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Ataraxia 3

「ミズカ」

 ユエル様がわたしの腕を掴んで引き止めた。後ろに引っ張られた拍子につんのめり、そこで足を止めた。

 ユエル様の手が、いつになく熱い。ユエル様の手を振りほどけず、顔を背けてその場に立ちすくんだ。

「待ちなさい、ミズカ」

「…………」

 肩をすぼませ、下唇を噛んで俯いた。

 手を離してください、その声も出ない。

 ユエル様は一瞬わたしの腕を握る手に力をこめたけれど、すぐにその力を緩め、離した。

「ミズカ、なにを怒ってるのか、言ってくれなければ」

「怒ってなんかいません」

 ユエル様の言葉を遮って、言った。顔はユエル様から背けたまま、床にため息を落とす。

 平静に応じたかったのに、抑えようもなく声が震え、上擦ってしまう。

 ユエル様に掴まれた腕の、同じところに手を当てた。掴まれたところが痛かったわけじゃない。痛むのは別のところ。胸が締めつけられて、息苦しい。

「違います。わたし別に怒ってなんかいません。ただちょっと……驚いただけで。怒ってなんか……」

 力なく語尾がすぼむ。

「ユエル様がどこに行かれても、何をしてても、わたしが詮索したり口出ししたりなんかできない……そんな権限ないって、分かってます」

「ミズカ」

「すみません、ユエル様」

 ユエル様はきっと困惑した顔をしてる。

 ユエル様を困らせてばかりいる自分が情けなくて、顔をあげられない。

 溢れて眦からこぼれそうになる涙を堪えるのに必死だった。鼻先がツンと痛む。

「ミズカ、顔をあげて」

「…………」

 無言のまま、わたしは首を左右に振った。

「ミズカ、お願いだから」

 触れようとしながら触れられないといった風にわたしの傍に立つユエル様が、ひどく果敢無げな声を発した。

 隙間風が、どこからか入ってきて、室内の空気をほんの僅か、揺らがせた。微かな潮のにおいに混じって漂ってくる甘い香りが鼻につく。堪らずに口と鼻とを、両手で塞いだ。

「あ、の……わたし、すみません、もう……っ」

「ミズカ? いったいどう――……」

「すみま、せん、……におい、が、……っ」

「ミズカ、待ちなさい」

 最後まで言わず、わたしは再びユエル様から身を離した。その直後のことだった。

 パサリと、何かが床に落ちた。その音にひかれ、つと目線を斜め後ろに流した。薄暗い部屋の、さらに暗い足元、目の端に白いそれをとらえた。次の瞬間、すかさず、ユエル様はわたしの腕を掴んで引き寄せた。

「……っ」

 ユエル様はわたしの後頭部に片方の手を添え、その胸に軽く押し当てた。

 床に落ちている白いそれは、ユエル様が着ていたシャツだった。ユエル様はその場にシャツを脱ぎ捨て、半裸の状態になっていた。頬に、ユエル様の少しひんやりとした素肌が触れている。

 ユエル様が低く囁いた。

「これならいい、ミズカ?」

「え……?」

 和室の戸の前で、わたしはユエル様に抱き寄せられている格好になっていた。

 目の前を塞ぐ白い肌が眩しくて、ぎゅっと瞼を閉じた。心臓が破れそうな勢いで鳴っていて、ユエル様が何を言ったのか分からなかった。

 あまりに突然で驚いたし戸惑ったけれど、不思議と……怖くはなかった。

 ――香りのせいかもしれない。

 鼻腔を微かにくすぐってくるこの香りは、ユエル様のシャツにまとわりついていたきつい香水の匂いじゃない。

 ユエル様の香りだ、これは。

 素肌から匂いたってくる、艶麗な薔薇のような香り。その温かくて甘い香気がわたしを包んでいる。ユエル様の温もりに、必死に抑えていた心の箍がはずれてしまった。

「ユ……エル、様」

 眦に溜まっていた涙が頬を伝って流れ落ちた。発した声は抑えよえもなく震え、上手く言葉を紡げない。

「わたし……わたし、すごく不安で」

 それでも勝手に言葉が出てきてしまう。

「ユエル様、いつかはわたしを置いて、どこかへ行ってしまうのかなって。ここに、置いていかれるのかなって。そのためにここに来たのかなって勘ぐったりして。もう、わたしは、必要じゃなくなったのかなって、そんなこと考えて、勝手に不安がって……、こわ、くて……」

 途切れ途切れに声を発する。ユエル様の顔を見られず、さっきからずっと俯いたまま。

「それでも、わたしはユエル様に従うだけだから。ここに置き去りにされても、ユエル様がそうするなら……わたしは従うしか、できないから。でも、それならせめて一言、訳を言ってほしいって思って。ユエル様に、……その、想う方が、できたのなら、その方と一緒に在りたいと仰るなら、わたしは……」

 身を引く覚悟はできている……はずだった。

 それなのに、いざとなると、どうしてこんなに心がしめつけられ、苦しくなるの? みっともなく泣いて、縋ってしまうの?

「すみません、勝手ばかり言って……。話す義務なんて、ユエル様には、ないの、に……」

「ミズカ」

 ユエル様はやにわにわたしの両腕を強く掴み、体の向きを直させた。そして顔をあげさせられた。見上げたすぐそこにユエル様の端正な面がある。眉をしかめ、真剣な表情でわたしを見つめている。

「ミズカが謝ることなど何一つない。勝手をしたのは私の方だ」

「でも、ユエル様」

「ミズカを置き去りになど、そんなつもりは毛頭ない。それに、ミズカの考えるような相手もいない。生気を飲む以外に用などないのだから」

 ユエル様は強い口調で言う。薄暗がりの中、緑の瞳が鋭くわたしをとらえて、目線をはずすこともできない。

「でも……」

 生気を飲むだけで、あれほど香りが濃く移るものだろうか。

 生気を飲むのには手を使えば済む。首筋か手首か、そこに指を押し当てるだけでいい。

 香りが移ったのは、それだけ密着していたということなんじゃ……?

 納得がいかず、疑いのまなざしをユエル様に向けてしまった。ユエル様は「誤解だ」と繰り返す。

「今夜のように、向こうが勝手にしなだれかかってくることはあるが、いちいち相手になどならない。とりあえず生気はいただくが、あくまでそれだけだ。何もありはしない。――ミズカ、不安にさせたのは悪かったが、あらぬ誤解だけはしないでほしい」

「…………」

 ユエル様は焦燥のあまりか、いつになく早口になっていた。うろたえる様を、こんな風にあからさまに顔に出すのは珍しい。

 言葉で説明するより早いと咄嗟に判断して、それでシャツを脱いでみせたの、ユエル様? 身の潔白を証明するために?

 女性から移ったらしい香水は、シャツからしか匂ってこなかった。諸肌を脱いだユエル様に、その匂いはまとわりついていなかった。

 とめどなく流れていた涙はいつしか止まっていた。ユエル様はわたしの頬を親指の腹でそっと撫ぜてくれた。わたしは黙ってユエル様を見つめ返している。

「ミズカに無用の心配をかけまいと黙っていたのだが、かえって不安にさせて、すまなかった」

「…………」

 瞬きだけでユエル様の謝罪に応えた。言葉ひとつ、出てこない。言いたいことはたくさんあるのに、どう伝えたらいいのか分からない。

 それに、さっきから急に体が気だるくなって、まるでスポンジの上に立ってるみたいに、足元がふわふわして覚束ない。頭もぼんやりして、目の前が霞んでいく。唇を開け、動かすのも億劫だった。

「……ユ、エル様……」

 それでも、喉を振り絞って、ようやく声を発した。

「ユエル様」

「うん?」

「置いていかないでください。わたし、ユエル様の傍に……いたいんです……」

 どっと押し寄せてきた数日分の眠気のせいで、本心を抑える意力もなくなっていた。

「ユ、エル様……どこにも……行かないで……」

 頭が朦朧として、重い。瞼も下がり、そのままユエル様の胸にコツンとおでこをぶつけた。ユエル様はわたしを支えていてくれる。心地よい安堵感に包まれて、そのままどうにか保っていた意識を手放した。

 意識が途切れてしまう、その直前。ユエル様の声を聞いたような気がした。

「行かないよ、どこにも。ともに在りたいと願うのはミズカだけだから」

 細波を思わせるしずやかな囁きも、優しい腕のぬくもりも、瞼の上にそっと落とされた吐息とやわらかな唇の感触も、あまりにおぼろげで切なくて、だから、もしかしたらそれらはすべて夢だったのかもしれない。

 だけど、夢でもいい。そう思った。

 たとえ夢でも、ユエル様が傍にいてくれている、それをずっと感じていられたから。

 目覚めてしまうのが惜しいほどに。


* * *


 そして、久しぶりの安眠を存分に堪能しきった翌朝。

 わたしは寝ぼけ眼をこすって、辺りを見回した。

「……っ?」

 ここはどこかと問うまでもない。今居るこの洋間は、わたしが寝室に使ってる部屋じゃない。

 自分の置かれた状況を把握し、タオルケットを抱きしめたまま硬直した。

 目覚めた時刻がとうに朝といえる時間ではなく、正午近かったことにも慌てたけれど、それよりも……っ!

「やぁ、よく眠れたかな、ミズカ?」

 声をかけられ、そちらに目を向ける。美麗すぎる微笑みがそこにあった。

「ユッ、ユエル様っ」

 あろうことか、わたしはユエル様のベッドを占領してしまっていたのだ。

 いったいぜんたい、どうしてこんなことにっ?

 いつの間に眠ってしまったのか、憶えてない。……ううん、傾眠状態にあったことは憶えてる。そのまま眠ってしまったんだろう。

 温かで甘い香りのする夢を見てたような気がするけれど、……それもそのはず! ユエル様のベッドで、ユエル様の残り香に包まれていたのだから。

「ミズカ、気分はどう? 渇いているようなら、飲む?」

「……っ」

 ユエル様に問われ、肩を竦めて、小さく首を左右に振る。

 生気は足りてる。渇いている感覚はなくて、むしろほとび過ぎてるくらい。

 頬どころか、顔中が熱い。慌てふためき、醜態を晒しているだろうに、ユエル様から顔を逸らせなかった。忙しなく動くのは瞼だけ。

 隣のベッドに座っていたユエル様がゆっくりと立ち上がった。それに合わせてわたしも首を伸ばす。

 ユエル様は一度目線を下に落とし、けれどすぐに視線をこちらに向け、わたしを見つめ返してきた。

 気のせいだろうか? 細められた緑の瞳にはどことなく翳りがあるように見えた。だけど白皙に湛えている微笑は相変わらず美しい。

 とうにシャワーも浴び終えた様子のユエル様は、体にぴったりフィットしたブルーグレイのTシャツとブルーデニムのジーンズというラフなスタイルに着替えを済まされていた。長い銀髪は一つに緩く束ね、左肩に流している。

 ユエル様はやや伸びすぎの感のある前髪をかきあげ、にこりと微笑んだ。

「ミズカ、提案なんだが」

 さっきまでの静かな微笑とは違う、ちょっと悪戯めいた笑みを口元に浮かべて、ユエル様は切り出した。

「このコテージを借りた時にも言ったが、この部屋には、こうしてベッドが二台ある。やはりミズカもこちらで寝たらどうかな? 私を見張るのには同じ部屋にいた方が、都合がいいだろう?」

「な……っ、そ、そんなの……無理です! できませんって最初にわたしも断りましたよねっ? それに、見張るなんてっ」

 ぎょっとして、思わず叫ぶように返してしまった。

 もうっ、ユエル様、急に何を言い出すのかと思ったら……!

「まぁ、もう二度とミズカに黙って姿を晦ませたりはしないつもりだが。見えるところにいれば、不安にならずに済むだろう?」

「そういうことではなくて!」

「面倒がなくていいと思うけど?」

「できません! おっ、同じ部屋で寝むなんて、そんなのっ、……そのっ、色々と、だめですっ!」

「どうしても?」

「どうしてもですっ!」

「ミズカがそういうのなら仕方ないね。……私にしても、我慢が利くか自信はないのだが」

 ユエル様はいかにもわざとらしくしょんぼりと肩を落とし、ため息をついた。それから、わたしの寝ぐせがついてあちこち跳ねまくっているだろう髪を、片手でそっと撫でつけてきた。ユエル様の指が、わたしの髪を梳く。まるで子猫の頭を撫でるような、慎重でゆっくりとした触れかただった。

 その手つきが、見つめてくる瞳が、あまりに優しくて……胸が甘く締めつけられる。動悸がまた激しくなる。けれど、同時に緊張も解けていくのが分かった。ゆるゆると、心の縛りが解けていく。

 昨夜は変に誤解したり疑ったりしてごめんなさい。今も、ベッドを占領してごめんなさい。――そして、傍にいてくれて、ありがとうございます。

 それらを言いたかったのに、喉の奥で詰まったまま、どれも声にならなかった。

 だけど、ちゃんと言わなくちゃ。

「ユエル様、わたし、あの……」

 ユエル様の手が、わたしの髪から離された。ユエル様の手を追うように、わたしは少し前のめりになる。

「あ、あの……っ」

「……さあ、ミズカ。そろそろ起きた方がいいね。昨日ミズカが買ってきてくれた果物でフレッシュジュースを作ってくるよ。ジュースより、コーヒーか紅茶の方がいいかな?」

「あ、えっと、ジュースが……いいです」

「分かった。先にリビング《むこう》にいって用意しておくよ。着替えてから、おいで」

 そう言って微笑み、ユエル様はわたしの傍を離れた。

「ミズカ」

 ドアの前で、ユエル様は一旦足を止めて肩越しにこちらを見た。わたしがためらいがちに「はい」と応えると、ユエル様は目を細め、淋しげにも見える微笑を浮かべた。

「……いや。待っているから」

 一言、それだけを告げて、ユエル様は部屋を出ていった。


 胸元を隠すようにして抱いていたタオルケットを、さらにぎゅっと抱きしめ、そこに顔をうずめた。

 いつもと変わりのない朝。そしてユエル様の微笑み、他愛ない会話も。

 そういう日々を、幾千幾万と重ねてきて、今に至ってる。きっと、これからも変わらない。変わらないでいてほしい。ユエル様の傍にいられるよう、ずっと。

 ――でも。

 ずっと変わらずに? 今までと変わらないままで?

 ふと、一抹の悲哀が胸を過った。淋しいような、不満なような……もやもやとした感情が不意を衝き、もたげてきた。

 心のどこかで変化を望みながら、今はまだこの平穏にたゆたっていたいと、臆してる。

「……行か、なくちゃ」

 胸をひしめかせる昏い気持ちを払うように、タオルケットを横に除けて、ベッドから降りた。

 頬を軽く叩いて、気合いを入れる。

 ユエル様に、「ごめんなさい」と「ありがとう」を、ちゃんと伝えなくちゃ。

 身支度を整えるべく、洗顔等を済ませてから和室に戻り、ペールブルーのワンピースに着替えた。髪は簡単に櫛を通しただけだったから、ところどころ毛先は跳ねたまま。それをごまかすために、耳サイドの髪を後頭部でまとめ、シュシュでくくった。

「ミズカ」

 ジュースができたよと、ユエル様が呼ぶ。

 新鮮な果物の甘酸っぱいにおいがコテージ全体に広がり、爽やかに香っている。窓の外を見やると、明るく光が溢れていた。木々の緑も空の青も悠然とした雲の白も、はっきりとした現実感をわたしの瞳に映してくる。

「はい、今行きます、ユエル様!」

 応え、わたしを待っていてくださるユエル様の元へと向かった。

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