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夏の宵 2

 なるべく急いで支度を済ませ、ユエル様と揃ってマンションを出た頃には、辺りもようやく暗くなり始め、見上げると、空には一つ、二つと星が瞬き始めていた。

 日が落ちてもまだまだ暑い。ジージーと、何の虫だかはよく分からない鳴き声が地面から響いている。

 夏真っ盛りの今だけど、時折吹く夕風は心地いい。カラコロと響く下駄の音も涼やかで、遠くから聞こえる風鈴の音も耳を優しく撫ぜてくる。打水をされた家の前を通ると、コンクリートのにおいが鼻を掠めて、ちょっとむせ返りそうになった。

「暑いですね」

 ごくありきたりな言葉を横にいるユエル様に声をかける。

 ユエル様は「そうだね」と微笑して相槌を打つものの、その冷艶な面に汗の一つも浮かべていない。日本の蒸し暑さは苦手だと仰ってたユエル様だけど、そのわりには涼しげな顔をしている。

 やっぱり、ユエル様の体内には冷却装置が備わってるとしか思えない。

 けど、傍にいるわたしには効果がなくて、じわりと汗がにじむ。

 うちわを持ってくればよかったな。

 頬のほてりを気にしつつ、そんなことを思った。

 浴衣に着替えたせいなのか、縁日に行くのが楽しみなのか、妙に心が浮ついて、そわそわと落ち着かない。心拍数がいつになく速く感じるのは、むうっとした暑さが原因なのかもしれない。浴衣姿のユエル様と並んで歩いているから、というのがもっとも大きな原因な気もするけれど……。

「そういえば、ミズカの浴衣姿を見るのはこれが初めてだな。和装もなかなか良いものだね。似合っているよ、とても」

「そう……ですか? あの……、ありがとうございます」

 ユエル様と目が合って、とっさに頬が熱くなる。ユエル様のまなざしを受け止め続けていられず、ちょっと肩を竦めて、視線を下げた。

 顔が赤らんで、耳まで熱くなってきた。やっぱりうちわを持ってくるべきだった。あおぐだけじゃなくて、顔を隠すことだってできるんだから。

 でも……、照れくさくはあるけれど、ユエル様に「似合う」と言ってもらうのは、とても嬉しかった。

 ユエル様がわたしのために買ってきてくださった浴衣は、やや黄色みのかかった淡い珊瑚色地に、流水と水草と金魚という、いかにも夏らしい柄。帯は正絹表が灰白色で、裏が薄青の流水。派手すぎず、けれど地味に落ち着きすぎる色柄ではなく、着るのにためらうこともなかった。見た途端、可愛いって思って、着られるのが嬉しくなったほどだもの。似合うかどうかは自分では判断できなかったから、ユエル様に「似合う」といってもらえて、嬉しかったし、ホッとした。

 帯は、簡単な蝶結び。これくらいしか出来ないのがちょっと残念だった。もうちょっと凝った結び方ができるとよかったのだけど。

 着物の着付けを習いにいけたらいいな。

 着物を着る機会なんてないけど、浴衣くらいはサッと着つけられるようになりたい。それに帯もいろんな結び方をおぼえたい。もしかしたら役に立つこともあるかもしれない。

 でも、習い事なんて……――

「そうそう、ミズカ。ミズカは着物の着付けに興味がある?」

「えっ」

 ぎょっとして顔を上げた。

 心中で考えていたことをユエル様に言い当てられようとは思いもせず、心底驚いた。目を大きく見開いてユエル様を見つめ返す。

「浴衣を買った呉服屋でなんだが、着付けの教室を開いていて、生徒を募集しているらしい。さり気なく話を振られてね。どう、ミズカ? 習ってみる気はない?」

「それは……習ってみたいです、けど」

 習い事なんて、いいんですか? そう問い返そうとしたのだけど、「それから」とユエル様に言葉を被せられてしまった。

「それからもう一つ。お茶も習ってみる気はない? 茶道の教室もあって、そちらも勧誘されてね。何流だか、詳しいことは私には分からないのだが、あまり堅苦しい教室ではないようだ」

「茶道……って、そんな!」

 思わず声がひっくり返ってしまう。

 だって、茶道なんて! 着付けはともかく、茶道なんてわたしなんかが習えるものじゃないもの!

 そりゃぁ……ちょっとは興味があるけれど、でも!

 ユエル様は額にかかる銀の髪を白い指をたててかきあげ、それから口角をあげ、やわらかいカーブを描く笑みを浮かべた。

「着付けはともかく、茶道は習ってみようと思っている」

「え、ユエル様が?」

「茶道は前から興味があってね。どんなものか、体験してみるのも悪くはない。抹茶は、さほど好きでもないのだが、本格的に点てたものは美味なのかもしれない」

 わたしが断るのを見越してのことだと思う。わたしに口を挟ませないよう、ユエル様はさらりと言葉を継ぐ。

「それで、情けない話なのだが、実はどうにも“正座”というのが苦手でね。あの座り方はやっとみると存外難しい。正直なところ、うまく出来る自信がない」

「…………」

 目を瞬かせ、わたしは改めてユエル様を見やった。

 たしかに、ユエル様のような体型というか足の長さだと、正座をするのは難しいのかもしれない。もともと床の上に直に座るという習慣もユエル様には身についていなかったわけだし。

 それでも、ユエル様が「自信がない」なんて言うのは珍しい。

 なんでもできると思っていたユエル様だけど、苦手なこともあるんだと、改めて知らされた。

「まさか椅子を用意してくれとも言えないしね。それで、ミズカに付き添ってもらえれば心強いのだが?」

「そういうことなら……」

 断れる雰囲気ではなく、消極的にだけど承諾した。もちろん嫌なんかじゃなく、いいのかなっていう不安が大きくて、素直に喜びを表せない。

 ユエル様はわたしのそんな葛藤も見抜いてくれているとは思う。けれど構わずに話を進めていく。

「着付けの方はミズカ一人で通うことになるが、構わないかな?」

「はい、それは構いませんけど……」

「帰ったらパンフレットを見せよう。日程など、詳しいことはそこに記載されてるはずだ。ああ、そうだ。せっかくだから、ミズカに似合いそうな着物も何点か仕立てようか」

「えぇっ、いえ、そんな! 勿体ないです!」

「しかし茶道の教室に行く以上は、やはり和装が良いのでは? ミズカの和服姿を見てみたいしね。それに着付けを習いに行くのだから、不必要ということはないだろう?」

「…………」

「まぁ、ミズカが嫌だというなら……」

「いえっ! 嫌なんてことは、全然!」

 ユエル様は眉をさげ、いかにもしょんぼりとした顔をしてみせる。わたしは慌ててかぶりを振った。

 ユエル様はにこりと笑う。「してやったり」という表情に見えたのは、きっと気のせいじゃない。

「ならば、さっそく明日にでも一緒に見に行こうか。とりあえず、必要最低限のものだけでも揃えておいた方がいいだろう」

 普段、どちらかといえばものぐさで面倒くさがりのユエル様だけど、時々こんな風に行動的になる。何が起因になってこれほど積極的になるのか、ユエル様の心は気紛れで、わたしには到底掴み切れない。

 気ままな性質のユエル様だけど、横暴な行動に走ったりはしない。いつだってわたしの心緒を気にかけて、都合を尋ねてくれる。尋ねつつ、うまく誘導されてしまってる気はするけれど、それだってさり気なく、迷惑に感じることなんて何一つない。だってユエル様はわたしの願いを叶えてくれるのだもの。

 茶道のことだって、そう。

 ユエル様のさり気ない優しさが嬉しくて、申し訳なくて、ちょっぴり複雑な気分になってしまうのだ。

 それでもユエル様の好意を無下にはしたくない。

 だけどこれだけは言っておかなくちゃ。ユエル様から、一部とはいえ家計的な財布を預かる身としては!

「買いすぎはダメですからね、ユエル様」

 値札を一瞥もせずさっさと購入を(しかも大量に!)決めてしまうユエル様に、わたしはいつだってハラハラし通しなんですから! と、さらに言い添える。

 ユエル様は深緑色の瞳を瞬かせ、それから微苦笑して、「わかったわかった」とおどけたように肩を竦めてみせた。

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