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Ataraxia 1

 陽射しが眩しい、というより痛いと言いたくなるほどの、夏。

 梅雨も明けて夏も本番を迎え、連日の暑さにいささかうんざりした様子のユエル様が、ある日、唐突に提案した。手元には旅行雑誌ある。それを読んで思いついたらしい。

「たまには海に行ってみようか、ミズカ」

 この時期、避暑のために赴く先はいつも高原だったから、海へ行くという提案は意外だった。

 ユエル様は億劫そうに前髪をかきあげる。長い銀髪はひとつに束ねてある。わたしが、暑いでしょうからと、ゆるい三つ編みに結わえた。それが少しほどけかかっていた。

「海、ですか?」

 確認すると、ユエル様は微笑んで頷いた。

「そう。せっかくだから人の少なそうな離島へ行って、そこで一夏過ごすのもいいだろう。南の海は景観もいい」

「はぁ……」

「手配は、私がしよう」

 その後、ユエル様はどんな手段をつかったものか、急な思いつきだったにも関わらず、三日とかからず旅行の手配を済ませてしまった。相変わらずの手際の良さだ。

 直接旅の手配などをしたのはユエル様ではなく、ユエル様の“術”にかかった人間ひとなのだろうけど。


 ともあれ、わたしはユエル様についていくだけ。ユエル様に従い、目的地へと向かった。

 飛行機に電車にバスに船。乗り継ぎに次ぐ乗り継ぎで、移動時間の長かったことに少なからず疲れてしまったけれど、辿り着いた先の海の美しさを目の当たりにして、たまった疲労なんて一瞬にして吹き飛んだ。

「わぁっ!」

 思わず感嘆の声が上がる。気分の高揚を抑えきれない。それほどの美しさだった。

 晴れ渡る青空、巨大な城のような雲、白波を光らせる透明な海、そして風に揺れる木々も多彩な花々も、何もかもが美しく鮮やかに輝いている。

 海を見るのは初めてではないけれど、こんなにも透明度の高いきれいな海を見るのは初めて!

 青……ううん、碧色というのかもしれない。ユエル様の瞳の色にも似ているけれど、それよりも青みを帯びている。それでいて“透明”な色を見せている。

 本当に、なんて神秘的で綺麗な海なんだろう……!

 凪いだ海面に白い波がキラキラと光って風の模様を作っている。時々高めの波がきてゆったりとたゆたう模様が崩れても、また元に戻って美しい波紋を海面に作る。その海面を映したような青空に潮風と鳥の鳴き声が響き渡って、陽射しはきつくて暑いのに、とっても爽快な気分だ。

 ユエル様が選んだ南海の小島は、住民も少なく、リゾート地化もさほど積極ではなくて、閑静な所だった。といっても観光客がいないわけではないから、海水浴場ビーチはそれなりに賑わっている。

「人が全くいないような所では困るからね」

 ユエル様はそう言って苦笑した。わたしも曖昧に笑んで返す。何故困るのかなんて、今さら訊いたりはしない。

 わたし達は、人間の生気なくしては“生きて”いられない人外的存在の、吸血鬼だから。


 そういった理由もあって、わたし達の宿泊先はビーチから程近い所にあるコテージとなった。

 借りたコテージは一階建てで和風造りの家。多少古びた感はあるけれどきちんと掃除はされていて、清潔なコテージだった。手狭だけれど庭もある。

「あの……ありがとうございます、ユエル様」

「うん?」

 横にいるユエル様に、わたしは改めてお礼を言った。ユエル様が買ってくださったつばのひろい麦わら帽子をぬぎ、それを胸に押し抱いた。

 ユエル様は麻素材のオリーブ色のシャツと黒のジーンズというラフな格好をしているのだけど、ラフに開け過ぎの胸元を……ちょっと隠してほしいような……。目のやり場に困ってしまう。

 それはともかく!

「こんな素敵な所に連れてきていただいて……すごく嬉しいです、ユエル様」

「喜んでもらえたならよかったよ、ミズカ。南方の海に来るのは、私もずいぶんと久しい。ここまで来たのだから、大いに遊んで大いに寛ぐことにしよう」

「はいっ」

 わたしは大きく頷いた。

「ああ、そうそう、ミズカ。ひとつ……いや、ふたつほど注意事項がある」

「はい」

 笑顔を真顔にかえて、ユエル様がわたしを見ながら言った。わたしも顔を引き締める。

「夏のリゾート地……とくに海は、誰しも開放的になりやすい。不届きな連中も増えるから、決して軽率な輩の誘いにはのらないように。ミズカは慎重な性質だから大丈夫だとは思うが……」

 ユエル様はいつにもまして気がかりな様子でわたしを見つめてくる。「一人で、あまり遠くまで行かないように」と言い重ね、さらに「防犯ブザーを用意しておくべきだったかな」とひとりごちた。

「大丈夫です、ユエル様。わたし、もう子供じゃありません。そりゃぁ大人とは言い難いですけど……ともあれ、ちゃんと気をつけますから」

「……そうだね、たしかにもう子供ではないね」

 ユエル様は眉をさげて苦っぽく微笑み、短く息を吐いた。

 ユエル様の緑の瞳に、少しだけ影がさしたようだった。

 ……なんだろう? ちょっと含みのある声に聞こえたけれど……?

 ユエル様から見たら、やっぱりわたしはまだまだお子様で、頼りなくて心配なんだろう。だけどそれをからかって笑ってる風には見えなくて、他に何か言いたげなように見えた。だけど、それが何かは……訊けなかった。

「それと最後にもう一つ。――人間と同じように、この時期、とくに陽射しの強い夏は普段より渇きやすくなるから、その点、気をつけて。少しでも渇きを覚えたら、すぐに私の元に来なさい。いいね、ミズカ?」

「……はい」

 こればかりは、心配ご無用と言いきれず、肩をすぼめて神妙に点頭した。

 うっかり渇ききって倒れかけたり立ち上がれなくなったりすることが今まで何度かあったから、ユエル様の心配は至極当然だ。気をつけなさいと、しばしば窘められてきた。

 眷族のわたしは、直接人間から生気を飲むことはできない。その点で、人間が近くにいようといまいと、関係ない。ユエル様の生気しか飲めないのだから。

 なのに、どうしてもユエル様に「生気を飲ませてください」と言いにくくて、つい我慢をしてしまう。結果、渇ききって倒れてしまう。

 ユエル様に心配かけたくないのに、いつもそうして心配と迷惑をかけてしまう……。

「ミズカ」

 しゅんとして顔を俯かせているわたしの頬に、ユエル様の手が添えられた。少しひんやりしているユエル様の手の感触がくすぐったい。

 目線をあげると、優しく細められた緑の瞳とぶつかった。

「熱中症予防だと思っていればいい。水分補給はこまめに。ね、ミズカ?」

「…………」

 吸血鬼たるわたし達は、はたして熱中症になったりするのだろうか。風邪はひかないというけれど……?

 そんな疑問が浮かんだけれど、ともあれそれを訊き返したりはせず、ユエル様の言いつけをきちんと守るよう約束した。

「ユエル様も気をつけてください。紫外線なんかには、とくに」

 ユエル様は暑い日差しの下にいても汗一つ額に浮かべず、涼しい顔をしている。口では「暑い」というけれど、体内に冷却装置が備わっているとしか思えないような様相だ。

 美白をほこるユエル様の肌が黒く焼けるとは思いにくい。

 だけど、シミひとつないユエル様の麗しい美顔を保つためにも、紫外線対策は必須です!

 わたしが意気込んでそう言うと、ユエル様は「留意しよう」と微笑んだ。


 大いに遊ぼう、とユエル様は言ってくれたのだけど、マリンスポーツに興じることはなかった。たとえば、ダイビングとかシュノーケリングとかジェットスキーとかパラセーリングとか……。

 ユエル様は「面倒だから」と言ったけれど、本当のところはわたしに気を使ってくださったのだと思う。一度たりともわたしを誘ってこなかったもの。「せっかく海に来たのに、泳がないの?」って。

 もとより、泳ぐつもりなんてなかった。誘われても断るつもりでいた。

 できれば背中を晒したくない。背中にある蚯蚓腫れは、見て気持ちのいいものじゃない。隠していた方がいいに決まってるもの。

 そう思って臆してるわたしの心中を、ユエル様は察してくださったのだろう。ユエル様はわたしの背にある傷のこと、口には出さないけれど、おそらく知っているから。

 その代わり、観光名所の展望台や鍾乳洞などには連れていってくれた。グラスボトムボートという遊覧船にも乗って、サンゴ礁や南海の熱帯魚観賞も楽しんだ。

 エメラルド色の海は筆舌に尽くしがたいほど美しくて、何度となく感嘆の声が漏れた。

 そして、美しいといえば、卓抜した美貌の持ち主、異国人のユエル様も女性達に遠巻きに「観賞」され、ざわめきを呼んでいた。ただ立っているだけ、歩いているだけでもユエル様は目立つ。どこにいてもそうだけど、とくに南海の島では異様に映るのかもしれない。透けるような白磁の肌に氷を梳いたような銀の髪。南の海には似つかわしくないといっていい、儚げな麗容だから。

 ユエル様といえば、別段気にも留めず、常と変らず超然としていた。


 海を「観賞」するのがメインのレジャーとなり、やっぱりちょっと申し訳ない気分になってユエル様に尋ねてみた。南の島に来てマリンスポーツの一つもしないのは勿体なくないですかと。

「マリンスポーツに興じる吸血鬼というのは、なんとも様にならないね」

 ユエル様は苦っぽく笑い、そしてさり気なく言い添えた。

「が、しかし、嫌いという程でもないし、泳げないわけでもないよ」

 その口調が、空威張りをしているようで、なんだか可笑しかった。わたしの忍び笑いに気づき、ユエル様は少々決まりの悪そうな顔をした。

 ユエル様はアウトドア派というよりインドア派で、賑やかな場所よりも閑静な場所を好まれる。スポーツ自体を嫌われているようではないけど、自分から進んで参加したりはせず、「面倒だ」だというのも本心からの言葉だったんだろう。だから、あまり気に病まないことにした。

 海水浴はせずとも、早朝のビーチ散策だけでも十分に楽しめた。ユエル様は朝が弱くてなかなか起きてくださらないから、一人で出かける。

 小一時間ほどの散策は、歩くコースもだいたい決まってた。

 ゆったりと砂浜を歩き、波打ち際まで行って素足を海水に浸し、水を蹴ったり、貝殻を拾ったりした。早々と海水浴にやってきた親子連れに声をかけられ、そのまま少しの間話しこんだりした日もあった。

 散歩の帰りに、小さな市場へ寄るのも楽しみの一つ。

 嬉しいことに果物専門の店があって、その店には必ず立ち寄った。店主さんからフレッシュジュースのレシピをいくつか教えていただいたから、朝晩、新鮮なジュースで喉を潤している。

 わたし達は固形物を食べられないけれど、液体は体内に入れられる。だから果物も野菜もミキサーにかけてジュースにしてしまえば問題ない。

 南国の味覚を堪能すべく、様々なフレッシュジュース作りにいそしんだ。

「ミズカは凝り性だね」

 ユエル様はそう言って笑う。

 ユエル様は、甘ったるいフルーツジュースはあまりお好みでないようだったけど、さらっとした口当たりのジュースなら飲めるみたい。柑橘系がお好みのよう。

 たしかフルーツに含まれるビタミンC……あと、ビタミンEとAも紫外線対策に良いはず。美白効果を高めると本で読んだような。

 固形物を受け付けない「吸血鬼」が、はたしてビタミンを体内に吸収できるのかは謎なのだけど。

 ユエル様の美白を保つためにも、わたしは毎朝毎晩ミキサーをフル稼働させ、ユエル様の前にフレッシュジュース……時にはお酒で割ったものを出していた。

 ユエル様はわたしの作るジュースをテイスティングしてくれ、批評も添えてくれた。おおよそは、美味しいと言って飲み干してくださる。ことに、アルコールで割ったものは。

 そんなある日のこと。

 わたしの作ったレモンライムの炭酸ジュースを飲んだ後、ユエル様は「そういえば」と席を立つやそのまま別室へ行き、すぐに紙袋を携えて戻ってきて、言った。「南国独特の酒を何本か買っておいた」、と。

「軽い果実酒もあるし地ビールもあるが、……やはりこれははずせまい。強烈だが、なかなか美味いよ」

 そう言ってユエル様はテーブルに酒瓶を置いた。長方形型の緑色のガラス瓶。その中身には液体だけでなく固形物も入っていた。それは、長くとぐろを巻いている……――

「……っ!」

 あまりのことに仰天して声も出ない。

 何のお酒か問う必要もない。一目瞭然、ラベルにも書いてある「ハブ酒」だ!

 目を見開いて……できれば直視したくないのに、何故だかそれを凝視してしまう。話には聞いたことがあるけれど、実物を見たのは初めてだ。

「水割りやロックもいいが、ジンかラムで割るのがいい。――ミズカも飲んでみる?」

 にこにこ微笑みながらユエル様は瓶を持ちあげる。

「……」

 わたしは首を左右に振ることもできない。

 だって蛇っ! 蛇、苦手なのにっ! その蛇が瓶詰にされてて、そのうえ口が開いてて、ものすっごくグロテスク!

 ハブ酒は伝統あるお酒だって知ってるけど、でも……っ!

「……っ」

 わたしはすかさず踵を返し、脱兎のごとくこの場から逃げ出した。「ミズカ」と、ユエル様の呼び声にも振り返らず。

 

 そしてこの日一日、ユエル様とは口をきかずに過ごした。


 ユエル様は何度となく謝ってきた。困りきった顔をして、「悪かった」って。「機嫌なおして」って。

 だけど、ユエル様から顔を背けて、緘口を徹した。


 もうっ! 今回ばかりはすんなり折れてあげませんからね、ユエル様!

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