
「あ、はい、わかりました」
「それと、そうだな、少しは勉強もしておこうか、各教科の」
ユエル様は硬直したままのわたしの顔を覗き込んでくる。顔の距離が近くて、目のやり場に困るんですけど、ユエル様!
「は、はいっ、ぜひ! よろしくお願いします、えっと……ユエル……先生」
「…………」
あれ、何?
ユエル様の笑顔が一瞬、かたまったみたい……だけど。気のせいかな? わたし、なにかおかしなことを言ったのかな?
ユエル様はわたしの頭から手を離し、肩を落として小さなため息をこぼした。
「ミズカ、君という子はまったく……」
「は、はい?」
「いや、いいよ。……せっかくだから、その格好のままで授業を始めようか、ミズカ」
「はいっ」
わたしは大きく頷いた。 予行演習みたいですねと笑うと、ユエル様は微笑み返してくれた。
「その前に、紅茶を淹れてきて。私の分と、ミズカの分を。待っているから」
「はいっ!」
台所へ行くため、わたしは踵を返した。プリーツスカートが、ふわっと輪を描いた。
「あ、……」
わたしは駆け出しかけた足を止め、振り返った。
肝心なこと、言ってなかったのを思いだして。
「ユエル様!」
「ん?」
「ユエル様、ありがとうございますっ!」
深々と頭を下げて、心からの謝意を述べた。
「それじゃ、紅茶、用意してきますね!」
「……ん」
ユエル様は頬杖をついてわたしを見、それから少し困ったように眉を下げた。やれやれと、ため息をつく。
笑顔のままなのだけど、少し困ったような顔をしているのは、わたしの気のせいですか、ユエル様?