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霖雨 2

 本当に、今日はなんてツイてないんだろう……。

 こうも不運が連続すると、さすがに落ち込んでしまう。

 なんとか気を取り直したかったけれど、その気力も雨に打たれて萎れてしまった。


 とにかく急いでシャワーを浴びて着替えを済ませた。湯船にちゃんと浸かった方がいいとユエル様に言われたのだけど、湯を張る時間を待つのが少し億劫だったし、ゆっくりお風呂に入りたい気分でもなかった。

 リネン地のチュニックとハーフパンツというラフな部屋着に着替えてリビングに戻ると、穏やかな微笑を湛えているユエル様とあたたかなコーヒーの香りがわたしを迎えてくれた。

「ミズカ、そこに座って」

 ユエル様に促されるままソファーに腰をおろした。ソファーには、以前ユエル様が買ってくださった薄ピンク色の大きな丸いクッションが置いてあった。そのクッションの横にちんまりと座った。三人掛けのゆったりとしたソファーなのだけど、つい隅っこに座ってしまう。

「少しは温まった?」

「はい……」

「さあ、ミズカ、それを飲んで、気持ちも落ち着けなさい」

 そう言って、ユエル様はテーブルにカプチーノを置いた。

「あ、はい。ありがとうございます」

 シナモンスティックの添えられた、ふわふわミルクの泡の浮かんだカプチーノはとてもおいしそう。カップを手に取ると、甘いだけではなく、ちょっと辛味のあるシナモンの独特の芳香が鼻腔を心地よくくすぐってくる。

 シナモンスティックでゆっくりかき混ぜ、それからふうっと息を吹きつけて湯気を向こう側に流し、一口啜った。口内にひろがるやや甘めのカプチーノが、口と喉だけでなく、全身を内から温めてくれた。

 ユエル様が淹れてくれたことも、きっと温かさの大きな要因になっていると思う。

 心の縛りが少し解けた。

「それで、ミズカ? 紅茶を買いに行くと言っていたが、予定変更?」

 ユエル様はわたしが買ってきたコーヒーをちらりと見て、尋ねてきた。

 わたしはそっとカップをテーブルに戻した。ユエル様を直視できず、視線が泳いでしまう。肩をすぼませて応えた。

「えっと……、目的の紅茶のお店は今日、臨時休業で……、それで、ちょっと足を延ばして別のお店に行って来たんです。それで、その……傘なんですけど」

「うん? もしかして盗られでもした? 急な雨だったからね」

 ユエル様はわたしの告白の先回りをして言った。わたしから少し離れたところで立っているユエル様は、別段怒った様子もなく、先ほどと変わらず穏やかな面持ちだった。

「すっ、すみません、せっかく買っていただいたものなのに、すぐに失くしてしまうなんて、わたし……っ」

「謝らなくていい、ミズカ。悪いのは盗んだ方だろう? それにまた新しいものを買えば済むことだ」

「でも……」

 思った通り、ユエル様はわたしを責めたりしない。呆れた顔もせず、わたしを慰めてくれる。「気にすることはない」と。だからって、能天気に「そうですね」なんて笑えない。

「でも、わたしがうっかりしてたから」

「ミズカのせいではないのだから、そう自分を責めるものではないよ。気にするな、もう忘れなさいと言いたいところだが、初めて使ったその日に盗られてしまうなんて、やはりショックで口惜しかったろうね、ミズカ」

「……っ」

 ユエル様の優しい声と口調に、堪らず涙が滲みでそうになった。泣くのはなんとか堪えられたけれど、喉がきゅぅっと締めつけられて声が出ない。どうしよう……胸が、苦しい。

 今何か言ったら、その拍子に泣きだしてしまいそうだ。

 その動揺をやりすごすために、テーブルに戻したカップを再び取り、またカプチーノを口に含んだ。

 僅かの沈黙。

 降り続く雨の音がやけに耳についた。まだやむ気配はなく、室内が次第に薄暗くなっていく。この季節の日暮れは早い。

 ユエル様も薄暗さに気づいたのだろう。部屋の明かりを点し、それから再びわたしの方に向き直り、近寄って来た。

「ミズカ、見せて」

「え?」

「足を。まだ痛む?」

 さっきまでテーブルの向こう側にいたユエル様が、今は目の前にいる。

 ユエル様はテーブルをずらし、かと思うとその場に片膝をついてしゃがんだ。それだけでも驚いたのに、ユエル様はいきなりわたしの足……脹脛に触れてきた。あまりのことに仰天して、あやうく持っていたカップを落とすところだった。

「ちょっ、あ、あのっ、ユエル様っ!?」

 泡を食ってるわたしなどお構いなしに、ユエル様はスリッパを脱がせ、右足の踵をその手に乗せて持ちあげた。ユエル様は体を傾け、顔を足に近づける。

「右の方が酷いね、靴擦れ。左側も、皮が剥けてる」

 ユエル様の親指が皮膚の上を滑る。ほんの少しのことなのに、全身が粟立つほど、くすぐったくて、思わず顔をしかめて肩を竦ませた。

「すまない、ミズカ。痛かった?」

「い、いえ、あの……っ」

 ユエル様は片膝をついたままの姿勢で目線を上げ、わたしの顔を窺ってきた。心配そうな緑の瞳が、いつにもまして艶めきを帯びている。

 胸は高鳴りだすし顔も赤くほてりだすし、踵にできた靴擦れの痛みなんて吹っ飛んでしまいそうだ。

 実際、靴擦れの傷は靴を脱いでしまえばそれほど痛くなくて、ユエル様にこうして改めて問われるまで失念していたくらいだ。シャワーを浴びた時はさすがにちょっと沁みたけれど。

「血も出てるね。……靴のサイズ、合わなかった?」

「あの、もう血は止まってますし、そんなに痛くないです。まだ履きなれてなかったのと、今日はたくさん歩いて走ったし、それで……、あの、靴のサイズはぴったりですから」

 しどろもどろに言い訳がましいことを口にする。ユエル様は右足だけでなく、左足の傷の具合も改めて確認してくる。優しく触れるユエル様の手は温かかった。わたしの足が冷えてきているのかもしれない。ユエル様の手が動く度、背筋がぞくりとした。

 ユエル様に無用の心配をかけたくなくて靴擦れができたこと黙っていたのに。どうしてこうあっさり気付かれてしまうんだろう。いつだってユエル様は、わたしの“傷”を見逃さない。隠しきれない自分が情けなかった。

 しょんぼりした気分に陥りそうだったのだけど、それどころではなくなっていた。

 だって! だって……あろうことか、ユエル様がわたしの前で膝をついて屈み、わたしの足先に手を置いてるなんて!

 こんなの、わっ、わたし、いったいどう対応したらいいの? ユエル様に膝をつかせてるなんて……!

 心臓が、パンクしそう……っ!

「傷跡が残るといけないから、ちゃんと処置しておこう。このくらいの傷なら、さほど時間はかからない」

「え、え……?」

「ミズカ、カップを。落とすといけないから」

「あ、はい……」

 ユエル様はわたしの手からカップを受け取り、それをテーブルに戻した。シナモンスティックが落ちつかなげにカップの中で揺れ、いまにもころりと落ちてしまいそうだった。シナモンの香りは空気中に溶け、さっきまでの強い香気はもう感じられない。代わりに、ユエル様の薫然とした微笑がわたしの視界を覆うように迫ってきた。

 ユエル様の手が再びわたしの足に触れる。

「痛みはしないから、そのまま動かないで、ミズカ」

 まるで足元から炙られてるみたいに体が熱くなってくる。

 ユエル様の長い銀髪が向う脛と甲にあたり、さらさらと蠢く。毛先にこそぐられ、堪らず足の指を丸めた。緊張のあまり内股が力んでしまう。

「あ、あの……っ」

 ユエル様はさらに背を丸め、顔を沈める。足先に、ユエル様の息がかかった。

 その息が熱い。硬直してるわたしの全身をさらに熱らせるてくる。

「ユッ、ユエル様っ!」

 もう、いろいろと限界だった。

「ユエル様、あ、あの、待って……!」

 わたしの声に、ユエル様はハッとして面を上げた。

「ユエル様、わたし、……――」

 深緑色の瞳とぶつかった。

 早鐘を打つ鼓動のせいで眩暈がする。それともこの眩暈は、ユエル様の艶めいたまなざしのせい……?

「……ああ」

 ふっと短く息を吐き、その後すぐユエル様は表情を緩めた。

「つい、リビドーに流されるところだったな」

「え?」

 な、に……?

 よく聞こえなかった。流されるって……、なに?

 小首を傾げた。けれど、聞き返しはしなかった。……できなかった。

 だって、心臓がいまにも口から飛び出そうで。なにを口走ってしまうかもわからなかった。

「すまない、ミズカ。くすぐったかった?」

「…………」

 ユエル様の微笑に、こくこくとぎこちなく頷いた。

 足がくすぐったかったからだけじゃない、こんなにもどきどきするのは。

 そんなこと、言えない。胸が張り裂けそうに苦しいなんて。

 ユエル様のまなざしを、真正面からは受け止められなかった。思わず顔を背け、目を逸らした。

 さっき、ユエル様が女の人から生気を奪うのを見た時もどきどきして胸が苦しくなったけれど、今のこの動悸は、それとは違う。

 熱くて苦しくて、だけど、……ひどく甘美な疼痛で。ずっとこのまま身を委ねていたいような、そんな感覚にとらわれている自分に戸惑わずにいられなかった。

 自分が、何にこんなに怯えて震えているのか分からない。

「ミズカ」

 名を呼ばれ、ユエル様の方に向き直った。

「ミズカ」

 繰り返すユエル様の声は、感情を抑え込んでいるかのように低い。気遣わしげな優しい微笑が消え、長い睫毛の下に鈍色の影がさしていた。

 沈黙がひたひたと寄せる。

 耳を塞がれてるみたいだ。聞こえているはずの雨音すら感じない。

 ――ユエル様しか感じられない。

 どうしよう。こんなにも……わたしの何もかも全てが、ユエル様でいっぱいになってる。

 わたしのとまどいがユエル様に伝わったのかもしれない。

「…………」

 今度はユエル様の方が先に目を逸らした。

 ユエル様は無言のまま患部に手を当てる。双方とも皮は剥け血も出ちゃってたけれど傷は浅かったから、ユエル様が“手当て”を施してくれること数秒、すぐに完治した。傷跡も残ってないようだった。

 ユエル様が立ち上がり、一瞬呆けてたわたしは、慌ててお礼を言った。「ありがとうございます」と、焦り口調になって言ったわたしに、ユエル様は微笑みかけてくれた。さっき過った仄暗い影はなく、穏やかな微笑みがユエル様の美しい面貌かおに戻っていた。

「ミズカ、また靴擦れができたら言いなさい。すぐに治してあげるから。そのうちに靴も足に馴染んでくるだろう。――さて」

 ユエル様は優美な仕草で前髪をかきあげた。

 秀でた額と深い湖水を思わせる神秘的な双眸が露わになる。耽美を具現化したようなユエル様の

艶冶

な姿は、さり気ない仕草一つでも、度肝を抜かれる絶佳具合だ。

 半ばぼう然と、目の前の麗人を見つめた。

 ユエル様は艶笑し、言葉を継ぐ。

「コーヒーを淹れなおそうか。ミズカが新しい豆を買ってきてくれたことだしね」

「あ、わたしが……」

 立ち上がりかけたわたしをユエル様は片手を前に差し出して、止めた。

「私が淹れるから、ミズカはそこで待っていなさい。たまにやらないと腕が鈍ってしまうしね」

 コーヒーの淹れ方をわたしに伝授してくださったユエル様だから、淹れ方はわたしなんかよりずっと上手だし手際も良く、当然美味しい。

「ミズカ、リクエストは?」

「えっと……それじゃぁ、カフェオレを」

 せっかくのご好意を無下に断ってしまうのは申し訳ない。それに、わたしを気遣ってくれてるユエル様の気持ちは嬉しいもの。素直に受け取ろう。ユエル様のお気持ちを、尊重したい。

「甘さの加減は、ミズカ? 砂糖は多めがいいかな?」

「甘さは……控えめでお願いします」

「珍しいね? ミズカは砂糖もミルクもたっぷりの甘いのが好きなのに」

「だって、……――」

 ユエル様の微笑が、もう十分すぎるほど甘いんだから!

 とは、恥ずかしくって口に出せなかったけれど。

 わたしの心を見透かしてか、ユエル様は意味ありげな微笑みを浮かべていた。


* * *


 ――今日はツイてない。

 さっきまでそう思っていたけれど、もうそんな気分はどこかへ飛んでしまった。ユエル様のおかげで。

 そういえば、あの雨の日もそうだった気がする。

 遠い昔のあの雨の日、ひどく辛くて苦しい思いをしていた気がする。けれどユエル様との出逢いがわたしの気持ちを変化させた。曖昧にしか思い出せないけれど、ユエル様のおかげで暗い気持ちから……境遇から、脱することができた。

 ユエル様と出逢うために、わたしはあの日、ああして雨に打たれていた気すらする。


 ツイてないって思う出来事が続いて落ち込むこともあるけれど、そんな気持ちもきっと必要なのかもしれない。

 雨が乾いた土壌を潤していく。そこに芽生え、育っていく様々な“想い”。

 そして知る、雨の恵みのありがたさ。


 ユエル様がわたしに与えてくださるものはたくさんある。たとえばそれは、雨の恵みのような、幸せ。

 ユエル様が傍にいてくれる。

 それだけで、わたしは……――

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