霖雨 1
雨は、ほんの少しだけ苦手。
だけど、雨の日が嫌いというわけじゃない。
だって雨の日は、大切な思い出のある日だもの。
ユエル様と出逢ったのは雨の日。今日みたいに、凛々たる冷たさを感じる雨の日だった……ように思う。
あの頃……まだ“人間”だった頃のことは、あまり記憶に残っていない。断片的にしか思いだせない。
けれど、ユエル様だけは違う。
あの雨の日、街で行き倒れていたユエル様の、今にも雨に溶け、消えてしまいそうな蒼白な美貌ははっきりと脳裏に焼き付いている。
あの雨の日の邂逅がわたしの全てを変えた。あの雨の日が始まりだった。わたしの新しい“生命”が始まった。
ユエル様と出逢わなければ、わたしは虚しい生を虚しいとすら思わず孤独に終えていた。
雨は、そういう大切な思い出を呼び起こすものでもあり、古傷をじくじくと疼かせるものでもある。虚しさと悲しみにひしゃげてしまいそうな重い痛みが背に走る。
だから少しだけ憂鬱な気分になりがちなのだ、幾日も降り続くような長雨は。
* * *
――ツイてない。
無意識にため息がこぼれおちる。
ツイてない出来事って、どうして連続するんだろう。小さな不運が雪だるま式に増えていって気分をへこませる。ひとつひとつは些細な不運に過ぎなくて、続きさえしなければすぐに気を取り直せるような事なのに。
今日は、なんだかそんなツイてない事が立て続けて起こる日だった。
今朝見た天気予報、「晴れのち曇り、ところによって一時雨」との事だったので、雨天兼用の日傘を持って外出した。
目指す先は、品揃え豊富な紅茶の専門店。
五日前に、今いるマンションに引っ越してきたばかりなのだけど、越してきたその翌日に目をつけておいたお店だった。マンションから徒歩十五分はかかろうかという所。ちょっと遠いけれど、マンションの周辺散策も兼ねて、ゆるりと歩いていってみようと思い立った。
ユエル様にお留守番を頼み、わたしは一人、街路樹の緑が美しい街へと繰り出した。
つい最近、ユエル様が買ってくださった、紺色にカラフルな小花模様の日傘をさし、キャメル色の真新しい靴を履いて、気分も明るくさくさくと歩いていく。
週間天気予報では今夜から雨が降り出し、一週間ほどはぐずついた天気が続くらしい。
今日はなんとか持ちこたえてくれるといいけれど。雨天続きだと出かけるのも億劫になって、ユエル様の出不精にもさらに磨きがかかってしまう。それに不都合はないのだけど、部屋に閉じこもりっぱなしなのは、やはり良くない気がする。
吸血鬼が太陽の下、陽気に散策するなんて、ちょっと似つかわしくない気もするけれど。
日光浴も大切ですよとユエル様に言ったら、
「灰になって消えない程度なら」
と、苦笑されてしまった。もちろんそれは冗談だと分かっているけど。
とはいえ、ユエル様の美形ぶりはとにかくどこにいても目立つから、明るいうちはそうそう出かけない方がいいのかもしれない。
そんなことを考えながら、住宅街を抜けて大通りへ出る。平日のお昼ということもあってか、車道を走る車もそれほど多くなく、歩道を行く人も少なかった。
道は平かではなく、多少のアップダウンがあるけど、その傾斜は緩やかだったからそんなに辛い道のりではない。
散策の大事なお供は、ユエル様が買ってくださった、日傘とスウェードの靴。
日傘は、今日がおろしたて。日傘なんてわたしには勿体ないって思う気持ちもあるけれど、なんだかおしゃれな心持ちになれて、やっぱりとても嬉しかった。
だから独り歩きでも心は弾んでた。何か良い事あるといいな、なんて期待したりして。
ところが、ゆるゆる三十分近くかけて目的のお店に到着したというのに、ドアに一枚の張り紙を見つけて、瞠目した。なんと、まさかの臨時休業。
「そんなぁ……」
思わず独りごちる。
なんともいえない、このがっかり感。出鼻をくじかれたというか……。
定休日だったならまだしも諦めがつくけれど、よりにもよって臨時休業なんて!
閉店したわけではないのだし、また別の日に改めて来ればいいのだからと(定休日も確認したし!)、なんとか気を取り直した。
このまま回れ右をしてマンションに戻るのはいかにも勿体ない……。
そういえば、もう少し行った先に大きなスーパーがあるから、そこまで行ってみよう。そう考えついて、再び歩き出した。
マンションを出たのは昼過ぎ。その頃は日が照って眩しいほどだったけれど、俄かに曇りだし、風も吹き始めて時折は日が陰ったりもした
紅茶のお店から二十分くらいは歩いて、やっとスーパーに到着。
入口の手前、店外にコーヒーの専門店らしき店があり、そこに寄ることにした。コーヒー豆も小売しているようだし、さすがに歩き疲れて休憩もしたかったから、ちょうどよかった。
お店では、本日のお勧めのコーヒーを飲んで、そのコーヒー豆……コロンビア産の中深煎りの豆を、250グラムを購入した。
紅茶は買えなかったけど、美味しいコーヒーを手に入れられたから、がっくりきてた気分もちょっと盛り返してきた。それなのに……――
まさか、お店の外の傘置きに立てておいた日傘を盗まれてしまうなんて!
何度確認しても周りを見回しても傘はどこにもなかった。店員さんに訊いても困り顔をされるばかりで見つかるはずもなく、手元に戻ってくることはなかった。
しかたなく諦めてお店を出た。ぼんやりしきっていたせいで、購入したコーヒー豆を店内に置き忘れたことにも気付かなかったという、ていたらく。店員さんがすぐに追いかけて届けてくれたからよかったものの、……もう、穴に入って隠れてしまいたいくらい恥ずかしくて情けなかった。
疲れた足を引き摺るようにして、マンションへの帰途につく。
アキレス腱あたりに僅かな痛みを覚えたけれど、それよりも心の方が重く、痛かった。
空模様もあやしくなり、さっきよりずっと灰色の雲が増えて、日の光が弱まっている。幸い、雨はまだ降りだしてはいなかったけれど、風は冷たく、長袖とはいえ薄手のコットンニットでは少々肌寒くなってきた。
「…………」
ため息が無意識にこぼれてしまう。
少し歩を緩めて、首を伸ばした。
まだ黄色に染まりきっていないイチョウの青い葉が、時折吹く強い風に揺すられ、はらはらと舞い落ちる。
散るイチョウの葉を目で追い、何度目かのため息をついて視線も落とした。
日傘を失くしてしまったと、ユエル様に報告するのが憂鬱だった。
ユエル様はわたしを怒ったり責めたりはしない。逆に慰めてくださるような方だもの。だからこそ申し訳なくて、気が咎めてしまう。
せっかく買ってくださったものを、どんな理由にせよ失くしてしまうなんて……。
どうして傘立てに置きっ放しになんかしたんだろう。店内に持って入れば盗られることなんてなかったろうに。どんなに悔やんでも悔やみきれない。自分の迂闊さが恨めしい。
地面にめり込みそうな勢いで、がっくりきて、情けなくて、悲しくて、泣きそうになった。
鼻の中がツンと痛んで、すんっと音をたてて啜った。眦に涙も滲みでてきた。
その時だった。
地面にポツリと水滴が落ちた。わたしの涙ではない、一滴。それは一滴に留まらず、何滴も何滴も地面に落ちた。
「やだ、雨!?」
降りだした雨は瞬く間に本降りになり、アスファルトの色を変えていった。
雨宿りのできそうな所もなかったし、わたしはまっすぐマンションに向かって駆けだした。マンションの近くまで来ていたからよかったけれど、それでもマンションの中に飛び込んだ頃にはすっかりずぶ濡れになってしまっていた。
寒気がする。だけど走ったおかげで体は蒸れて熱い。それに足も痛かった。
マンションのエントランスホールにもエレベーター前にも、他に人がいなくてホッとした。こんなみっともない姿、誰にも見られたくないもの。
あがった息を整えながら、エレベーターのボタンを押した。幸いエレベーターはすぐに降りてきて、他に利用者もなくて十階へは一度も止まらずに昇った。
居住している部屋は、角部屋。エレベーターから降りて左、二部屋を通り越した突き当りの部屋が、越して来たばかりのわたし達の住まい。
その部屋の前にユエル様がいた。他の誰と見まごうはずのない、美貌の青年。
ユエル様は玄関前に佇んでいた。女の人と向かい合って。
――だれ? ユエル様と向かい合って立っている、あのカーリーヘアーの女の人は?
エレベーター前はちょうど凹の形になってて、とっさに身を引いて、壁の内側に隠れた。そこからそろりと顔を覗かせる。離れているから声は聞こえない。栗色カーリーヘアーのその女性の後ろ姿に見覚えはなかった。郵便や宅配便の人ではなさそう。このマンションの住人なんだろうか?
ユエル様は片手でその女性の腕を掴んでいた。もう片方の手は首に当てているようだった。豊かな長髪のせいでよくは見えなかったけれど。おそらく、首を押さえつけてる。そして生気を吸い取っている。女性はまったくの無抵抗だった。
異様な空気が漂っていた。銀色の火群が二人を取り巻いて炙り、空間を閉じているような、そんな軋みを感じる近寄りがたさだった。
ユエル様の表情は、ここからは窺い知れない。けれど想像はつく。酷薄な微笑を浮かべるでも苦渋に眉をしかめるでもない。蠱惑的な深緑の双眸が餌食を射竦め、そうして無慈悲な“美”は人間の“生気”を奪っていく。
堪らず、目を逸らした。
ユエル様が人間から生気を吸い取る場面を見たのは、これが初めてじゃない。相手も大抵は若い女性だ。今のように。
こうして時たま見てしまうだけの光景が、いつもわたしの胸を締め付けてくる。
以前はそんなことなかった。
異様な空気にたじろぎ、なんとなくどきどきしたりはしたけれど、こんな風に胸が締めつけられるような痛みはなかった。
見たくない。ユエル様が女の人の生気を飲んでいるところなんて。
手前勝手な感情だと分かってる。なのに……――
生気を飲まなければユエル様は生きていられないし、それはわたしだって同じだ。
だけど胸に広がる暗雲のように重たい、もやもやとした気持ちは、どうしても抑えようがなかった。
――ああ、ほんとに今日は、なんてツイてないんだろう。
今すぐここから逃げ出してしまいたい。ツイてない気分を拭い去ってしまいたい。
けれど結局、わたしが逃げだしてしまうより早く、カーリーヘアーの女の人の方が先に、ユエル様の前から立ち去った。隣人だったらしく、おぼつかない足取りで隣室に入っていった。
バタンとドアが閉まる重い音が廊下に響いた。雨音がひどく遠くに感じる。
こんなところで息をひそめていても仕様がない。
わたしも部屋に戻らなくちゃ。
でも、いますぐ出ていく勇気はなかった。盗み見していたなんて、できればユエル様には知られたくない。
だからユエル様が部屋に入るまで待っていよう。小狡くそんなことを考えていたのだけど、そう思い通りにはいかなかった。
部屋に背を向け、エレベーター前で佇立しているわたしに、ユエル様は気付いていたんだろう。ややあってから、「ミズカ」と声がかかった。いつの間にか、ユエル様はわたしの傍に来ていた。
「ユ、ユエル様……」
驚いて振り返ったわたしに、ユエル様は深緑色の瞳を優しく細めて、微笑みかけてくれた。
「遅かったね、ミズカ。雨も降りだしたから心配していたんだが」
「あ、あのっ」
狼狽し、二の句が出ない。頬が赤くなっているのが自分でも分かった。
「ミズカ、そんなに濡れて。傘は持って出ただろうに、どうして」
「あ、それ、は……」
「いや、話は後にしよう」
ユエル様はわたしの手を取り、やや急ぎ足で歩きだした。引っ張られる形でわたしも歩きだした。ユエル様のしなやかな銀の髪を見つめる。ユエル様は肩越しに振り返りもせず、わたしに言った。
「とにかくまずは着替えを……その前にシャワーを浴びた方がいい」
「……はい」
ユエル様の手はいつになく熱い。さっき、女の人の首に当てていただろう側の、右手。生気を吸った名残が熱を持たせている。その熱が、ひどく痛かった。