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優しい手はいつもより冷たくて

 もしかしたら、わたしは常に渇いていたのかもしれない。

 今にして、そう思う。

 生きている実感を得られたその時から、わたしは自分が“渇いて”いたことに気が付き、そして、求める心を制せられなくなってしまった。


 人外的な存在のわたし達にとって、人間の“生気”は水のようなものだ。飲まずに生きていくことはできない。

 わたしが、「吸血鬼の眷族」という人外的な存在になってすぐのことだったと思う。わたしの主人であるユエル様が教えてくれた。

「生気とは、生命を維持する力であり、生体エネルギーと言い換えてもいい」

 そして、時にそれは体内を流れる血として表現される、と。

 そしてわたし達は、人間の血ではなく、生体エネルギーだけを糧に生きている。


 体内に溜められている生気が少なくなっている時に感じる渇きは、喉が渇く感覚と似ているかもしれない。

 脱水症状って、こんな状態なんだろうか……? それとも、熱中症?

 目眩がして、ひどく気だるい。爪の先まで冷えきって痺れがくる。冷たいのに、心臓だけは熱く、血が沸騰しているみたいだ。

 夏の陽射しの強さに炙られて、蒸発してしまいそう。

 喉が、渇きのためにヒリヒリして痛い。……ううん、喉だけじゃない。

 体中が、渇きを癒すためのそれを求めて、悲鳴をあげているようだ。痛くて、苦しい。

 こんな状態に、今まで何度なったことだろう。

 渇きの兆候はちゃんとあるのに、わたしはいつだってその兆候を無視して、限界まできてしまう。そしてその度に窘められるのだ。

 わたしの渇きを癒してくれる、……わたしの「命」そのものとも言える、ユエル様に。


「ミズカ」

 立っていられず、壁に手をついて座り込んでいるわたしに、ユエル様が手を差し伸べて言った。心配そうな、けれど若干呆れ、怒ったような声音に引き上げられるように、わたしは肩を竦めて面を上げた。

「我慢強いのはミズカの良いところでもあるが、しすぎるのは体に毒だと言っているのに」

「すみません……」

 見上げたそこに、優しい緑色の光を双眸に宿した美貌がある。腰を屈めて、白い手を差し伸べてくれている。

 情けなくなって、ユエル様から目を逸らした。

 いったい、何度こうしてユエル様に窘められただろう。

 早く慣れなくちゃと思うのに……。どうしても気後れしてしまう。ユエル様のお手を煩わせてしまうのが心苦しくて、いつも言いだせない。

「飲ませてください」と、そのたった一言を。


 わたし達は人間の生気を吸い取ることにより、生存を維持している。

 水分……たとえばコーヒーや紅茶などといった飲料物を飲むことはできるのだけど、それらは体内で栄養に変わることなく消えてしまう……らしい。固形物は体が受け付けず食べられない。とはいえ、液体化させれば摂取できる食物は多い。例えば果物だったりチョコレートだったり。

「なかなか都合よくできているものだよ、私達の体は」

 ユエル様はそう言って、己が身をせせら笑った。

「体の構造がどういったものになっているのか調べつくしたことがないから分からないが、ともあれ、人間とは別種の存在であるには違いない。にもかかわらず、人間に酷似しているのだから、厄介だ」

 いっそ蝙蝠や蛭といった生物の形だったならばよかったのにね、とユエル様は愚痴めいたことをこぼした。

 ユエル様は時々、緑の瞳を憂いに曇らせて、「吸血鬼」というものの存在を嘲るように言うことがある。

「あいにく蝙蝠に変ずることはできないし、霧になることもできない。多少超常的な能力を行使することはできても、その力もさほど便利なものではない」

「でもユエル様、役に立ってることだって多いじゃないですか。今住んでるこのマンションを借りた時だって……」

「まぁ、そうでもしなければ住居を確保するのは難しいからね」

「ほら、やっぱり便利に使ってるじゃありませんか」

「それはミズカ、臨機応変に、というものだよ」

 ユエル様は深緑色の瞳を細めて、やわらかく微笑んだ。

 ユエル様の美麗すぎる微笑みは、わたしにも鼓動があることを教えてくれる。どきどきと落ち着かなく胸が高鳴りだして、息が止まってしまいそうになる。

 ユエル様が臨機応変に使いこなす超常的な能力、主に「幻惑術」は、吸血鬼のおおよそが大抵持っている能力であるらしい。人の心を読み暴き、さらに洗脳して操ったりすることができる。

「催眠術と言う方が近いかもしれないね」

 と、ユエル様は言う。ただその催眠術はわたしのような吸血鬼の眷族には効かない。人間にのみ行使できる「幻惑術」は、潜みながら存在していくために必要な渡世の術だとユエル様は述懐した。

「私達がこうして人間の形をとっているのも、ある種の擬態だ。人間から生気を奪うために、こうして人間のふりをし、真似をして、生きている」

 ユエル様は物憂げに長い銀の髪を指で梳きあげ、独り言のように言った。

 自嘲めいたことを言う時のユエル様は、どこか悲しそうで、儚げだ。口は微笑みの形を作っているのに、目は笑っていない。

 ――そう、今みたいに、わたしが渇ききって立っていられなくなり、生気を飲ませてくれようと手を差し出す時も、ユエル様は不意にそんな表情をする。

 贖罪を請うような、苦しげなまなざしを向けて、「飲みなさい」とわたしの手を掴む。その度にわたしは居たたまれない気分になって俯いてしまう。

 ユエル様は、わたしの手を手のひらの上に乗せるようにして握っている。そこへもう片方の手をそっと重ねた。


「夏は特に渇きやすくなるからね。渇きを覚えたのなら、早めに言いなさい」

「……はい」

 ユエル様は決して怒鳴りつけることはしない。穏やかな口調と表情で、委縮しきっているわたしの心を解きほぐすように諭し、確認をとる。

「ミズカは、直接人間から生気を飲むことができないから、その分注意しなければならないよ」

「はい」

 わたしはぎこちなく頷いた。

 ユエル様の手からわたしの手へと、生気が流れ込んでくる。手のひらは生気の流れのせいで焼けるように熱いのに、指先は冷えたままだ。

「まぁ、私が常にミズカの傍に居ればいいだけのことだが」

 ユエル様はふと小さくため息をつき、わたしの手を、少しだけ力を入れて握り直した。

「そんな……ユエル様にこれ以上の負担をかけるのは……」

 申し訳なくて、本当にもう顔があげられない。

 わたしはどうしてこうユエル様に面倒をかけてばかりなのだろう。ユエル様は根気よく待っていてくれるのに、いつまで経っても「飲む」ことに慣れなくて、結局こうやってユエル様に飲ませてもらっている。

 ユエル様の生気を飲むのに戸惑っている理由は、……自分でもよく分からない。

 正直なところ、怖さはある……と思う。でもその怖さの正体が分からない。人間とは違うものになってしまったことが怖いのではない。ましてや、ユエル様が怖いなんて…………。

 わたしはおそるおそる顔を上げ、わたしの手を握ったままのユエル様の様子を窺った。目が合うと、ユエル様は優麗な微笑みを浮かべて、わたしの落ち着かない心をさらに落ち着かなくなさせる。速まる心音がユエル様に聞こえてしまっている気がして、恥ずかしくて堪らない。

「あ、あの、ユエル様はっ」

「ん?」

 思わず、ひゅっと息を飲んだ。ユエル様の艶然とした微笑みは、本当に心臓に悪い。

 ユエル様の細くしなやかな髪が、さらりと肩から流れた。窓から射しこむ真昼の陽光を受け、銀の髪は細波のように煌めいている。なんて綺麗なんだろうと、いつも見惚れてしまう。見惚れるのは、もちろん髪だけではないのだけど。

「ユエル様は、あのっ、暑いのは平気なんですか?」

 わたしの唐突な質問に、ユエル様は少し驚いたような顔をした。いきなり何を訊いてくるのかと思えば……とでも言いたげに、口元に笑みが滲んでいた。

「平気とは言いきれないが、それほど苦手ではないよ。蒸し暑いのは苦手だけどね」

「…………」

 ユエル様が、暑さにさほど弱くないのかなと思ったのは、汗をかいているところをあまり見ないからだ。

 ユエル様が苦手だっていう蒸し暑い日でも、秀麗な顔から汗が流れ落ちてるところって、ほとんど見たことがない。額にうっすらと汗が浮き出ている程度だ。大汗をかいて暑がるユエル様って、想像もつかない。体内に冷却装置でも備わってるんじゃないかしら。いつだって涼しげな顔をして、美しい佇まいでいる。

 ユエル様の白磁の面は、硬質の微笑を貼り付けていることもあるけれど、わたしに向けてくれる微笑はたいてい穏やかで、優しい。そしてその優しさの中には、嫌味を感じさせない傲然さもあって、いたずらっ子みたいな気紛れさと爽快さがある。

「ただ、ミズカと同じように、やはり夏は渇きが早い。だから夏は、極力人の多い場所に住まいを構えなくてはならないから少し面倒だ。私のこの美貌では、人の中では目立ってしようがないからね」

「はぁ……」

 たしかに、それはユエル様の言う通りだ。ユエル様の長い銀の髪や緑の瞳は、異人だからという理由だけでなく、ひどく特徴的で(何しろ卓抜した美形なだけに)、人の記憶に鮮明に残ってしまいやすい。

「やはり、人間ではないことが知れ、あげく晒しものになるなど勘弁願いたいからね。生気を求めて人に紛れるのは夜のうちにして、あとは人目につかないよう、日中は引きこもっていようかな」

「だっ、だめですよ、引きこもりなんて! ただでさえユエル様は日中おもてに出ないことが多いのに! そのうちカビか根っこが生えてきちゃいますよ? 日本の夏は湿度が高いんですから」

「カビが生えるのは困るな」

 ユエル様は目元をやわらげて、可笑しげに笑った。

 いたずらっぽく笑うユエル様の容貌は、花も恥じらって花弁を閉じてしまうような匂やかな艶がある。そんな美妙な笑みを真正面から見てしまい、わたしはもう声を失って、硬直するばかりだ。

「ミズカ、もう立てるかな?」

 わたしの手を引き、ユエル様は腰を伸ばして立ちあがった。わたしはこくんと小さくうなずいて、ユエル様に促されるまま、ゆっくりと立ちあがった。

 大丈夫かと確認されて、わたしはもう一度同じように頷いた。

「ほんとにもう大丈夫ですから、あの、……手、を……」

 手を、離してください。

 そう言おうとしたのに、言えなかった。

 離してほしいというのは、本音じゃない。だけど、今のこの状態は……ひどく落ち着かない。ユエル様との距離が近すぎて、どんな顔をしていいのか分からなかった。

 暫時、ユエル様はわたしの手を握ったままでいた。わたしの葛藤を知ってか知らずか、ユエル様は握り返すこともないわたしの手を、程良い力加減で包み込むようにして、握っている。そうして頬を赤くしてるわたしの顔を覗き込み、

「来年の夏は、どこか高原へ避暑に行こうか。そこでのんびりと過ごすのも悪くないだろう?」

 そう言ってから、「タイムリミットが迫っているしね」と、ため息まじりにつぶやいた。

「タイム……?」

 わたしが小首をかしげると、ユエル様はにこりと意味ありげに微笑んだ。

「リミット。限界という意味だよ、ミズカ。さっきまでのミズカのような状態といえばいいかな」

「え……、あの、それって……もしかしてユエル様、今渇いてるってことなんですか? それじゃぁわたし、お返ししなくちゃ……っ」

「そうじゃないよ、ミズカ」

 焦るわたしを、ユエル様は静かな声で制した。

「大丈夫。そういう意味では渇いていないから。ただ……そうだな、喉は渇いているから、ミズカ、お茶を淹れてくれないかな。冷たいのを、……ね?」

「……あ、はい」

 なんだろう。何かごまかされた気がする。大切なことを隠されたような……?

 だけど、ユエル様の深意を察するなんてわたしには無理だ。

 わたしにできるのは、ユエル様のためにとっておきのお茶を淹れて差し上げることだけ。

「じゃぁ、早速用意しますね。――あ、あの、ユエル様」

 ここでようやくユエル様はわたしの手を離してくれた。わたしは離された手を胸に押し当て、もう片方の手で包み込んだ。

「飲ませてくださって、ありがとうございました」

 改めて礼を言い、わたしは軽く頭を下げた。



 差し伸べられたユエル様の手がいつもより冷たく感じられたのは、きっと、わたしの体温が上がっているからだ。

 だって今こんなにも、体が熱い。

 ユエル様が与えてくれた生気は体内を巡り、満たしてくれる。けれど、またすぐにわたしの体と心は渇きを訴えるのだ。

 ――ユエル様の優しい手を求めて。

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