夏の宵 1
夏の夕暮れは長く、緩慢だ。
蝉の鳴き声やはしゃぐ子供達の甲高い声がいつまでも辺りを賑わしていて、夜の帳はなかなか降り切らない。
明日も晴天で、暑い一日になるんだろうなぁと、ぼんやり窓の外を眺めていると、後ろから声がかかった。
「ミズカ」
名を呼ばわれ振り返ると、そこに長い銀髪の麗しい青年がいる。わたしに微笑みかける麗しい青年は、大きな紙袋を二つ肩に提げていた。
「おかえりなさい、ユエル様」
と言うと、ユエル様は麗しい笑みを浮かべて「ただいま」と返す。いつもはこの逆、わたしが「ただいま」を言う率が高いから、ちょっと新鮮でくすぐったい心持ちになる。
類い稀なる美貌の持ち主である青年は、わたしが仕えている大切なご主人様。――吸血鬼、という人ならぬ存在。
「ミズカ、頼みがあるのだが」
そう言って、ユエル様は二つの紙袋をわたしの前に差し出した。何ですか? と首を傾げると、ユエル様は中を見るよう促した。
二つの袋の中身は、どうやら着物……浴衣らしい。たとう紙が二つ折りになって入っていた。
「とりあえず要り用の物を一式揃えておいた。着付けを頼みたいのだが、引き受けてもらえるかな?」
「えぇっ? ユエル様の……ですか?」
たとう紙に包まれているので中身は見えなかったけれど、角帯、腰紐、下駄も入っていて、時期的に、浴衣なのだろうと容易く察しはついた。
「着られるんですか、ユエル様が? これ……浴衣ですよね?」
訊くと、ユエル様は「そうだよ」と少し笑いを含んだような顔をして応えた。
ユエル様が浴衣なんて、今まで興味のありそうな素振りなんてなかったし、ちょっと意外かもしれない。
「着方は調べたが、どうも上手く着られる自信がない。ミズカに頼むのが確実だと思ったのだが、頼める?」
「はい。浴衣くらいでしたら……」
「それじゃぁ、今すぐに頼むよ、ミズカ」
「え、今すぐですか?」
「うん」
「分かりました。あの、それじゃ隣の和室に移動して……」
半ば呆けたような顔で、ユエル様の要望に応じた。
ふと気になって、もう一つの紙袋の中身に目をやった。同じようにたとう紙が二つ折りになって入っていて、他にも小物がまとめられていた。小物を見るからにそれらは女物らしく、……ということは、これはもしかして……?
落ち着きなく目を瞬かせ、ユエル様の顔を窺う。ユエル様は額にかかった銀の髪を優美な仕草でかきあげた。深緑色の双眸が露わになる。目が合い、瞬間胸がどきりと鳴る。
ユエル様は緑の瞳を細め、やわらかな笑みを浮かべた。
「ミズカの分も一式揃えておいたよ。着付けに必要な物はすべて揃っているはずだ。気に入ってもらえるといいが」
「あ、あのっ、嬉しです、ユエル様。ありがとうございます!」
どんな色でどんな柄なのか、まだ見てもいないのに早々にお礼を言った。
だって、ユエル様が選んでくださったのだもの。気に入らないわけがない。
普段着の洋服も沢山買っていただいているけれど、どれも可愛くて、気に入らないものなんて一つとしてない。高価そうなものばかりで、着るのに少し気後れしてしまうけれど。
ユエル様はファッション雑誌と照らし合わせて、着こなしも指南してくれる。
「私が用意すると、どうしても私の好みに偏ってしまう。そのうちにミズカも、自分好みのスタイルを見つけて、自分で買い揃えられるようになるといい」
そうは言われたものの、結局は無難このうえない、地味な着こなしに落ち着いてしまう。そんなわたしを眺めやっては、ユエル様はやれやれと肩を落とし、「ミズカらしいスタイルではあるね」と笑う。
「ミズカの好みを知るのは、存外むつかしいね」、と。
* * *
「それにしても、一言に浴衣と言っても、奥深いものだね」
着付け開始、浴衣を軽く羽織ってからユエル様がそう言った。
浴衣の着付けにあたり、インナー等の着用はご自分でなさるようお願いした。ユエル様はちょっと惜しそうな笑みを口元に浮かべていたけれど、ごねたりはせず、着替えを済ませた。浴衣を羽織ったのを確認してからわたしはユエル様の方に向き直った。そして、記憶をたどりつつ、着付けを開始する。
実のところ、ちゃんとした着物の着付けはしたことがなかった。浴衣だからどうにかできそうだ、という程度。一応帯の結び方は何通りか知っているけど、着付けに慣れているとは言い難いから、手際がいいとは言えない。
ユエル様はもたつきがちなわたしの作業をからかったりはせず、わたしの指示通りに腕を上げたり伸ばしたりしながら話し続けている。
「浴衣というのは、いわばバスローブのようなものだと思っていたが、今ではすっかり様変わりして、パーティードレスのようになっているのには、少々驚いた。現代風……というのかな、あれは? 和洋折衷というのかもしれないが、ああいったアレンジが効くのも和服の楽しさなのかもしれないね。まぁ、好みは別れそうだが」
今まで和服全般にさほど興味を持っていなかったらしいユエル様だけど、何やら唐突に和服に目覚めたようだ。どのような着物を見てきたのか、嬉々としてわたしに報告してくれた。ショッピングの報告を、こんな風に楽しそうに語るユエル様は珍しい。
「それにしても、スタンダードな物でさえ、その色柄の多さには閉口したよ。生地や織り方もだが、実にバリエーションが豊富だ。選ぶのに難渋したが、ミズカが気後れしないよう、定番の柄を何点か用意してもらって、その中からミズカに似合いそうなものを選んできた」
「ユエル様の、この浴衣もご自身で選ばれたんですか?」
「いや、これは店員に勧められた。これこそ、本当にスタンダードな生地と色と柄だね。だが、実に和風テイストで、良い」
「似合ってます、とても」
「そう? しかし、それにしても腕回りだけでなく、着てみると存外スースーして涼しいね?」
「帯、緩いですか?」
「いや、そんなことはない。きつくもないし、ちょうどいいよ。……ああ、少しだけ胸元をくつろげていいかな?」
「はい。じゃぁ、ちょっとだけ帯を直しますから」
微調整を繰り返し、なんとか着付けは無事に終了した。我ながら上出来だと思う。
ユエル様の浴衣は、綿麻のしじら織り。こげ茶と生成りのストライプ柄で、帯は濃紺。色白なユエル様の肌によく映える色合いだ。銀の髪は一つに束ねて横に流しておく方が、暑くなくて良いかもしれない。
一見ほっそりと華奢でスレンダーな体格のユエル様だけど、案外、……ううん、当たり前なのだけど、腰骨は硬く、胴回りは折れそうなくらいに細いということはなかった。男の人なんだって、改めて意識してしまった。帯を締めている時は着付けに集中してそんなこと考えられなかったけれど、今になって急に恥ずかしくなってきた。
頬が赤くなってる気がする。
それを隠すために、履物を袋から取り出して確認した。
下駄は本桐素材の焼下駄。初めて履く「靴」だろうから、きっと履き慣れるまで時間がかかる。鼻緒擦れができてしまわないか不安で、履き心地を試してもらった。キツイようなら鼻緒の調整をしなくては。
「それにしてもユエル様、いったいどうして浴衣なんて?」
下駄の鼻緒の具合を確認しながら、ふと気になって尋ねた。今さらではあるのだけど。
ユエル様は小さく笑って答えた。
「縁日に行こうと思って」
「縁日?」
「そう。ここから少し行った所にある神社で縁日があると、その知らせの書かれた張り紙に目敏く気づいたのはミズカだったろう?」
そういえば……そうだった。
あれはたしか一週間ほど前。
ユエル様のお供をして買い物に出かけたその帰り道、床屋さんの窓に貼られたポスターに目が止まった。夏恒例のお祭りのようで、その縁日のポスターは他の場所にも貼られていた。花火が上がるような大規模なお祭りではないようだけど、神楽舞いがあり、屋台も出るようだった。
忘れていたわけではないけれど、かといって行く予定を立てていたわけでもない。張り紙を見つけた時、「縁日があるんですね」と、そんなようなことを言った覚えはある。日時と場所を確かめはしたけれど、「縁日に行きたい」なんて言ってない。
そりゃぁ、ちょっとは…………かなり、興味はあったし、行ってみたいなぁと心の隅っこで思ってはいたけど、それを口に出したりはしなかった……はず。
ユエル様はいたずらっぽく笑って言葉を継いだ。
「縁日に行きたそうな顔をしていたが、私の思い違いだったかな、ミズカ?」
「え、いえ、それは、えっと……」
両手で顔を挟み、ちょっと肩を竦めた。
わたしって、そんなに分かりやすいんだろうか? なんだか、ちょっと気恥ずかしくなってしまった。
「私も興味があったからね。――それに」
ユエル様はフッと短く息をついた。一瞬、蒼い翳りがユエル様の端正な美貌に落ちた。僅かの間を置いて、ユエル様は言葉を続けた。
「それに、生気を飲むには、ああした人出の多い所は都合がいい。夏は渇きやすくなる時期だが、暑い最中、日中に生気補給に出るのは億劫だしね。ここのような田舎町では夜になると人通りも少ない。そんな中で、人の集まる縁日というのは面倒がなくていい。だが、そちらはあくまでついでだ。ミズカが行きたくないと言うのなら、行かない」
ユエル様は、「だが」という語を強調した。
もしかしたら、生気を飲みに行く、というユエル様の言に、わたしはうっかり難色を示してしまっていたのかもしれない。そんなつもりは毛頭なかったけれど、その言葉に、改めて「人」ではないわたし達の存在を実感させられて。なぜなのか胸が痛んでしまう。
受け入れていたはずの事実なのに。
「ミズカが行かないのなら、私も行くつもりはないよ」
「あ、あの、行きたいです、とても!」
ユエル様の語尾に被せ、慌てて言った。
「ユエル様といっしょに行きたいです。お供させてください!」
「この場合、お供をするのは私の方なのだが」
ユエル様はクスッと小さく笑った。目元が和らぎ、緑のまなざしがわたしの上に優しく注がれる。見つめられるとどきどきするのに、その双眸から目を逸らせない。
「ミズカが行くのなら、私は喜んでエスコートしよう」
「え、えすこーと……って……」
たじろぐわたしの手を、ユエル様はさりげなく引き寄せ、軽く握った。
「さあ、ミズカ。そろそろ暗くなる。ミズカも浴衣に着替えておいで。……ああ、そうだ、もし必要とあらば、着替えを手伝うが?」
「いっ、いいですっ! 一人で着替えられますから!」
「そう? だが男物と違って、女性用の浴衣は何やら小物も多いし、帯を結ぶのも難しそうだが、一人で平気?」
「大丈夫ですっ。勘も取り戻せましたし、帯も簡単な蝶結びにしますから!」
「それでも、もし私の手が要るようなら呼びなさい」
「う、……はい」
結構ですから、と突っぱねられなかった。だって、ユエル様の微笑みがなんだか寂しげに見えて。まるで捨て猫みたいな、不安そうに縋る目をするんだもの。
――いつの頃からだろう、ユエル様は時々そんな瞳でわたしを見る。何か言いたそうで言えない、それを目で訴えかけてくるような切々としたまなざしを向けてくる。
わたしの思い過ごしかもしれないけれど……。
ユエル様がわたしの手を離した。中途半端に浮いた手を、わたしはなぜかすぐには引っ込められなかった。ユエル様の手の感触が、まだ握られたそこに残ってる。
「向こうで待っているから、支度ができたら、出かけよう」
にこやかにそう言って、ユエル様は部屋を出ていった。