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名前の知らない感情が、胸をしめつける

 春の宵、空に見えるは朧月。

 湿りを帯びた濃い大気が、夜空に膜を張っている。苦味を包み込む、半透明のオブラート。そのオブラートの向こう、上弦の月が淡くて白い光を放っていた。

 蜜のように甘い霞は、心を落ち着かせない。わたしの心にもうっすらと霞がかかっているようだった。

 そしてまた、記憶にもほのかな霞がかかっていた。


 ――あれは、いつのことだったろうか。


 ユエル様が言った。

「ミズカ、君は私の……ただ一人の眷族だ」

 深緑色の双眸は切なげに細められ、贖罪を請うようにわたしを見つめていた。

 わたしは訳も分からず、曖昧な相槌をうつばかりだった。


 ユエル様の正体――吸血鬼であることと、わたしがその吸血鬼の眷族になったということを説明されたのは、ユエル様から“生気”を与えられてから二日後のことだった。“生気”を体内に注ぎ込まれたわたしは、二日もの間、昏々と眠り続けていたらしい。仮死状態というのだろうか。その二日間で、肉体的な変化が起こり、かつ終了した。

 たったの二日間で、わたしは人間ではない存在になった。だけどその実感は薄かった。

 角や尻尾が生えるでもなく、外見的にはなんの変化もなかった。……ううん、内的な変化もなかった、と思う。だって、肉眼では見えないようなものが見えるようになったりとか、知識が増えて賢くなったりってこともなかったから。

 わたしは“わたし”のままだった。

 だけど、変わってしまったのは事実。わたしは以前のわたしとは違う、異種の存在になった。それは確かだった。

 だから変化を自覚しなくちゃいけないと、焦っていた。人間ではない存在になったことに戸惑ったというより、ユエル様の側近くに仕えることになるのだということに驚き、心底焦った。

 ユエル様はそんなわたしを笑った。意地悪く、ではなく、慕わしげに。

「気楽に構えていればいいよ、ミズカ。難しく考えることはないんだから」

 君はもう女中でもなければ召使でもないのだからね、と。

 そう言い含められても、「はい、分かりました」と頷けるはずもない。

 わたしは「そんなわけには参りません!」と、失礼を承知で言い返し、ユエル様の身の回りのお世話をさせていただくことを願い出た。

 ユエル様は苦笑し、

「では、ミズカの言葉に甘えるとしよう」

 そう言って許諾してくれた。


 それからユエル様は、わたしが分かるように易しい言葉で、ユエル様自身のことやわたし自身のことを説明してくれた。多くは語らなかった。説明不足だと感じることもあったくらいだ。

 けれど、今にして思えば、必要最低限のことだけを説明してくれたのは、ユエル様なりの気遣いだったんだろう。いろいろ説明されたところで、わたしの頭がパンクしてしまうのは想像に易いもの。

 吸血鬼という存在、それについての説明だって、ユエル様はずいぶんと困ったんじゃないかな。

 わたしはぽかんと間抜けた顔をし、「はぁ、そうですか」と納得しているのかどうなのかわからないような返答しかできなかった。現状を理解するに至るには、かなりの時間を要した。

 当時のわたしは知識も教養も何もない、簡単な語彙を読み書きできる程度の無学な身だったから。

 ユエル様はそんなわたしを馬鹿にしたりはしなかった。けれどやはり知識は必要だろうと思ったのだろう。ユエル様は無学なわたしに教養を与えるべく、自らが師となって、わたしを教育してくれた。

 国語、算術、地理や歴史、音楽や礼儀作法、その他諸々。実に多くのことをユエル様から学ばせてもらった。

「ミズカは飲み込みが早いから、教え甲斐があるよ」

「そう言っていただけるのは嬉しいですけど、でも飲み込みは全然早くないと思います。自分でも覚えが悪いって分かってるんです。ユエル様が根気よく教えてくださるからなんとか身についているんです」

 ユエル様は時代に応じた一般常識をも、教えてくれる。きっとそれは、“学校”では教えてくれない類のことなんだろう。それらを、たとえ話に絡め、時には冗談を交えて教えてくれるから、すんなりと脳内に入ってくる。

「それにしてもユエル様、本当にいろんなことをご存知なんですね。いったいどうやって情報を集めてるんですか?」

 わたしが感心しきってそう言うと、ユエル様は別段鼻高々といった様子は見せず、ちょっと悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「それは、ヒミツ」

「秘密って……何か、その……いけないことでもしてるんですか?」

「さぁ。どうかな」

「どうかなって、ユエル様!」

 わたしが頬を上気させると、ユエル様は口元に手をやって笑いを隠している。隠しているといったって、ちっとも隠しきれていないのだけど。

「ミズカは心配性だね」

「それは……ユエル様が心配させるようなことを言うからです」

 言ってから、わたしはしまったとばかりに口の端をきゅっとしめて、俯いた。

 どうしよう。言い返すなんて生意気なことしちゃって。

 仕える主人に対して口答えなんて、無礼にも程がある。弁えなくちゃって自分を律しているのに、失敗してばかりだ。

 矢の様に過ぎる年月を振り返り見ることをしなくなったせいで、わたしはわたしの身分をうっかり失念してしまっていた。

 居心地のよい現状に慣れすぎて、わたしは主人に対する口のきき方も忘れてしまったのだ。


 某子爵家で、命ぜられるままに働かされていたわたしは、ユエル様に引き取られ、並み以上の生活を保障された。命令されることがなくなった代わりに、自発的な行動を促されるようになった。

 垢じみた衣服は、洒落た洋装にかわり、髪も整えられた。あかぎれだらけだった手は荒れることがなくなり、空腹に胃を痛ませることもなくなった。

 洗いたての清潔な衣服に袖を通す度、淹れたての温かなお茶を美しい陶器の茶器で飲む度、……ユエル様の優麗な微笑を受ける度、わたしは涙が出そうなくらいに嬉しくて、だけどやっぱり少しだけ、ためらっていた。

 夢のようだったから。

 平穏な日々は、あまりに居心地が好くて。安らいでいて。

 幸せすぎる夢を見ているのではないかと、怖れていた。

 だけどやっぱり夢なんかではなくて、消えてなくなることはなかった。

 ユエル様はわたしの手を、そっと握ってくれた。

「顔を上げて、ミズカ」

 ユエル様の手は時に冷たく、時に温かい。その変化が、ユエル様の存在を確かに感じさせてくれた。

 そして、わたしの存在も確かなものとして感じさせてくれた。

「俯いてばかりいないで。ね、ミズカ?」

「…………」

 言われるまま、おずおずと顔を上げた。

「ミズカを不安にさせてしまうつもりはないのだが、どうにも心配ばかりかけてしまうようだね、私は」

「い、いえ、あの、わたしが勝手に心配してるだけで……ユエル様を責めているわけじゃなくて……、その……すみません」

 わたしはしどろもどろに言葉を紡ぐ。ユエル様は優しげに微笑んでいるけれど、もしかして気を悪くされたんじゃないかって、不安になってしまった。

 不安になるのは、ユエル様のせいじゃない。わたし自身が原因だって、わかってる。

 ユエル様は意気消沈したわたしを和ませてくれるように、ちょっと小首をかしげて、艶然と微笑んだ。

 長く細い銀の髪が、さらりと肩から流れ落ちる。窓から差し込む月光を受け、ユエル様の髪は淡い影を端整な横顔に作っていた。深緑色の双眸は、秘め事を含ませているみたいだ。優しいのに、……何故だか怖い。

「まぁミズカに心配されるのは悪くない、と言うか寧ろ嬉しいくらいだからね。ミズカがしたいというのなら、いくらでも心配してくれてかまわないよ?」

「え、えぇっと、それは……」

 ユエル様の美妙すぎる微笑みを目の当たりにしたせいで、動悸が激しくなってきた。頬が上気し、熱を持っているのが分かる。

「ただし、ミズカ自身に負担がかからない程度にね?」

「はぁ……」

 気恥ずかしいのに、ユエル様から顔を逸らせないでいる。肩に不自然なほど力が入って、すっかり縮み上がっていた。

 ユエル様はそんなわたしを笑う。いつだってそうだ。からかっているようでもあり、緊張を解きほぐすかのようでもある。

「それからね、ミズカ。ミズカはもっと自分自身を心配してあげるといい。自分本位に振舞ってもらっても、私としては一向に差し支えないのだからね」

「は、はい」

 わたしはぎこちなく頷いた。

「まぁそうはいっても生真面目な性分のミズカだから、そう上手くはできないだろうけど?」

「…………」

 あっさり見透かされて、わたしはさらに頬を赤くした。

 そしてユエル様は笑っている。甘い香りを含ませて梢を揺らす、春の夜風のように。


 春の夜は、心を甘やかに眩惑させる。

 ――なぜ。

 なぜユエル様は、わたしみたいな詰まらない子に、こんなにも優しくしてくれるのだろう。優しく微笑みかけてくれるのだろう。

 そしてなぜ、わたしは訊けないでいるのだろう。

「どうしてわたしなんかに、こんなにも良くしてくださるんですか?」

 たったそれだけのことを。

 恩義を感じているからなのですか? ――恩を返したいから。ただそれだけのことなんですか?

 分かっている。訊けずにいるのは、「ただそれだけ」と肯定されるのが怖いからだ。

 そう、怖いんだ。

 ユエル様に会うまでは、“失う”という感覚すら持っていなかった。失うことを怖れる感情もなかった。

 わたしはユエル様から多くのことを学び、そして与えてもらった。物質的なことだけではない。様々な感情をも与えられたのだと思う。

 わたしの胸中に、様々な想いが溢れている。ユエル様から与えてもらった、想いだ。

 そしてわたし自身把握できない感情がどんどん膨れ上がっている。

 その感情の名を、わたしは知らない。なぜ、と思う気持ち、その気持ちの名をわたしは知らない。

 知らないまま、わたしはずっとユエル様の傍にいた。今も、疑問を抱えたまま傍にいる。


 ――名づけられないその感情が、わたしの胸をしめつけ、悄然とさせる。

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