表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/31

ゆめうつつ

 ――夢を見ている。美しく幸福な夢を、頼りなくたゆたうように。

 あるいは、夢のように美しい人を思うせいで、夢と現の区別がつかなくなっているのかもしれない。


 そのせいなのかどうなのか、ここ最近ずっと、寝付きが悪く、睡眠不足な日々が続いていた。


* * *


「近頃、寝付きが悪いようだね、ミズカ?」

「え?」

 朝、淹れたてのコーヒーを一口飲んでから、ユエル様が唐突に訊いてきた。ちょっと首を傾げて、お盆を胸に抱くようにして持っているわたしの顔を覗き込んでくる。

 銀色の髪は寝ぐせひとつなく、さらさらと美しく流れ、緑の双眸は寝起きのせいもあってか艶っぽさが増している。少しだけ重たげな瞼と長い銀の睫毛の下から、優しいまなざしが注がれる。

「今まではそんなことなかったのにね? 枕か……それともベッドの具合が悪いのかな? 身体に合わないのなら、ベッド一式新調しようか」

「そんな、勿体ないです!」

 今住んでいるマンション、引っ越してきたまだ五日にもならないというのに、ベッドを新調するなんてとんでもない!

「何もキングサイズの天蓋付きベッドを買おうというのではないのに」

「当たり前です! っていうか、そんな大きなベッド、部屋に入りませんから!」

「たしかに」

 ユエル様は肩を揺らして愉しげに笑った。

「だが、枕くらいは新調してもいいと思うが? 枕が合わずに眠れないというのはありうることだしね」

「今の枕もやわらかくて、合わないなんてことないです」

 むしろ、枕の方にわたしの頭があってないんじゃないかというくらい。枕だけでなく、ユエル様の見立てだから、寝具一式すべてが高級品なんだもの。

 それは口にしなかったけれど、ともかく丁重にお断りした。

 それにしても、ユエル様、どうして分かったんだろう。寝付きが悪くなってるって。

 無用の心配をかけたくなくて、ユエル様には話してない。

 眠れないからといってテレビをつけたり音楽を流したりしているわけではないから、別の部屋にいるユエル様に分かるはずはない。明かりだって落として、ただ布団の中でごろごろ寝返りをうってるだけだ。それなのに……――

「少し、寝不足顔をしているよ、ミズカ。それにぼんやりしていることも多い。この春とも夏ともつかない季節は、どうしてもそうなりがちだけどね」

「……」

 思わず片手を頬にあてる。

 今、どんな顔色をしているのか、自分ではわからない。目の下にクマはできてないはずだけど、寝不足顔になってたなんて。黙ってても、結局はユエル様に心配かけてしまってたんだ。

「あのっ、でもユエル様、ほんのちょっと寝付きが悪いだけで、ちゃんと眠れてますから!」

「そう?」

 ユエル様は目を細め、心配そうな面持ちでわたしの顔色を窺ってくる。

「はい。ちゃんと、……夢を見てるくらいに、眠ってます」

 夢の内容までは憶えていないけれど、それでも辛かったり苦しかったりする夢ではないはずだ。

「それならいいけれど」

 ユエル様は何か言いたげな様子だったけれどそれ以上は追及してこなかった。


 その後、ユエル様はわたしに留守番を頼んで外出した。昼過ぎにマンションを出、帰って来たのは日暮れ時だった。珍しくお買い物をしてきたようで、大きなビニール袋を携えていた。

「はいこれ、ミズカにお土産」

「え?」

「安眠用の枕ではないけどね」

 ユエル様が差し出した大きな包み袋を、戸惑いつつも受け取った。ビニールの包みは異様に大きかったけれど、持ってみると予想外に軽かった。

 ユエル様に促されて取り出した袋の中身は、薄ピンク色のクッションだった。洋菓子のマカロンを巨大化したような、まぁるいクッション。直径五十センチくらいは余裕でありそう。大きさに反してとても軽い。

 両腕で抱え、弾力を確かめてみる。

「……わぁっ!」

 こんな触り心地のいいクッション、初めて!

 ふわふわで、すっごく、もふもふする!

 今まで触ったことない、不思議な感触。柔らかくてすべすべしてて、弾力もある。とにかく、このふっかふか具合が堪らなく気持ちいい!

「気に入った?」

 ユエル様に訊かれ、わたしは喜色を露わに、お礼を述べた。

「はいっ、とっても! ありがとうございます、ユエル様」

「それはよかった」

 ユエル様も満足げに微笑んだ。

「癖になりそうなくらい、気持ちいい……」

 クッションをぎゅうっと抱きしめた。

 まるでシャボン玉みたいなクッションだ。まぁるい形も色も軽さも。

 腕の力を少しだけ緩めた。抱き締めすぎて、パチンと泡がはじけるように消えてしまったらと、不安になってしまった。――そんな風になるわけないって分かっているのに、なんだか、夢のようで。

「……ミズカ」

 名を呼ばれ顔を上げると、ユエル様の緑の瞳とぶつかった。僅かの沈黙。ユエル様との距離がさっきより縮まっている。ユエル様は目を細め、わたしの髪にそっと触れた。

 ユエル様の突然の行動に驚き、狼狽し、体が強張ってしまった。胸が、高鳴りだす。

 ユエル様が、近くて。ユエル様の瞳があまりに優しくて、切なげでもあって……。

 胸が早鐘を打って、頬が熱くなる。

「眠るのが不安?」

「え?」

「寝付けないのは、何か不安があってのことかと思ったんだが?」

 今朝の話を、ユエル様はまだ気にしていてくださったんだ。わたしが、なかなか寝付けないでいるという、そのこと。

「あ、……えっと、それは……」

 なんといって応えたらいいのか迷い、ユエル様から目を逸らした。

 ユエル様の手が離れた。……名残惜しいような、心細いような心持ちになり、縋るようにしてまた視線を戻す。

 ユエル様は優麗な微笑を、その白皙に湛えていた。

「まぁ、わけもなく眼が冴えて眠れなくなることもあるだろう。漠然とした不安に駆られたりしてね」

「…………」

「不安はいろいろとあるだろうが、……そうだな」

 くすっと、ユエル様は悪戯っぽく笑った。

「まさか眠っている間にニンニクを口に詰めこまれたりはしないだろうから、その点は安心していいよ、ミズカ」

「ニンニクを口に詰めるって……、そんなの聞いたら余計不安になるじゃないですか! すごく嫌ですけどっ」

「たしかに嫌だね」

 ユエル様は、ははっと軽く笑う。そういう古典的な退治方法を実行する者は、昨今そうはいないだろうから、まず大丈夫だ、と。

 吸血鬼の弱点は聖水に十字架、それに大蒜ニンニクというのは定番。退治方法はもっと過激なのだけど。杭を心臓に打ちつけたりとか。聖水や大蒜はどちらかといえば予防対策みたいなもの。

 杭はともかく、聖水を振りかけられても大蒜を投げつけられても、わたし達は消えたりなどしない。でもさすがに大蒜を口に詰めこまれたら苦しいだろうし……、さぞや臭いだろう。想像して、ちょっと顔をしかめた。

 わたしの心をほぐしてくれたユエル様は、さらに冗談めかした口調で続けた。

「それに、ミズカ、眠れなくて退屈に思うようなら私に言いなさい。そもそも私達は夜型の種族なのだからね。夜更かしならいくらでも付き合おう。それに、たまには吸血鬼らしく夜の街を徘徊するのも悪くはない」

 獲物を探してですかと、ちょっとだけ茶化したように訊くと、ユエル様は「それも兼ねて」と曖昧に肯定した。

「それが目的ではなくても、夜の散策は、朝や昼とはちがった楽しさがある」

「そうですね。月や星を眺めるのは、わたしも好きです。街の明かりも、とても華やかで綺麗ですし」

 賛同すると、ユエル様は少し表情をひきしめ、真顔になった。

「ただしミズカ、夜の散歩は一人で出かけないように。どんな危険があるか分からないからね。必ず私に言いなさい」

「はい、分かりました」

 点頭して応えた。

「ああ、それから、どうしても眠れず、出かける気にもなれない時は、安眠枕になれるかは分からないが、私の腕を貸してあげよう」

「え? 腕?」

 わけがわからず、首を傾げた。

「膝でも構わないが?」

 ユエル様はにこりと微笑む。

 枕、代わり……? 腕と膝?

 一瞬何のことかわからなかった、自分の鈍さが情けない。

「とっ、とんでもないです、ユエル様っ!」

 顔に火がついたみたいだ。熱くなって、頭のてっぺんから湯気が出そう!

 もうっ、ユエル様、いつもそうやって驚かせるんだから! とんでもないこと急に言いださないでほしいんですけどっ!

「だいたいそんな、かえって、そのっ、眠れなくなるじゃないですか!」

 ユエル様に、うっ……腕枕をしてもらうなんて! 想像しただけで卒倒しそう!

 卒倒してしまえば、ある意味、すぐに寝てしまえると言う事ではあるけれど。

 でも、ぜったい心臓がもたいない。

 今だって、ユエル様の悪戯っぽく艶めいた微笑みに、こんなに心臓が鳴って、目までチカチカしてるのに!

「眠れなく、か。まぁ、たしかにそうかもしれないね?」

 ユエル様は意味深長な笑みを浮かべて、嘆息まじりにひとりごちた。

「それに、私自身を追い詰める結果になりかねないな。これ以上堪え性のスキルを上げるつもりはないんだが……」

 ユエル様は眉を下げ、やれやれと肩を竦めた。

 なんだろう? 心底困っているような、そうでもないような、微妙な顔をしてる。

「……あの、ユエル様も、もしかして寝付きの悪い日があったりするんですか?」

 ユエル様は朝が遅くて、放っておくと昼近くまで寝ている時がある。朝の光が苦手という風でもないし、単に億劫だからと言っていたけれど、もしかして夜眠れなくて、そのせいで朝の目覚めが辛かったりするんだろうか。

 そう考えて、尋ねてみた。

 ユエル様は苦笑して応えた。

「無きにしも非ず、といったところだね。眠れぬ夜も、時にはある」

「そう……なんですか」

 ……ちっとも知らなかった。

 ユエル様にも、そんな夜があったなんて。

 自分のことばかりに気を取られて、大切な「ご主人様」の心緒を見逃してしまうなんて。なんて迂闊なんだろう……。

 ユエル様は、さっきしてくれたように、しょんぼりと項垂れたわたしの髪に触れ、優しく撫でてくれた。

「たとえば、梅雨の時期や熱帯夜なんかはね。そのあたりはミズカも同じだろう? そういう時は、声をかけてくれればいい。夜更かしならば、いつでも付き合うよ」

「……ユエル様」

「だから、その代わりに私が眠れない日は、ミズカの一晩付き合っておうと思っていたんだが」

「えっ、わ、わたしにですか?」

 仰天して、思わず聞き返してしまった。

「ミズカ以外の、他に誰がいると?」

 大輪の花が咲き、甘く匂うようにユエル様は微笑む。目が眩むような麗しさだ。

 動悸が激しくなる。ユエル様、どうしてそんな風に優しく、美しい笑みを見せてくれるの? 少し切なげなような、痛みを隠すような微笑を……。

「とはいっても、まぁ、今さらだね。ミズカは、いいと言うのに私の夜更かしに付き合うから」

「だって、それは……」

 ご主人様より先に就寝するなんて使用人にはあるまじきこと、だもの。

 叩きこまれた使用人根性とでも言うべきなのか、どうしても気兼ねしてしまって、ユエル様が先に休んでいいよと言ってくれても、素直には従えなかった。最近ではユエル様のお言葉に甘えて先に休んでしまうようになったのだけど。やっぱり、心のどこかで気が引けていた。

「ミズカ」

「はい?」

 ユエル様の声のトーンが僅かに下がった。わたしを見つめる瞳の緑が、吸いこまれてしまいそうに、深い。

「夢の中でもミズカを守れたらいいのだが、こればかりは私にはどうしようもないね」

「え?」

「……それでも、夢でも現でもせめてずっと、……共に在るよ。ミズカが望む限り」

「…………」

 ずっと、共に……?

 それは……どういう意味なんですか、ユエル様?

 ユエル様は曖昧に微笑んでそれ以上は語らず、わたしも先を訊きたかったのに、問うための声が出なかった。

 僅かな沈黙が落ち、けれどもそれはユエル様によって払われた。

「ああ、そうだ」

 ユエル様はもうひとつ、今度はクッションの時とはずいぶんと違う小さな袋をわたしに見せた。

「これも買ってきた。カモミールティー」

「カモミール、ですか?」

「そう。リラックス効果の高いハーブだ。寝付けない夜には、このハーブティーがいい」

 そしてユエル様はキッチンに向かって歩き出した。わたしはクッションを抱きかかえたまま後を追った。

「今からでは早いかもしれないが、淹れてあげよう」

 肩越しに振り返り、ユエル様が言う。

「えっ、あの、わたしが」

「ミズカは両手がふさがっているだろう? たまには私が淹れるよ。座って、待っていなさい」

「…………」

 戸惑いはいつだってある。ユエル様の優しさに甘えきってていいのかって。

 だけどユエル様の好意は無下にしたくない。だって、ユエル様はしたくてしている、という気がするから。無理に繕った好意じゃない。

 クッションを買ってきてくれたのも、カモミールティーを淹れてくれようとしてくれてるのも、ユエル様の思い遣りからだ。

 だから、ありがたく受け取るべきだって、思った。

 ユエル様に促されるまま、わたしはリビングのソファーに腰かけ、相変わらずクッションを胸元に抱いている。やがて、カモミールの甘くて、爽やかな芳香が室内に漂い、ふわりと柔らかく、鼻腔をくすぐってきた。

「ユエル様」

 クッションを横に起き、ティーポットとカップを運んできてくれたユエル様に声をかけ、もう一度、クッションを買ってきてくださったことにお礼を言った。

「今夜は、このクッションを枕にしてみます。ちょっと大きいけど……、抱き心地もいいし」

 それにカモミールティーの効果もあって、安眠できると思う。そう、確信をもって予告した。

「だから、ありがとうございます、ユエル様。今夜はゆっくり眠ります」

 ユエル様はどういたしましてと応えた後に、からかいまじりの微笑を浮かべて、言い添えた。

「ということは、私の腕枕は必要ない? それはそれで、いささか残念だな」

「……っ!」

 もう、またそんな!

 必要とか必要ないとか、それ以前の問題です、ユエル様!

 顔を真っ赤にして文句をつけると、ユエル様は愉快げに破顔一笑した。


 今夜は優しいまどろみが訪れる、そんな気がした。

 そして、きっとユエル様の夢を見る。

 優しくて切なくて、泣きたくなるほど幸せな、ユエル様との“夢”を。


 ――腕枕なんて、夢にも思いつかないけれど。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ