「求めよ、さらば与えられん」 2
アリアさんはおどけたように両手を上げ、悪びれた様子もなく朗らかに笑い、
「あらあら、ようやく本命のご登場ね。いつものことだけどずいぶんとごゆっくりね?」
なんて、ユエル様を揶揄するようなことを言う。
ユエル様は少しだけムッとした顔をしたけれど、ため息をつくことで怒りを鎮めたようだった。
「まったく、子供っぽい遊びもたいがいにしてくれ」
「遊びも本気の内よ。とはいっても、あたし達だってちゃんとわきまえてるわよ、ねぇ?」
同意を求められて、イスラさんもイレクくんもそれぞれ頷いて応じた。ユエル様はむっつりと顔をしかめている。これ以上くどくど言ってもしようがないと断じたようだ。
ぼうっと呆けている間に、わたしはいつの間にかアリアさんの腕から解放されて、ユエル様に傍に引き寄せられていた。傍に寄せられている……だけじゃなくて、いったいどういう仕儀によってこうなったのか分からないのだけど、ユエル様の腕がわたしの肩に回り、つまりありていにいえば……肩を抱かれているのだ。片側の肩はユエル様の胸元にぴったりとくっつけられている。
ユエル様がこの場に来てくれて安堵したものの、肩を抱かれているというこの状態は、どうにもこうにも落ち着かない。
ユエル様のちょっと不機嫌そうな低音の声、銀の長髪から仄かに漂う甘い香り、光を放っているのではと見まごうほど肌理細かな白磁の肌、それらすべてが近くて……近すぎて、とても平静ではいられない。全身が熱って、頭の先から湯気が出そう……っ。
「何をしようといちいち咎めるつもりはないが、ミズカを巻き込んで困らせるようなことはするな」
ユエル様の口調も表情も険しい。だけど本気で怒ってるような様子はなく、それをアリアさんも感じているのか、にこにこと楽しげに笑んでいる。
「そう目くじら立てないで、ユエル。あたし達誰も、本気でミズカちゃんを奪っちゃおうなんて考えてないわ」
ふいに悪戯っぽい表情が消え、凪いだ海のような寛裕さがアリアさんの面貌をまろやかにした。
「ミズカちゃんの気持ちは尊重したいもの。もちろんユエル、あなたもよ?」
「…………」
イスラさんもイレクくんも、どこから引っ張り出してきたものか、吸血鬼の本領をありありと見せつけてくるような妖しげで甘やかな色気を、再びどこかにしまい込み、陽気で屈託なげなイスラさんに、物静かで折り目正しいイレクくんに戻っている。
アリアさんはつと視線を下げ、申し訳なさそうな顔をわたしに向けた。
「ミズカちゃんの反応がかわいくって、つい調子にのっちゃったのは反省してるわ。面白半分にからかったわけじゃないの。それは信じて、ね、ミズカちゃん」
アリアさんのしおらしい顔をつっぱねるなんて、できっこない。「はい」と頷き、気にしていないと伝えた。
……そりゃぁ、心臓発作を起こして卒倒しそうなくらいにドキドキはさせられたけど。
アリアさんの語を、イレクくんが継いだ。
「僕も、危うく本気になるところでしたよ。もっとも横入るするほどの度胸はありませんけど。――それより、アリアさんが仰ってた目的、およそ達せられたと言っていいんでしょうか?」
そう言って、イレクくんはわたしではなくユエル様を見やって意味深長に微笑んだ。
イレクくんの視線を受け、ユエル様は苦虫を噛みつぶしたような、複雑で微妙な顔をしている。是とも否とも言わない。
「あとは、僕達が口をだすところではありませんしね」
「そうねぇ。あとは自分でなんとかしてもらわなくっちゃ」
アリアさんは可笑しげにクスクス笑ってイレクくんに賛同した。
アリアさんが言う目的って、何だろう?
わたしにではなく、ユエル様に対しての「目的」のようだけど、それが何かさっぱり見当がつかない。「自分でなんとか」って、何をどうするのだろう? さっきの「ゲーム」とやらがどんな関係があるというのだろう?
ユエル様をちらりと見やった。
不愉快げに眉をしかめているユエル様は、その答えを知っているようだった。
わたしだけが何も分からずにいる。
訊いてみようと思ったのだけど、すかさずイスラさんが口を挟んできて、タイミングを逃してしまった。
「ユエルはともかく、俺としちゃぁ、ミズカちゃんの意向を聞いてみたいね。口説き落とすゲームだったわけだし。どう、ミズカちゃん?」
「え、わたし、ですか? ……どう、と言われても、何が何だか……」
「もしも、でいいよ。もしも俺達の中から選ぶとしたら、誰?」
「選ぶ……って……」
返答に窮してしまった。だって、イスラさんの質問があまりに唐突すぎて。
今までの流れ、そして「ゲーム」の内容からして「選ぶ」というのは……。それがどういう意味なのか、いくらわたしでも、分からないわけではない。「もしも」という仮定でもいいなんて言われても、そんな風には考えられない。だって誰かを一人を選ぶなんて、それはまるで……――
答えに詰まり、俯いた。
だけど……、わたし、さっきからうろたえるばかりで、何一つはっきりとした言葉を返せてない。
こんなのよくない。内心、忸怩たる思いがあった。
ユエル様やアリアさん達に、不誠実な態度だ。
「一緒にいたいって思う相手。まぁ、俺達全員でも、それはそれで嬉しいんだけど、一人に絞るとしたら、ミズカちゃんは、誰がいい?」
四人の視線が一気にわたしに集中する。面白がっているようでもあり、真摯なようでもあり、期待に満ちたようでもある沈黙が気まずくって、居たたまれない。
迷う必要なんてないのに。仮定なんかじゃなく、一緒にいたいとわたしが望むのは……。
ちゃんと答えなくちゃ……――
「ミズカ」
頭上から声がかかった。囁くような、ユエル様の声。
「イスラの言うことなど聞き流しなさい。真剣に相手をする必要はない」
ふいに、肩が軽くなった。わたしの肩に回っていたユエル様の腕が離れた。ユエル様はわずかに体をずらしてわたしから離れ、イスラさんの方へ顔を向ける。
「ろくな事を言わないな。イスラ、顔を洗って出直し……」
「ユエル様」
ユエル様の言葉を遮って、襟元を掴んだ。胸倉をつかまれ、ユエル様は少し前のめりになった。驚いて目を見開き、わたしを見る。臆しそうになったけれど、わたしは毅然と顔を上げてユエル様を見つめ返した。
「わたしは、ユエル様の眷族です。だから、わたしはいつでも……いついかなる時でも、ユエル様を選びます」
「ミズカ、それは……」
「眷族だからってわけじゃありません。わたしは、わたし自身の意志でユエル様についていこうと決めたんです。この気持ちはあの日からずっと変わりません」
力強く言い切った。
あの日……あの月の美しい晩に、ユエル様に直々に「ついて来てほしい」と請われ、わたしはすぐに承諾した。ユエル様が言ったことの意味をきちんと把握せず、言葉を額面通りに受け取り、肯った。
だけど迷いなんてなかった。ユエル様のお傍にいたいと願い、ユエル様とともに在れる選択肢を採った。
「ユエル様さえご迷惑でなかったら、この先もずっと、ユエル様についていきます」
「…………」
ふわりと、ユエル様の表情がやわらいだ。瞳の緑が美しく深みを増して、まなざしが優しい。薔薇の蕾がほころんで花弁を開かせ、その芯から甘い芳香が漂ってくるような、そんな麗々しい笑みがユエル様の貌を彩った。
胸が、抑えようもなくときめいてしまう。
どっ、どうしよう……っ! 急に恥ずかしくなってしまった。面と向かって、こんなことを言うのは……今さら何だけど、なんだかすごく……照れくさい。本心だからこそ尚更。
「あの、えぇっと、その……ユエル様……?」
「……わかっていたことだが、本当に、ミズカには敵わないな」
不意に、ユエル様の片手がわたしの頬にあてがわれた。
「……っ」
ユエル様の冷たい手が熱った頬に気持ちいい。だけど、当然熱は下がらない。それどころかどんどん熱くなっていく。
顔が近いです、ユエル様! ユエル様の体温を感じてしまえるくらいに……!
「落とされたのは、どうやら私の方らしい。もう何度、こうして落ちてきただろうね?」
「え?」
なに……? 落ちるって、なっ、なんのことですか、ユエル様?
顔中を真っ赤にして目を瞬かせるわたしを、ユエル様は優しく見つめ続けている。深い緑の瞳の奥に、惹きこまれ、吸いこまれてしまいそう。
「あらあら!」
からかうような声がかかり、そちらに目線を向けた。ユエル様の手は、なぜか頬にあてがわれたまま。ユエル様も視線だけを動かして、声の主を見やった。
「おさまるところにおさまったようね? ミズカちゃんの答えは分かってたけど、ちょっとドキドキしちゃったわ。まずは一安心ね」
アリアさんが場をまとめるように言い、軽く手を叩いた。
「さ、イスラ、イレク。敗者は潔く退場しましょ」
アリアさんに促され、イスラさんもイレクくんも首肯して踵を返した。
去り際、イスラさんはちょっとだけ不服そうな顔をし、不平じみたことをイレクくんに向かってこぼした。わたし……というより、ユエル様に対して聞えよがしに。
「敗者ってんならユエルも負けてると思うぜ? ま、ミズカちゃん相手ならユエルも負けを認めるのにやぶさかでないだろうけどさ。じれったいっていうかさぁ」
「気持ちは分かりますが、これ以上の口出しは野暮というものですよ、父さん」
「しっかし、こういうのデキレースとかヤオチョーとか言うんじゃね?」
「ミズカちゃんは惑わされず、しっかり答えを選びとったわ。その答えに嘘も偽りもない、そうでしょ? もっとも、肝心の答えはまだ引き出せないでいるようだけど」
「大丈夫でしょう、ユエル様とミズカさんなら」
「もう落ちちゃってるわけだしな」
「求めよ、さらば与えられん。
尋ねよ、さらば見出されん。
門を叩け、さらば開かれん。
――というところかしら? ちょっとやきもきはしちゃうけど、イレクの言う通り、大丈夫よ。ユエルとミズカちゃんなら、遠からず真実の答えを得られるわ」
アリアさん達がリビングを出ていってからだった。
ユエル様が、
「聖書から引用してくるとは、皮肉のつもりか」
と言って嘆息したのは。
酢でも飲まされたような顔、とでも言うんだろうか?
なんだかとっても決まりの悪そうな複雑な表情をしてる。けど、不機嫌そうではないし、口調にも険しさはない。
ユエル様の様子が思いの外穏やかでホッとしたのも束の間。
「ミズカ」
ユエル様はさらにもう片方の手をわたしの頬にあてがった。両手でわたしの顔を挟んで上向かせた。
「……っ!?」
な、なに、この展開は? それにこの体勢は……?
吐息がかかるほどユエル様の顔が近い。緑のまなざしに強く繋ぎとめられ、目を逸らすこともできない。
向かい合って立ってるだけでも緊張するのに、ユエル様の顔が近すぎて、目がチカチカする。心臓が破裂しそう……!
「あっ、あの、ユエル様?」
ユエル様のしかめられていた柳眉がたわみ、再び柔らかな微笑がその美しい面に戻った。その艶麗さに、おのずと目が釘づけになってしまう。
催眠術にでもかかったみたいだ。ユエル様から目を離せない。心臓の音がうるさいほど耳につく。
「ありがとう、ミズカ」
そう言ってすぐ、ユエル様は身を屈めた。柔らかな長い銀の髪が、さらりと流れてわたしの頬に、肩に、落ちかかってくる。
――え? 何?
そう思う間もなかった。ユエル様の唇がわたしの額に触れた。羽が触れるほどの軽さと優しさで。
一瞬、息が止まった。
な、なに? ユエル様、今、何を……っ?
目を見開き、ユエル様を凝視した。
「ゆ、ゆえ、る、様?」
「ミズカ」
真摯なまなざしがわたしをとらえる。ユエル様は真顔になり、そして「あの日」わたしに言ったのと同じ言葉を、一言一句違えず、口にした。
「これからも、ずっと、傍にいてもらいたい。……遥かな道程を、私と共に」
「は、はい」
反射的にこくんとぎこちなく点頭し、わたしも「あの日」と同じ言葉を返した。
「はい、お供いたします」
ぼう然自失と立ち尽くすわたしの頬から、ユエル様はそっと両手を離した。
ユエル様は優麗な微笑を浮かべ、語を継いだ。あの日とは違う、少しおどけたような口調だった。わたしの緊張をほぐすためなんだろう。
「この先もずっと、よろしく頼むよ、ミズカ」
「はい。わたしこそ、ユエル様」
だからわたしも笑顔で返した。ぎこちない笑顔になってしまったのは否めないけれど。
「これからも、ずっと」
そう、迷いなく明快に告げた。
お傍にいます。ユエル様が望まれる限り、ずっと。その「ずっと」が、永遠であるならば良いのにと、淡い期待を言葉の内に隠して。
「求めよ、さらば与えられん」 / 新約聖書のマタイ伝7章から