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エンゲージ 1

本編直後の小話です

 猶予は、あとどのくらいあるのだろう。

 鷹揚に微笑むユエル様は、今もまだ話してはくれない。

 生殖者としての期限。……それがいつまでなのか。

 不安だけれど、それをユエル様に尋ねる勇気はなかった。

 だってそれについて尋ねるということは、……――



 三日間眠り続け、目覚めた時にはわたしの周りの状況が一変していた……という実感はほとんどない。実情も、ほとんど変わりないと言っていいんじゃないだろうか。

 今までと変わらず、そばにはユエル様が居て、美しい微笑をわたしに向けてくれている。「ミズカ」とわたしを呼ぶ音はすこし気遣わしげではあるけれど、ユエル様が優しいのはむかしからだ。

 ユエル様からたくさん生気を飲ませてもらったおかげで体調はすこぶる良い。"渇き"は今のところ感じていない。

 それでも何か、わたしの心身に変化があったような……気がしないでもない。

 とくに、心は。

 亜矢子さんの起こした騒動は、わたしに真実を知るきっかけを与えてくれた。気づかぬふりをしていたわたしの自身の気持ちを自覚させられたし、……ユエル様の想いを知ることができた。

 いまだに信じられなくて、ふと右肩を確認してしまったりする。拳銃で撃たれた右肩に目をやっても、そこには何の痕跡もなく、もちろん痛みもない。ユエル様が傷を癒し、銃創もあとかたもなく消してくれた。

 もともとわたし達"吸血鬼"は怪我の治りが早く、たいていの場合傷跡も残らない。とはいえ痛覚がないわけじゃない。だから痛みの記憶まであとかたもなくきえてしまうなんてことはない。思いだすと、いまでもちょっとゾクリと鳥肌が立つ。いくら怪我に強い吸血鬼といっても心臓や頭を撃ち抜かれていたら、死んで、塵となって消えてしまう。

 あの夜のことは、いつまでも忘れられないだろうと思う。

 銃で撃たれたからじゃなくて……――

 けれど……あんまり現実味がなさ過ぎて夢だったんじゃないかって、疑ってしまったりもして。だってあんまり"夢みたい"で。頭の中で「夢か現実か」ってことがグルグル回って整理がつかないでいる、というのがいまのわたしの心境かもしれない。

 でも、やっぱり現実に起こったことなんだ。

 ちらりと、横に座っているユエル様の方にのぞき見、目があった瞬間、心臓がどきりと跳ねる。

 あの夜のユエル様のことを思いだすと、どうしようもなく頬が火照ってくる。

 ユエル様の声、ユエル様のぬくもり、ユエル様の、……――

 そっと自分の唇に触れてみる。少しだけ乾いて、少しだけ濡れた感触のある、唇。

 そこに重ねられたユエル様の唇。思い出すだけで頭が沸騰しそうになる。あれは夢なんかじゃない、本当に起こったこと。あのあとだってユエル様から「口うつし」で生気を飲ませてもらって、それでいまわたしはこうして……――

「――ミズカちゃん、どうしたの?」

 わたしの左隣に座っているアリアさんに声を掛けられ、わたしははっとして思考を止めた。

「さっきからぼんやりして、それに顔が赤いわ。まだ体調良くないんじゃないかしら? 大丈夫? 無理しちゃだめよ?」

 アリアさんは心配そうにわたしの顔を覗き込んでくる。わたしをじっと見つめるアリアさんの青い双眸に思わずドキリとしてしまう。「大丈夫です」と応えたものの、美女に見つめられてドキドキするなという方が無理だ。顔の火照りは治まりそうにない。

 穏やかな午後のお茶の時間、あまりにゆったりしてるものだから、ついぼんやりと思考にふけって、礼を失してしまった。

 すみませんと身をすくめると、今度は右隣に座っているユエル様から声がかかった。しかもさりげなく頬に手をそえて、わたしの様子を窺ってくる。ユエル様との距離が、昨日からすごく近い。

「渇いているのならいいなさい、ミズカ」

「えっ、いえ、大丈夫ですっ」

「今日は蒸し暑い。こういう日はけだるく、渇きやすくもなる。遠慮はしなくていい」

「いえ、本当に大丈夫です! 渇いてません、ちゃんと、足りてます!」

 ユエル様の方に顔を向けて慌てて応じる。目があって、ドキドキがさらに増してしまう。ユエル様のまなざしの艶麗さに眩暈がしそう。だけどユエル様の視線を受け止めていられることに、自分でも不思議なほどの安ど感があった。

 ユエル様がここにいる。

 わたしの傍で微笑んでくれている。

 たったそれだけのことが、こんなにも幸福だなんて。こんなにも胸が温かくなるなんて。

 今更ながらに実感して、ユエル様のぬくもりをずっと感じていたいなんて、思ってしまった。


 ホテルのスイートルーム、そのテラスでわたしとユエル様、そしてアリアさんにイスラさん、イレクくんの五人でテーブルを囲み、優雅なお茶会を楽しんでいる。まるで何事もなかったかのように、まわりを警戒することなく、穏やかなティータイムを過ごしていた。

 テラスに屋根はないけれど楡や樅などの木々が降り注ぐ陽光をやわらげてくれている。ユエル様の瞳のような優しい緑色に空気までが染められているかのようだ。重なり合う黄緑色の葉の向こうに見える空は、アリアさんの瞳より淡い色をしている。

「もしかしたら雨か、霧が出るかもしれないわね。ここらは、とにかく霧が多いそうだから」

「雨が来る前に補給に出た方がいいかもな。しっかし、でかけんの面倒だなー」

 イスラさんの言う「補給」は生気のこと。まだ観光シーズンだから商店の多い通りに出れば「補給」はいくらでもできる。ホテルからほど近いところにゴルフ場やテニスコートもあるらしい。それにしてもイスラさんがお出かけを面倒だなんて言うのは、珍しい。

 やっぱり、亜矢子さんの騒動で疲れてるのかな……。

 少し不安になってイスラさんの方に目をやると、まるでわたしの考えを読んだみたいなイスラさんは明るい笑みを返してくれた。

「ホテルの雰囲気なのかなー? なんかまったり静かに過ごしたい気分なんだよね」

 イスラさんはそう言ってティーカップを取り、アールグレイの香りを堪能するように目を細めた。

「柄にもないことを……イスラが静かなのは寝てる時だけでしょうに」

 と、少し呆れたように横槍を入れたのはイスラさんの息子のイレクくんだ。

「いやぁ俺なんておまえに比べりゃ静かなもんだぜ? 爆発騒ぎなんて起こしたことないし?」

「何度も爆発騒ぎを起こしたよう言い方しないでほしいですね」

 イレクくんは不本意そうに眉をひそめる。不機嫌そうな顔をして見せるけど、イスラさんに対して本気で怒ったりはしないイレクくんだ。イスラさんもイレクくんとの軽口の応酬を楽しんでるみたい。

 イスラさんとイレクくんは親子というより、年の離れた兄弟に見える。やんちゃな兄としっかり者の弟って感じかな。ちょっと皮肉の利いた軽口をたたき合うのも、お互いを理解してるからだろうなって思える。

「静かに過ごしたいなら口を噤んでいろ」とばかりにユエル様はイスラさんを睨みつける。けれど口をきくのも億劫なのか、アールグレイを口に運んで黙している。会話には加わらないものの、ユエル様のまとってる空気は穏やかで、落ち着いている。イスラさんに対してはいつもあたりがキツイけれど、本気で嫌っているわけではないし、もしかしたらちょっとした照れがあるのかな、なんて勘ぐってしまう。

 アリアさんはといえば場の雰囲気を楽しんでいるようで、わたしのことを気にかけてくれながらも始終にこやかに談笑している。

 本当に和やかな午後のティータイムだ。

 白磁のティーカップを少し揺らすと、甘い薔薇の香りがたつ。

 イレクくんが淹れてくけたダージリンベースの薔薇のアールグレイ。実はわたしだけミルクティーにしてもらっていたから、薔薇の香りは少しだけ控え目。イレクくんがお勧めしてくれた淹れ方で、香りが強くない分飲みやすい。あまりに飲みやすくておかわりをしたくなってしまうほど。

 ゆっくりと、香りを堪能しながらアールグレイを口に含んだ。

 そして肩の力を抜いて、周りに目をやる。

 ハルニレやモミ、コブシなどの樹木の濃淡のある緑がきれいだ。

 ここからやや離れた所に小川があって、せせらぎが時折風にのって聴こえてくる。鳥の鳴き交わす声や葉擦れの音は森林の中の静寂さを際立たせているみたいだ。青々と茂った草や苔に沁み入るいるような静けさが心地好い。

 ユエル様がいて、アリアさんとイスラさんとイレクくんがいて。こんな風に和やかに微笑みあえるのって、なんて素敵なことなんだろう。

 おこがましいけれど、アリアさん達と「お友達」になれたことが本当に嬉しかった。

 イスラさん達のたわいないやりとりを眺めていると、亜矢子さんの騒動なんてなかったかのような錯覚を覚えるけれど、嵐の後の晴天のようでもあって、「ああ、終わったんだな」と感じられたりもする。これから新しい「日常」が始まっていく。これからもアリアさん、イスラさん、イレクくんともずっとおつきあいしていけるのかな。そうできたらいいな……。

「そういえばミズカさん」

 会話がいったん途切れ、ふと、イレクくんがわたしの方に顔を向けた。

「ユエル様にはもうお話しておいたのですが、僕はここで、みなさんとお別れさせていただきます」

「えっ!」

 イレクくんの発言に、わたしは思わず腰を浮かせてしまった。カチャンと白磁のティーカップが音をたてた。

「そんな、いきなりどうして! イレクくんと、せっかくお友達になれたと思ったのに……お別れなんて、そんな……」

 立ち上がりかけて、けれど力なく椅子に腰を沈めた。

 これからもずっと一緒に過ごせたらいいなって思っていたところだったから、なおのことショックだった。なにより、イレクくんにはいろいろと迷惑をかけてしまったから、そのことを思い返して申し訳ない気持ちにもなった。

「待ってください、ミズカさん、何か誤解を……いえ、僕の言い方が悪かったですね、すみません」

 すかさず、イレクくんが慌てたように言い、わたしは顔をあげて改めてイレクくんを見つめ返した。イレクくんは困ったように眉をさげ、微苦笑を浮かべていた。

「お別れといっても、もう二度と会えないわけではないですから。日本に来たのはずいぶんと久しぶりだから、あちこち回ってみたいと思ってたんです。しばらくは日本にいる予定です。だからまたお会いできますよ」

「そうなんだ……」

 ホッと胸をなでおろし、それから早とちりをしてしまったことをお詫びした。

「ほら、こいつ見た目が"少年"だろ? だからもともと一つ所に長居はしないんだよ」

 横から、イレクくんの父親であるイスラさんが補足してくれた。

「それに好奇心旺盛っての? 風船みたいにふわっふわ飛んで行きたがるんだよな、イレクは。落ち着きないっていうか、放浪癖があるってのか、これ、昔っからの性格だから」

 イスラさんはいたずらっぽく片目をつむってみせる。「ミズカちゃんのせいじゃないよ」と言ってくれてるみたいな、イスラさんはそんな笑い方をする。

「イスラに落ち着きがないと言われるのは心外ですね」

 イレクくんは心底ムッとしたように眉をひそめた。けれど本気で不快がってるわけでもなさそうで、ほんのりと頬が赤くなってるように見える。どうやら放浪癖があるのは本当みたいだ。少年の姿のまま年をとらない"吸血鬼"であることがそうさせているんだろうけど。

「安心して、ミズカちゃん。あたしとイスラは残るわ。しばらく一緒にいるつもりよ? この先、きっと"女同士の会話"が必要になってくるでしょうから」

 アリアさんに顔をのぞきこまれ、「ね?」と笑みを向けられ、わたしは目を瞬かせた。女同士の会話って、どんなことなんだろう。けれど思考は隣にいるユエル様のぽそりと吐かれた言葉によって断たれた。

「――別に、イスラは残らなくてもいいが」

「聞えよがしに言うなよユエル。つーか、ま、そう言われると逆につきまとってやりたくなるけどな」

「…………」

「まあ、安心しろって。馬に蹴られない程度につきあうからさ」

 ユエル様は苦虫を噛むような顔をしてむっつりと口を噤み、肩にかかる長い銀の髪をわずらわしげにうしろに払った。相変わらずイスラさんには冷たいけれど、本気で突き放すようなとげとげしい口調ではない。口にも態度にも出さないけれど、きっとユエル様はイスラさんのこと、ご自分で思うよりずっと信頼してるんだろう。イスラさんもそれを感じてるんだと思う。

 わたしとイレクくんは目を合わせて微笑みあった。

 それからイレクくんはふっと軽く息をついてから話を戻した。

「名残り惜しくはあるんですが、明日にはここを経とうと思っています」

「あ、明日? 明日だなんて、そんな……急すぎるよ」

「すみません、ミズカさん。でも、早い方がいいかと思って」

 そう言ってイレクくんは意味ありげにニコッと笑った。イレクくんの笑みを見て、なぜなのかアリアさんとイスラさんも目を細め、含み笑いをしていた。ユエル様だけが表情を変えず、静かに紅茶を飲んでいる。

「遠からず、また会いに来ますよ。そう……ミズカさんとユエル様のお子さんの顔を見に」

「……っ!」

 イレクくんはさらりと気軽に爆弾を落とした。

 落とされた爆弾のせいでわたしは顔どころか全身火がついたみたいに熱くなり、あわあわと口ごもり、硬直してしまった。


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