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Ataraxia 2

 翌日の、夜のこと。

 その日は珍しく寝付きが悪かった。

 明かりを消して横になったものの、妙に頭が冴えて、ちっとも眠くならない。この南海の島へ来て、初めてのことだ。

 何度も寝返りをうっては、寝苦しさに眉をしかめて、息を詰めたり嘆息したりしていた。

 普段寝付きはいい方だから、眠れない時の対処法が思いつかなくて、ひたすら困ってしまう。

 ――なんだろう……? 胸がざわついてる。締めつけられるような、空虚なような、そんな落ち着かなさだ。

 仰向けになってタオルケットを胸元でぎゅっと掴み、大きくため息をついた。

 その時だった。部屋の向こう、それほど遠くないところから、キィッという蝶番の擦れるような金属音が微かに聞こえた。

 一瞬、なんだろうと思ったけれど、その疑問は思考に留まらなかった。ただ、眠れなくて困ったと、そればかりを考えていた。

 暑くて眠れないというのでもない。枕が変わったから眠れないってことでもない。

 だって、この島に来てから今日までずっと……さすがに初日は興奮気味でなかなか寝付けなかったけれど……わけもなく寝付けないなんてこと、なかったもの。

 横たわったまま眠気を呼びこもうと、羊を数えてみたり、「眠れる」と自己暗示をかけてみたり、記憶している子守唄を頭の中で再生してみたり、いろいろと努力はしてみたものの、それらは結局徒労に終わり、わたしは観念して、むくりと体を起した。

「……ふぅ……」

 両目をこすり、それからぺちりと頬を叩いた。

 喉が渇いている……かも。何か飲もう。

 タオルケットを横に置いて立ち上がる。膝丈のワンピース型パジャマの裾を片手で直し、寝室を出た。

 わたしの使用している寝室は畳の敷かれた和室。久しぶりに床に布団を敷いた。

 今まで数知れず転居を繰り返してきたけれど、ユエル様の好みで洋風造りの一戸建てやマンションに住まうことが俄然多かった。自然、寝室も洋室となり、寝床はベッドになった。

 ユエル様は日本の風習にだいぶ慣れているようだったけど、床の上に直に布団を敷き、そこで眠るというのだけは、どうしても受け入れられないらしい。

「地べたにそのまま体を横たえるなど。踏んでくれと言わんばかりではないか」なんて、不可解そうな顔をして言っていた。

 遠い昔……ユエル様に仕える前、某子爵家の奉公人だった頃のわたしは、個室なんて与えられる身分ではなかったし、寝床だってとても粗末なものだった。掛け布団は古くなった綿入れを繋ぎ合わせて作ったものだったし、ユエル様が言うように、人に踏まれることもままあった。

 ユエル様に引き取られ、ユエル様の「眷族」になってから、わたしの何もかもがすべて一変した。

 まさか、こんな南海のリゾート地にやってくるなんて、あの頃のわたしには想像もできなかったろう。人間らしい感情さえ希薄だった、あの頃のわたしには。

 冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、グラスに注ぐ。グラスの半分程度に注がれた水を一息に飲んで、ため息をついた。

 昔の事が思い出され、気分が若干重たくなった。

 喉は潤ったけれど、どうしてだろう、まだ渇いているような感じが残ってる。

 もう一杯グラスに水を注いで、ペットボトルを冷蔵庫にしまった。

 オレンジがかった色の常夜灯がリビング内をぼんやりと照らしている。そこで一人佇み、ほとんど無意識に耳をそばだてていた。

 なんて静かな夜だろう。風もぴたりと止んで、潮騒も遠い。

 本当にとても静かだ。

 大袈裟かもしれないけれど、明かりを落としてからの僅かの間にこのコテージだけが無人島に流され、わたしひとり、置き去りにされたような錯覚にとらわれている。そのせいなんだと思う、さっきから落ち着かないのは。

 そんなことありっこないって分かってるけど……――

 でも、……――

 ふと、不安が胸を過り、居てもたってもいられなくなった。水を一息に飲んで、グラスをシンクに置いてから、ユエル様がいるはずの寝室へ向かった。

 鍵はかかってない。なるべく音をたてないよう、静かにゆっくりとドアを開けた。

 中は暗かった。暗いけれど、室内の様子はおぼろげに確認できた。

 ユエル様がいない。

 そろりと足を踏み入れ、部屋の中を見回した。八畳の洋間にベッドは二台あって、そのどちらにもユエル様の寝姿はなく、それどころか使用された様子もない。

 寝室どころか、コテージのどこにもユエル様のいる気配はなかった。

 ――そういえば、さっき、玄関ドアの開閉音を聞いたような、……気がする。

 散歩にでも出たんだろうか、もう深夜だというのに? ひとりで、わたしに何も告げず?

「…………」

 来た時と同じように、ユエル様のいない寝室のドアを静かに閉めた。

 胸のざわつきがおさまらない。どうしてこんなに動揺するの?

 きっと、すぐに戻ってくる。ユエル様はちゃんと戻ってくる。ほんのちょっと出かけているだけ。そしてすぐにまたここに戻ってくる。

 だから不安に思うことなんてないんだって自分に言い聞かせ、部屋に戻った。


 翌朝、ユエル様はわたしより先に起きだしていて、キッチンでコーヒーを飲んでいた。素知らぬ顔で「おはよう」とわたしに微笑みかける。穏やかで麗々しい笑みをその美貌に湛えて。

 そんな日が、三日も続いた。


 ――三日も、続いた。ユエル様不在の夜が。

 深夜、ユエル様はわたしに気づかれぬようこっそりとコテージを抜けだし、翌朝には素知らぬ顔で寝室から出てくる。そのままバスルームへ向かい、軽くシャワーを浴びてリビングにやってくる。

 夜、どこに行っているんですか。何をしているんですか。

 そうユエル様に訊きたいのに、訊きそびれてばかりいた。

 朝の挨拶の後に「昨夜はどうしてましたか?」とさり気なく訊いてみればいいのに、なんとなく、詮索してはいけないような雰囲気がユエル様にはあった。それに、尋ねたところで麗々しい微笑でごまかされてしまうだろう。そんな気がした。

 だから訊かなかった。

 寝不足になるほど気にかかっていたし、訊けずにいることがもどかしくてたまらなかったけれど。迷惑顔をされたくなくて、我慢した。

 だけどそのせいで、ユエル様への態度がぎくしゃくしたものになって、逆にユエル様を不審がらせてしまった。

「ミズカ」

 対面式のキッチンから出ていこうとしたところで、ユエル様に呼び止められた。

 ユエル様がこちらに近づいて来て、そしてわたしの顔を心配げに覗き込んでくる。銀のやわらかな髪が、さらりと肩から流れ落ちる。緑の瞳はわずかに細められていた。

「ミズカ、顔色が優れないね? 今日もだが、ここ三日ほど、朝の散歩にも出ていないようだし、起きてくるのも遅い。夏負けでもしたかな?」

「いえ、……その……」

「何か、気にかかることでも?」

 目を逸らし、返事をぼかした。「何でもないです」とは応えられなかった。ユエル様の事が気にかかっているんです、とも。

「ミズカ」

 ユエル様の手が、頬に触れた。突然のことにどきっとして、思わず肩をすぼませた。ユエル様の手の感触が、なんだかひどく懐かしい。表面は冷たいのに、ぬくもりが伝わってくる。

 顔をあげると、緑色のまなざしとぶつかった。ユエル様はじっとわたしを看視している。

「ミズカ、渇いてるね?」

「え……?」

「水分じゃないよ?」

「……あ、……」

 わたしは喉に手を当てた。

 そういえば、たしかに渇いている。喉ではなく、体中が。

「少しでも渇きを覚えたならすぐに言いなさいと、言ったはずだよ、ミズカ」

「すみません……」

「私も、つい自分の事ばかりにかまけていたからミズカを責められはしないのだが、――ほら、手を貸しなさい」

「…………」

 ユエル様は半ば強引にわたしの手を掴み、その手をご自身の首に当てた。「飲みなさい」と言われ、わたしは小さく頷いて、軽く目を伏せた。

 生気が、ユエル様の首からわたしの手へ流れ込んでくる。目には見えない「生気」がどくどくと波打つようにして体内を巡っていく。生気が体に満ちていく。

 ややあって、ユエル様はわたしの手を首から離した。今度は目を逸らさずに、ユエル様を見つめた。

「あ、あの、ありがとうございます、ユエル様」

 礼を言うと、ユエル様はやわらかい微笑を返してくれた。まだ少し心配げに眉をかるく寄せてはいたけれど。

 わたしは笑顔を返せず、また目を逸らして、顔を俯かせた。

 ユエル様はとても察しのよい方で、いつだってわたしの気持ちなんかお見通しだ。だから、わたしが抱えている「心配事」などとうに気づいて、それでもあえて気付かぬふりをしているのかもしれない。……ううん、どうだろう。もしかしたら本当に気付いてないのかもしれない。

 ユエル様の意思を読みとるのは、わたしにはまだまだ難しい。

 単刀直入に尋ねてしまえばいい。そう思うのに、心が挫けて、問いは声にならない。

 でも、……でも、やっぱりどうしても気になってしかたがない。

「あの、ユエル様」

「うん?」

 声をかけると、ユエル様は「なに、ミズカ?」とわたしを見つめ返してくれる。

 変わらぬ、その美しい貌と優しいまなざし。気後れしてしまうほどの美色。

「い、いえ、なんでも、ないです……」

 わたしはまた声を詰まらせ、問いを呑み込んでしまった。

 だけど、こんな気持ちのままではいられない。

 訊けないなら、直に確かめてみればいい。夜、ユエル様が帰ってくるのを待とうと、安易に思い立った。


 そうして、夜を迎えた。

 ユエル様は今夜もまたコテージを抜けだしていた。わたしが寝室に入ってから小一時間ほど経ってから、だと思う。

 わたしは寝たふりをしてしばらく時を過ごし、深夜一時を回ってから寝室を出た。

 今夜は少しだけ風がある。潮騒が聞こえる。荒れている、というほどでもないようだけど、時々大きな波が来ているようで、磯浜に打ち寄せる波音がここまで届いた。

 コテージのリビングで、常夜灯の仄かな明かりの下、木製の硬い椅子に腰かけて、まんじりともせず、わたしはユエル様の帰りを待っていた。三十分は経ったろうか。

 こんな浅ましい行為に及んだ自分が、情けなくてたまらない。

 ユエル様がいつどこで何をしていようとも、わたしにはそれを問う権利なんてないのに。ましてやこんな風に帰りを待ち構えるなんて。

 どうしよう。やっぱり部屋へ戻ろうか。ユエル様が何も話してくれない以上、知らぬふりを続けているべきなのかもしれない。

 この期に及んで、まだぐずぐずと、どうすべきなのか決めかねて逡巡し、テーブルに置かれた小さなアナログ時計や外の闇を映すばかりの藍色の窓、膝の上で緩く握られた自分のこぶし、それらを何度となく見やっては、空しいため息をこぼしていた。

 鬱々と思案を巡らせていたわたしの顔をあげさせたのは、玄関ドアの開く音だった。ゆっくりと開けられ、そして閉められた。忍ばせた足音がこちらに近づいてくる。わたしはほとんど無意識のうちに立ち上がり、身を硬くした。

「――ミズカ」

 すぐに、ユエル様はリビングで突っ立っているわたしを見つけた。戸惑いがちな声を発し、さすがにバツの悪そうな顔をした。

 ユエル様が明かりを点ける。そして再び、ユエル様はわたしの方に向き直った。

「ミズカ、こんな時間にいったい何を」

「…………」

 ユエル様と目が合った瞬間、鼓動が跳ねた。

 深緑色の双眸が、ひどく艶めかしく、妖しい光を孕ませている。蠱惑的なのはまなざしだけじゃない。漂ってくる華やかで甘い香りが、わたしの息を詰まらせた。

 ユエル様が近づいてくる。その度に香りが濃厚になって、鼻につく。

 わたしは堪らず後ずさった。

 ――ユエル様の香り《コロン》じゃない。

 ユエル様が身体に絡ませているそれは、知らない匂いだ。

 そう……それは、見知らぬ女性だれかの残り香。

 今まで、どこで何をしていたのか問うまでもない。むせかえる甘い香りが「答え」だ。

 居たたまれず、わたしはユエル様から顔を背け、踵を返した。

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