New Year's Day 1
夜も更けようとしている。今日はとくに寒さが厳しい。
雨や雪の心配はなさそうな空模様だけど、かなりの低温だ。
閉めたカーテンの向こう側、そこにももう濃紺色の帳が降りている。けれどいつもと違った賑わいが帳を揺らしているようだった。夜風に乗って様々な音が聴こえてくる。
硝子越しにも伝わってくる雑然とした音に当てられたのか、わたしは少し落ち着かない心持ちでいる。この時期は毎年そうだ。
だけど、わたしのお仕えしている方は、まったく変わらぬ様子でいる。
長い銀の髪を無造作に結わえている白皙の美青年、そして吸血鬼という人外の存在であるユエル様は、リビングルームの窓際、黒い皮張りの一人掛けソファーにゆったりと座り、弦楽のセレナーデを聴きつつ文庫本を読んでいる。飲み物を所望され、アップルティーを用意したのはつい先刻のこと。
キッチンの掃除をあらかた終えたわたしは、自分の分のお茶を淹れ、それを飲んで一息ついてからまたユエル様がテーブルの上に何冊も重ねて置いていた本を片付け始めた。その中に一冊、懐かしい冊子を見つけ、ついつい開いて、見入ってしまった。
「……年号って、面倒ですね」
ぽつりとわたしがこぼすと、ユエル様はわずかに身を起し、それから文庫本を閉じてこちらに目を向けた。
「面倒? 珍しいね、ミズカがそんな風に言うのは」
くすりと、ユエル様は小さく笑った。その微笑の端麗なことといったら、豪奢な花びらを幾重も重ねている大輪の芍薬のようで、魅入ってしまうと同時に、思わず身を竦ませてしまうほどの威力がある。頭の芯がくらくらして、頬が熱くなる。
「珍しい、ですか?」
「ミズカはよく私に言うだろう? 面倒くさがらず、あれやこれをしてくださいって」
「だっ、だってそれは、ユエル様が濡れた髪を拭くのが面倒だとか、起きて着替えるのが億劫だとか言うからじゃないですか」
「まぁ、そうは言いつつも、ミズカは私の面倒を見てくれているのだから、文句などつけるつもりはないよ。着替えも手伝ってもらえたらさらに嬉しいのだけどね」
「そんなの、できるわけないじゃないですか! それくらいはご自分でなさってくださいっ!」
「わかってる。ミズカにそこまでさせるつもりはないよ。もう十分、世話をかけているからね」
「……あの、わたし……別に嫌とかそんなのでは……」
「うん、それもわかってる。だから、これからもよろしく頼むよ、ミズカ」
そう言って、ユエル様は小首を傾げ、優麗な微笑みを浮かべた。
「……はい」
ユエル様の卓絶した美貌には、どれだけ経っても見慣れない。微笑みかけられる度心臓が早鐘を打って、頭の芯が熱くなる。だけどユエル様の深緑色のまなざしは優しくて、そのまなざしを向けられていることに、安堵感をも得ていた。
――いつまでもこうしてユエル様の瞳に映っていたい。
こうして間近にいて、ユエル様の美しい微笑みを見ていたい……。
「ところでミズカ、何が面倒だって?」
「えっ、あ、いえ……その……たいしたことじゃないんです。ふっと思ったんですけど、日本の年号って面倒っていうか、ややこしいなぁと」
わたしが開いている冊子は、『日本史年表』。以前、短い期間だったけど、高校に潜り込んだ時に使用した教材だ。いくつかの教科書は、捨てるのが惜しくて手元に置いたまま。何度も読み返すようなものではないけれど、通っていた学校のことを思いだすと、やっぱり捨てがたい。
今日は丸一日、仮住まいにしているマンションの部屋の掃除をしていた。滞在期間は一年にも満たないから、さほど汚れはない。それに持ち込んでいる荷物も少なく、掃除といっても、そんなに労力はかからなかった。ただ、存外骨が折れたのは、本棚の整理だった。
山積みになって整頓されていない、おそらくはそれほど必要とも思われない本を処分すべく段ボールにまとめていたのだけど、読書家のユエル様は本を処分(大抵は古本屋などに持っていく)するのを惜しく思うようで、わたしの目を盗んでは手元に置いて、段ボール入りを阻止してきた。物欲がないといっても過言ではないユエル様だけど、読書好きだからか、ドイツワインをせっせと買い込んでくるのと同時に、大量の書物を買い込んでくる。
もちろんわたしだって読書は嫌いじゃないから、本全部を処分しようとしているわけじゃない。貴重な本やユエル様の気に入りの本などは、別場所に保管し、引っ越すたびに持って行く。つまり、ほとんどの本は引っ越し先にも持って行くことになる。
使いようがあってもなくても、捨てられない物というのは、どうしてもある。書物関連は特にそうだ。
わたしが今開いている『日本史年表』も、やっぱり捨てられない物の一つだ。ユエル様が避けておいてくれなくても、手元に残しておくつもりだった。
「たしかに日本の年号というのは、ミズカが言うようにややこしい。明治の五年だったかな、今まで用いてきた陰暦を廃して、グレゴリオ暦……つまり太陽暦に変更しているしね。西暦と照らし合わせて憶えようとすると、これもまた面倒極まりない」
ユエル様は磁器製の白いカップの持ち手に指を入れ、けれどすぐに引き抜いた。カップの中身が空になっているのに気づき、わたしは慌てて立ち上がり、キッチンに向かった。
こういう時、手狭だけど、対面式のキッチンのあるリビングルームは便利だ。お湯を沸かしながらでも、会話を続けられる。
「ユエル様、さっきと同じ紅茶でいいですか?」
「いや、ミズカと同じものをもらおうか」
「え、と、……はい、分かりました」
だめです、そんなのは。と言いたかった。
だってわたしが飲んでいるものって、玄米茶なんだもの。
ユエル様が玄米茶って、どうしてもこう……イメージに合わない。
わたしが淹れるものを、ユエル様は好き嫌いなく何でも飲んでくれる。それこそ麦茶や番茶、ほうじ茶っていう庶民的な飲み物でも。
でもユエル様に似合っているのはやっぱり香り高い紅茶や、地獄のごとくに熱く黒いコーヒー、そして火の点くほどに強いお酒だと思う。あくまでもわたしの得手勝手なイメージなんだけど。
ともあれ、拒否するわけにもいかず、ユエル様のリクエストに応え、玄米茶を用意した。ユエル様に出す湯呑みは、青磁の湯呑み。とろりとした緑色は、ユエル様の双眸よりは淡い色をしている。そこから苦味の薄い、あっさりとした香りの湯気があがる。ユエル様が玄米茶を「啜る」、というのはどうにも不可思議な光景だ。ユエル様は、音もなく静かにお茶を飲む。
わたしは自分の湯呑みにも、とりあえず注ぎいれておいた。
「江戸時代だけでも、ものすごい数の年号がありますよね? もうほんと、憶えきれないくらいで……」
わたしはユエル様に促され、ふかふかの白いカーペットの敷かれている床に腰をおろした。
「たしかに江戸時代だけでもたくさんある。慶長から始まって……慶応で終わっていたかな?」
「そうです。ユエル様すごいですね、憶えてるんですか?」
年表とユエル様とを見比べ、わたしは素直に感嘆の声をあげた。ユエル様はちょっと小首をかしげ、微笑した。
「いや、全部を憶えているわけではないよ。それでもおおよそは記憶しているけどね」
ユエル様の記憶力がいかに優れているか、それはとうに知っている。雑学的な知識も豊富で、その上、時代に適合することの早さにも舌を巻いていた。
ユエル様は、いわば人外の存在で、人間とは存在の在り様が違う。不老で、寿命も長い。それに魔法とも超能力ともいえる、不思議な“力”を持っている。記憶力が優れているのも、そうした特別な力の一つなのかな。ユエル様は否定するかもしれないけれど。
かくいうわたしも、ユエル様の眷族で、やはり人外的な存在だ。だけどユエル様に寄生してしか生きられず、特別な力は何一つ持っていない。
それに、言うまでもなく、ユエル様のような麗しい容貌でもない。ごくごく平凡な顔立ちだ。髪の毛だって、まとまりのないくせっ毛で、そのせいで長く伸ばせないでいる。ユエル様はわたしのことを「栗鼠みたいだ」、なんて笑って言う。身長も低く、ちょこまかと動き回るからそう見えるのかもしれない。
栗鼠っぽいらしいわたしは、どんぐりの代わりに玄米茶を口に含み、喉に流し込んだ。
年号の一覧表を眺めているうちに、わたしの口からは無意識にため息がこぼれていた。目に入ってくる年号で、馴染みのあるのは近代のもの。とくに『明治』は、わたしにとってある種の懐かしみを覚える年号だ。
でも、実のところ、わたしは明治の何年何月に生まれたのか、そして何年の何月にユエル様に出会ったのか、憶えていない。
年号なんて、当時のわたしには関わりのないものだったから。
だけどせめて、ユエル様と出会った日だけも憶えていればよかったと思う。
一度だけ、ユエル様に訊いたことがある。あれは、明治の何年だったのでしょうかって。ユエル様は記憶力の優れた方だから、絶対覚えていると思う。なのに、
「さぁ、いつだったかな。私も、年号など特に気にしない性質だからね、忘れてしまったな」
そうはぐらかされてしまった。年号など憶えておく必要はない、四季が分かっていればそれでいいなんて、鷹揚に笑って。
ユエル様は、あまり過去を振り返らない方だ。たぶんそれは、……わたしを気遣ってくれてのこと、なんじゃないかと思う。違うかもしれないけれど、そんな風に感じる。
わたしがユエル様の眷族になってから果たして何年が経ったのだろう。それを計算させないため、なんじゃないかな。
年老いることもなく、若い娘の姿のまま、普通の人間の寿命を越えて、生きている。
いったい、何年? 何年生き続けているのだろう?
それを自覚するのは、そのまま人間ではない存在になったことを改めて実感することに繋がる。
――ユエル様は、優しい方だ。……だから、わたしにそんな風な実感を持たせ、気落ちさせたくないと思っているのかもしれない。
でも、ユエル様。
わたしは、人間ではなくなったことやユエル様のお傍に仕えていられる眷族になったことに驚いてこそいるけれど、決して嫌だとか、辛いとか、そんな風に思ったことはないんです。
新しい年を迎える、前夜の今も。何度新しい年を迎え、幾許の年月を越えてゆこうとも。
わたしとユエル様の住まいには、時計こそあるけれど、カレンダーというものがない。ユエル様がカレンダーを置くことを嫌ったから。わたしもカレンダーを壁に吊るそうなんて考えなかった。カレンダーは、人の社会に紛れこもうとする時……特に学校など……にだけ要るものだ。何月何日何曜日なんて、普段はあまり気に留めない。
だけど、拒絶しなくてもいいものとも、思っている。暦を数えるのは、辛いことばかりではない。楽しいことだってあるだろうし、何がしかのきっかけになることもある。そのきっかけ、というのは、新たな心構えにもなる。
「あの、ユエル様。……今夜は大晦日ですね」
わたしが言うと、ユエル様はほんの少しとまどったような顔をした。「ああ」と応えてから、ふとミニコンポに表示させれているデジタルの時計に目をやった。つられるように、わたしもそこに視線を流した。
「あと一時間もすれば、新年ですね」
何事もなく過ごした今日は、十二月三十一日。つまり、大晦日。
明日は元旦。新年を迎える。西暦何年になるのか、日本での年号は何年になるのか、干支が何になるのか、そんなことには頓着しない。
でも、やっぱり今夜は大晦日で、明日から新しい年が始まるのだ、という気分だけは高まっていた。
いかにも年末年始! といったムードはないけれど、地味ながらもお正月を迎える雰囲気を漂わせている町の彩りに、気分は少なからず高揚させられた。
なぜだろう。今までそんなことは、あまりなかった。今年の――今日は、とくに「今年最後の日」という気がする。
何かが終わり、始まる。そんな期待を、ユエル様の常盤木のように深い緑色をした瞳に、見出していた。