New Year's Day 2
「そうか、大晦日だったね、今夜は。――ミズカ」
ふっと息をついてから、ユエル様はやおら立ち上がった。
「ミズカ、出かける支度をしなさい。温かくして。今夜はとくに冷える」
「え?」
「せっかくだから、除夜の鐘でも聞きに行こうか」
「え、でも」
ユエル様は典雅な仕草で、わたしに手を差し伸べた。
「たまには正月らしいことをしてみるのも悪くない。初詣、というか、そうたしか……二年参りと言うんだったかな?」
ユエル様は強引にわたしの手をとると、引き寄せるようにして立ち上がらせた。
「ともあれ、出かけよう。近くにわりあい大きな寺があったね。そこで除夜の鐘を鳴らすだろうから、そこへ」
「でも、ユエル様」
立ち上がったわたしは、おそるおそる、ユエル様の表情を窺った。
ユエル様は優しげな微笑を湛えている。
「いいんですか?」
わたしが遠慮して訊くと、ユエル様はわたしの手を握ったまま、ちょっと腰を低めてわたしの顔を見つめ返してきた。
「ミズカさえ良ければ。たまにはこんな風に出かけるのもいい」
「…………はい」
良くないはずなんて、ないです、ユエル様。
わたしは素直にこくりと頷いて、それから大急ぎで身支度を整えた。
小高い丘の上にある寺院。そこは古い歴史のある由緒ある寺院らしかった。観光名所というわけでもなくて、田舎町のこぢんまりとした寺社だ。屋台がずらりと並んでいるということはなくて、いかにもお祭りといった雰囲気はなかった。それでもやはり大晦日らしく、石灯籠の全てに火が入り、焚き火もたかれて、本堂の前は地元の人達が集って賑わっていた。社務所横のテントでは甘酒やお汁粉が無料で配られていた。
わたしとユエル様が着いた頃には除夜の鐘を打ち鳴らす準備は始められ、鐘楼の前には、一突きしようという人達で行列ができていた。
「ミズカは突かなくていいの?」
と訊いてきたユエル様に、わたしは頷いて答えた。
だって、鐘を突くどころじゃないですから、わたし!
ユエル様は平然としているけれど、わたしは身を縮こまらせていた。寒いからというのではなく、周囲からの視線がチクチクと痛くて。
迂闊だった。うっかりしてた。ユエル様の輝かんばかりの美貌は、夜闇ごときでは隠せないってこと!
皆が……ことに女性達は目を瞠り、驚嘆したように振り返る。長い銀の髪の、白皙の美青年を。真っ向から凝視する人は少ないのだけど、ユエル様が通り過ぎた後に、声をひそめて何事かをささやいている。度肝を抜かれたように唖然としている人もいた。
ユエル様はとにかく目立つ。夜だからなおさらに銀の髪が人目を惹く。それにすらりとした長身で、黒いカシミアのロングコートに身を包み、悠然と闊歩する様は、まるで映画のワンシーンのように印象的だ。
オレンジ色の火灯かりだけでは、その秀麗な顔立ちははっきりとみえないだろう。それでも卓抜した美貌というのは隠せないようだ。
帽子でもかぶせて……覆面もさせればよかったかしら。……ううん、覆面じゃかえって目立っちゃうな。
などと、くだらぬことを頭の中で悶々と考えていたら、ユエル様がいきなりわたしの肩を掴んだ。
「ミズカ?」
「はっ、はいぃ?」
肩を掴まれた、というか、肩を抱かれている状態のうえにさらに、顔を覗き込まれ、わたしはそれはもう、心臓が口から飛びだしそうなくらいに驚いた。
「ミズカ、寒い? 寒くて辛いようなら、もう戻ろうか?」
心配げに訊かれ、わたしは慌てて首を横に振った。
「大丈夫です、あの、えっと、さ、寒いっていうか……っ」
頬と鼻の頭が痛い。きっと赤くなってる。
ユエル様の顔が……顔が、近いです……っ! というか、肩! 肩を抱かれているせいで、顔どころか、体が密着してるんですけども!
ユエル様はわたしの緊張の理由を知っているのか知らずにいるのか、やわらかな微笑を口元ににじませている。何か言いたげな口元や目元には、少し悪戯っぽい色がのっている気がする。
「……ああ、もう始まるね」
ユエル様が言い終えるとすぐに、鐘が鳴った。ゴォォン、と重々しく響いた。
除夜の鐘は、百と八回鳴らすのが常。だけど行列の人数はせいぜい二十人くらいだから、のこりは住職さんか他のお坊さんが鳴らすのかもしれない。
わたしは身を縮こまらせながらもそろりと顔を上げた。
はぁ、と息をつくと、白いもやが風に流された。
ああ、わたしの息も、それなりに温かいんだなぁ。そんなことをふと思い、やはり白い息をついているユエル様をちらりと仰ぎ見た。一瞬ユエル様と目があってしまい、わたしは慌ててその目を打ち鳴らされている鐘へと向けた。
老若男女、いろんな人がつくから、鐘は一定の音をたてて響くことはない。けれどそれがかえって除夜の鐘らしく聴こえ、神妙な気持ちになった。
今こうしてドキドキ落ち着かない気分でいるのも、もしかして「煩悩」なんだろうか。だとしたら、鐘の音とともに、遠くに追いやってほしい。
苦しいのに、苦しくないなんて。
わたしは無意識に、胸の前で両手を組んでいた。手袋をしてくるのを忘れてしまったせいで、すっかり冷たくなっている。
ほんのちょっと、震えていたのかもしれない。不意に、わたしの手の上に、ユエル様の手が乗せられた。
「……ミズカ」
ユエル様の手も同じように外気に晒されて冷えていた。
「ミズカの手、こんなに冷たくなって。そういえばミズカは寒さに弱かったね」
「え、あの……、ユ、ユエル様……っ!?」
ユエル様の行動は速かった。わたしの体を少し離したかと思うと、すぐに肩を抱き寄せて、コートの中に入れ込んでしまった。いつの間にかわたしはユエル様のコートに包まれ、肩を抱かれていた。
え、え、いったい、この体勢は、何事……っ!?
「あ、あの、ちょっ……ユエ……ル様っ」
「うん?」
「あの、こ、これは……」
「だってミズカ、寒そうだから。こうしていれば私も温かいしね」
「…………っ」
や、あのっ、待ってください、ユエル様! 耳ともでささやくのはダメです!
全身に鳥肌が立ちましたけど! 寒さなんかでなく、ユエル様の声のせいで!
「わ、わたし、湯たんぽじゃないんです、けどっ」
「うん、知ってる。ミズカは、ミズカだ。ああ、だけど、その湯たんぽというのは、使ったことはないけれど、温かいものなのかな?」
「それは、温かいですけど……。でも使うのはもっぱら寝る時で、お布団の中に入れておくものですから」
「そう。それじゃぁこれからは使ってみようかな」
「え、ユエル様がですか? や、それは、そのっ、玄米茶と同じくらいに似合わないというか! できればやめておいてほしいんですけどっ」
「そう? ミズカがそう言うのなら。じゃぁ代わりにミズカが布団に入っててくれれば――」
「ちょ、やっ、やめてください、ユエル様! 冗談にも程がっ!」
「冗談ではないんだが」
ユエル様はくすくす愉しげに笑っている。コートに包まれ、あまつさえ肩を抱き寄せられているこの状況では、ユエル様の顔は見えにくい。でも、見えなくてよかった。今はユエル様の顔を、とてもじゃないけどまともに見られないもの。
それに人目もすごく気になる! こうしてユエル様のコートの中にいるから、わたし自身は人の視線からは隠されているけど、でもきっとじろじろ見られてるいるに違いないもの。
恥ずかしくて倒れそう……!
ううん、それよりこの状況そのものに心臓が持たない。
どうしようとわたしが一人で泡を食ってる間に、除夜の鐘は何度か打ち鳴らされ、時も経っていた。
やがて、本殿から午前零時を報せる太鼓が轟くように鳴り、周囲の人達から「あけましておめでとう」の声があがった。
「年が明けたようだね」
「はっ、はいっ、そのようですねっ」
ユエル様の手が、わたしの額にあてがわれた。え? と思った次の瞬間……――
「Happy new year、ミズカ」
ユエル様はわたしの前髪を除けて、何気ない仕草で、軽く口づけた。
「ユ、ユッ、ユエル……さっ」
「君に、幸多かれ」
優しく深い緑色の瞳が、わたしの瞳を釘付けにする。
「ミズカ、今年もよろしく」
「あ、あの……っ」
ユエル様にはなんの照れもない。さらりと言って、艶然と微笑んでみせる。
わたしは真っ赤になって硬直し、声も出ない。口から心臓が飛び出そう……!
頬や鼻だけじゃない。ユエル様の唇が触れた額も、熱くてたまらない。
ユエル様はわたしを宥めるように、よしよしと頭を撫でてくれた。冷たい手が、心地好かった。
「う、あ、あの……ユエル様」
「ん?」
ユエル様の顔は相変わらず近い。わたし以外の誰も、その目に入れていないようだ。ちょっとは周囲の目も気にしてほしいなんて思って焦るわたしを、じっと見つめている。
わたしも、ちゃんと挨拶をしなくちゃ。
「……あの、あ、明けましておめでとうございます、ユエル様。わたしこそ、その……よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げ、その拍子にユエル様の胸元に額をぶつけてしまった。
ううっ、なんて間抜けなんだろう。
ユエル様はそんなわたしを笑うでもなく、ただ少し肩を抱く手に力を入れた。そして甘やかな声でささやいた。
「ありがとう、ミズカ」
ユエル様はわたしを寒風から守るようにして抱き、しばらくの間そうしてじっと佇んでいた。
わたしとユエル様は、互いに暖をとりあいながら、晴れた夜空に遠く響く除夜の鐘を聞いていた。
――祈りを託すように。そして、ささやかな幸を願いながら。