君影草
窓を開け放ち、大きく深呼吸をした。
薫風が、白いレースのカーテンをはためかせる。
新築の高層マンションの十五階。そこの一室を仮住まいにして、一週間。
ここにはいつまで居るんだろう。
そんなことを考えながら、遠くに見える、こんもりとした緑色の丘陵を眺めやった。
「よく晴れて、気持ちの好い日ですね、ユエル様!」
伝説や伝奇小説の中で日光は、「吸血鬼」が嫌うもの。浴びたら死んでしまうとされていて、一種の兇器ともいえる。
だけどわたしは晴れた日が好きだし、陽射しを受ければ気持ちいいと思うし、爽やかな気分なる。
けれどわたしの主人であり、そして人外の存在で「吸血鬼」のユエル様は、はたしてどうなのだろう。日光を浴びたら灰になってしまう、なんてことはないけど、あまり出かけたがらない。
「嫌いではないし、怖れてもいないよ。紫外線は少しばかり苦手だけどね」
と、ユエル様は微笑んで、ごまかした。
単に出かけるのが億劫なんですよね、ユエル様?
わたしがそう言うと、またユエル様は笑う。図星をさされたみたいに、やれやれと肩をすくめて。
「このまま、明日も晴れるといいですね」
昨日は一日曇天で、昼過ぎに短時間だったけれど雨もぱらついた。
湿度はさほど上がらなかったけど、やっぱり雨の日は苦手だから、晴れた空を見るとほっとする。
「そうしたら、明日こそは布団干さなくちゃ。だから明日はちゃんと朝起きてくださいよ、ユエル様?」
わたしが言うと、ユエル様は苦笑して、「まるで主婦みたいだ」とからかってきた。
「な、なに言ってんですかっ」
しゅっ、主婦って、そんなっ。
ぎょっとしたって、無理はないと思うのよ。だって、そんな、主婦なんて! ……主婦っていうのはつまり「奥さん」って意味で……っ。
待って待って、わたし! 動揺しちゃだめ!
深い意味なんか無く言った冗談なんだから。わたしも軽く受け流さなくちゃ。
動揺を押し隠し、わたしはつれなく返した。
「どちらかといえば家政婦って気がしますけど」
ユエル様はくすっと笑った。
「陰からこっそり企み事を覗かれていそうだね、家政婦というと」
「はぁ?」
なんですか、それ?
わたしは小首を傾げた。
ユエル様はまだ笑っている。わたしが分からないでいるのが、おもしろいみたいだ。
「ミズカはテレビを観ないからね」
暇を潰せるから、観ればいいのにとユエル様は言うけれど。
わたしは「主婦」じゃないし、暇だからって、自分のために時間を使うなんて、……できない。
ユエル様が観ていれば、わたしも時々は一緒に観る。そうさせてもらえるだけで、十分だ。
「……ミズカ」
ユエル様が、わたしの名を呼んだ。少し、ためらいのこもった声で。
わたしは慌てて顔を上げる。黙りこくってしまっていたことに、ここでようやく気がついた。
ほんとわたしって、迂闊すぎる。
「は、はい、なんでしょう、ユエル様?」
窓辺に立っていたわたしは、しゃきっと背筋を伸ばした。
ソファーに腰かけていたユエル様は立ち上がり、こちらに近寄ってくる。
窓から入り込んできた風がユエル様の銀髪を撫ぜ、白皙をあらわにする。見慣れるレベルの美貌じゃない。桁外れの美貌は、決して見慣れるものじゃない。優麗な微笑を向けられる度、心臓が割れるように鳴って、苦しくなる。
「今日は五月一日だね」
「は、はぁ、そうですね……?」
ユエル様は、片手を後ろに隠していたのだけど、それをいきなりこちらに差し出してきたかと思うと、小さな鉢植えをわたしに持たせた。
「え、これ……」
それはスズランの花だった。大きな葉に守られるようにして白い可憐な花が咲いている。鈴の形をした、可憐な花。
「これ、わたしに?」
「そう。五月一日だからね」
「はい?」
わたしは首をひねった。
ユエル様は艶然と微笑んでいる。何か、……とても意味ありげに。
「フランスにね、そういう風習があるんだよ」
「はぁ……そうなんですか……」
改めて小鉢を見てると、スズランの花にガラスの小瓶が添えられていた。
「あの、ユエル様、……これ……?」
わたしはそれを手に取った。
……まさかと思うけど、これ、……香水?
わたしは目を瞬かせ、ユエル様を見つめ返した。
ユエル様は穏やかに笑んだままでいる。
「ムゲの香水。ミズカに似合いそうなものを見つけてね」
「こっ、香水っ!?」
自分でもちょっとオーバーだと思うほどに、仰天した。
香水なんて、上流階級のお嬢様とかがつけるもので、わたしには縁遠い代物だ。
だから驚き、たじろいだって、しかたないと思うのよ。
ユエル様はわたしの慌てっぷりを予期していたらしく、クスクス笑っている。「そんなたいそうなものじゃないんだけどね」と言うけれど、わたしにとっては、ものすごくたいそうなものだ。
「い、いいんですか、わたしなんかが貰っちゃって」
「もちろん」
「……けどっ」
ユエル様から買い与えてもらったものはたくさんあるけれど、突然の「贈り物」は初めてだ。それが香水だなんて(しかも花の小鉢つきで)、嬉しいのを通り越して、焦ってしまう。
「つけてみたら?」
「え? って、こっ、香水を、ですか?」
狼狽しまくって、声がつっかかってしまう。顔が、赤くなってしまう。
「えとっ、で、でも、わたしっ、は……初めてでっ」
「じゃ、貸して」
「え」
ユエル様はわたしの手からガラスの小瓶を取ると、スズランの葉の形と色をした蓋を開けた。
ふわりと甘い香りが立ち上り、鼻をくすぐった。
やわらかくて甘い、そしてどこか懐かしいような、優しくて慎ましやかな香り。
いい香りだな、と、うっとりできたのは、一瞬だけ。
「――っ!?」
だって、ユエル様が手を伸ばしてきて、わたしの耳朶を掴むんだもの!
あやうく声をあげるところだった。
くすぐったいからだけじゃない。
だって、だって、あまりにも突然で! ユエル様の細くてしなやかな指が、わたしの耳たぶを掴んでて、手が、頬に触れてる!
バクバク、心臓が煩いほどに鳴ってる。ユエル様に聞こえてしまうんじゃないかと、さらに緊張してしまう。
「ここにつけるといいよ。あとは、……そう、こことか」
言いながら、ユエル様は指を移動させた。首の後ろへ、そして鎖骨へと。
「ひゃっ、わっ、やっ、ユ……ユエ……ッ」
全身鳥肌が立ち、硬直してしまった。意味不明な言葉だけが口からこぼれ出る。
脈が、異常に速まってる。どくどくと、脈打つ音が耳につく。痛いくらいに。
すっかり恐慌状態のわたしは、泣き出す寸前だった。
ユエル様が…………怖くて。衝撃的なほどに、……怖くて。
ふっと、ユエル様が息をついた。それと同時にユエル様は手を引っ込めてくれた。
「あとは、手首とかにね」
笑んだままでいるけれど、細めた目には切なげな、あるいは苦しげな色が浮かんでいた。ユエル様から目を逸らせないでいるわたしの苦衷がそこに投影されていただけなのかもしれないけれど。
「気に入ってもらえたかな、ミズカ?」
何事も無かったかのように、ユエル様はさらりと言って、わたしに微笑みかける。
「は、はい、それは、もうっ」
わたしはスズランの小鉢をきゅっと抱きかかえた。
「あ、ありがとうございます、ユエル様。スズランの花も、大事に育てますね」
ぎこちなく謝辞を述べてから、わたしはユエル様の傍から離れ、そのままキッチンへと向かう。対面式のキッチンだから、そこに入ってもユエル様の視界からわたしの姿は消えない。
香りが遠のくだけだ。
ユエル様は窓辺に佇んだまま、わたしを見つめていた。
ガラスの小瓶を握ったままで。
どうして?
どうしてなのかと、ユエル様に訊きたいことはたくさんありすぎて、そのどれ一つもわたしは口にできないでいる。
どうして、スズランの花をくれたの? たったそれだけの、他愛ない質問ですら。
気紛れなユエル様だから、気紛れ心を起しただけかもしれない。
だけど――……。
スズランの花には、香水には、どんな意図が含まれていたの?
……ユエル様…………。
その夜。
ベッドサイドに置いたスズランの小鉢と香水を見やってはため息をつく。そんなことを繰り返してたせいで、ちっとも寝付けなかった。
おかげで、翌朝は寝過ごしてしまった。そしてそんなわたしを、ユエル様はからかって笑うのだ。
「私の方が早かったね、起きるの」
誰のせいだと思ってるんですか、まったくもぉっ!
大急ぎで起き上がったわたしは、文句を言いつつ、布団をベランダへと運ぶ。マンションの規定でベランダの手摺りに干すことはできないけど、ベランダの内側に室内用の物干し竿を設置してあるから、そこに布団をかけていく。
「手伝おうか?」
というユエル様の申し出を、わたしはつれなくはねのけた。
「結構ですっ! っていうか、いっそユエル様も一緒に干しちゃいますよっ」
「それは勘弁願いたいな」
ユエル様は笑う。とびきり甘く、優麗に。
ユエル様の秀麗な微笑は一種の毒薬だと思う。呑んだらたちまち……痺れてしまう。
勘弁願いたいのはわたしの方こそです、ユエル様。
ほんの少しだけつけてみたスズランの香水の香りが、わたしを落ち着かせないでいる。
風に揺れる、スズランの花のように。
スズラン一言メモ
五月一日に鈴蘭を贈ると、相手に幸福が訪れる、というのはフランスの風習から。
また、鈴蘭には毒性があり、鈴蘭を生けた水を飲んではいけないとされています。一方で薬効があるとされており、鈴蘭で作った水薬はリューマチや捻挫にきくと言われています。 またこの水を目当ての異性に振り掛けると、相手の心を自分に向けることができるとも言われています。
鈴蘭には別名が多くあり、日本での「君影草」もその一つ。他、「谷間の百合」「五月の小さい鈴」「聖母マリアの涙」など。
鈴蘭の花言葉は、「幸福が訪れる」「純愛」「純潔」