小さな一歩分が、わたしたちの距離
風が、鳴ってる。
狂おしく乱れ、激しく。
咲いたばかりの桜の花びらを毟り取るように、散らして。
一枚ガラスの窓にもたれかかり、ユエル様がぽつりと言った。
「今日は、荒れ模様だね」
わたしの方に振り返らず、真昼の空を見つめたままで。
荒れ模様といっても、晴天だ。だけど風が強くて埃っぽい。
春疾風が青空を駆けてゆく。木々を押し、草を薙ぎ、花を散らしている。
ユエル様は物憂げに髪をかきあげた。陽の光に透けるような白銀の髪が、さらりと肩に流れる。
わたしは目を眇めてユエル様の麗容を見つめている。神像を拝むような気分だ。見てもいいのかなと、戸惑ってしまう。それでいて、やっぱりこうしてずっと見つめていたい気持ちを抑えきれない。
ユエル様は窓ガラスを打つ強風を怖れることもなく、じっと佇み、静かに空を眺めやっている。
ユエル様から少し離れた場所で座っているわたしは、声をかけることもできず、ユエル様に倣って、窓の外に視線を流した。
――ふと、思った。
似てる、と。わたしと、風が。
風の姿は見えない。見えないけれど、在る。在るけれど、その姿は固定されず、風自身の姿を見ることはできない。在ることは感じられるのに、はっきりとした形を見ることはない。
わたしの心と、同じに。
風の姿は、媒体があってはじめて、その姿を認めることができる。その姿を明らかにされ、見ることができる。風は、木や水や、雲や鳥、花や人、形あるものによって存在を確かめられる。
わたしもそうかもしれない。風と同じ。
わたしは、――ユエル様によって、「ミズカ」でいられる。「ミズカ」という存在を保っていられる。
わたしという「存在」を受け、ユエル様は様々な反応を示してくれる。
しなやかに、優しく、わたしを受け止めてくれる。どんな風を起しても決して拒まず、「ミズカ」であるわたしの存在を、生かしてくれる。
わたしはユエル様がいなければ、消えてしまう。そんな、頼りない存在なのだと思う。
だけど――……
風が渡れば、水面が揺れる。梢がそよぐ。時には、花びらを散らす。
風のように、わたしはユエル様の傍に在る。
* * *
「さっきからぼんやりとして、何を考えているのかな、ミズカ?」
「――え」
いつの間にかわたしの方に振り返っていたユエル様と、目が合ってしまった。
胸が、鳴る。
風が、窓ガラスをカタカタと揺らす。けれど風はまたすぐに遠くへ行ってしまった。室内には奇妙な静けさが残り、ユエル様の声がひどく近くに聞こえた。
「さっきから手が止まったままだ」
ユエル様はたおやかに微笑み、わたしを見つめている。
わたしの手は、畳みかけたタオルを持ったまま、膝の上で停止していた。
風が強くなってから大急ぎで取り込んだ洗濯物をたたんでいたのだけど、その作業は半分も進んでいない。
「何か、物思いに耽っている風だね?」
「い、いえ、そんな……――」
作業を再開させるために、顔を俯かせた。
「ただ、ちょっと……」
ユエル様の視線を感じて、頬が熱くなる。それをごまかそうと、言葉を続けた。
「風って、わたしに似てるなーとか、そんなことを思って……」
いきなり何を言い出だすかな、わたし!? と、言ってから気がついて、恥ずかしくなった。
ただでさえ赤くなってるだろう頬が、さらに上気していくのが自分でも分かる。恥ずかしくって、顔を上げられない。
そんなわたしを、ユエル様はどんな目をして見ているんだろう。
呆れ顔でいるだろうか。それとも――
「そうかもしれないね、ミズカ」
一瞬の沈黙の後、ユエル様の穏やかな声がわたしの耳に届いた。わたしはおずおずと顔を上げ、窓辺に佇んでいるユエル様に目を向けた。
ユエル様は、ちょっとだけ複雑そうな微苦笑を浮かべ、
「風にも、いろいろ種類があるからね」
何かを思いだしたかのような口ぶりで、言った。
わたしは首を傾げて、苦っぽい表情をしているユエル様の様子を窺った。
何か嫌なことでも思いだしたような、それでいて、さほど嫌がってもいないような、どちらともつかない表情だ。懐かしさを含んだ苦笑いが、ユエル様の端整な顔を和らげている。
「ミズカは、たしかに“風”らしいところがあるね」
「そ、そうですか……?」
自分でそう言ったくせに、疑念のこもった声を返してしまった。
だって、わたしがイメージする“風”と、ユエル様が言う“風”って、何か違う気がするもの。
わたしの“風”は漠然としすぎてるから……。
「風はね、ミズカ、―――」
ユエル様は目を細め、わたしを見た。新緑よりももっと深い色をしたユエル様の双眸は、わたしを釘付けにする。目を逸らそうにも、逸らせない。
「風はね、生命を保たせるためには欠かせない“力”で、大きな影響を与える“存在”なんだよ。たとえ、その形を目で捉えることはできなくともね」
「…………」
ユエル様は読心術という能力も持ち合わせているんじゃないだろうか。
どうしてわたしの思うことが分かるんだろう。
いつだってそうだ。わたしの、わたし自身分からないような感情を読み取って、笑ったり、宥めたりしてくれる。
嬉しくないわけじゃない。だけど、躊躇い、……懼れてしまう。
ユエル様はわたしの不安を感じ取ったのだろう。視線を、窓の外に移した。
「風は、大気の澱みを掃い、生命を運び、絶え間なく循環させ、活かしている。そういう存在だ。風の姿は目に見えずとも、その存在の在り様は、容易に見える。いくらでもね」
言い終えぬうちに、ユエル様はいきなり窓を開けた。「ほら」と、笑って。
「……ちょっ、ユッ、ユエル様――っ!?」
疾風が、びょうっと音をたてて室内に侵入してきた。紗のカーテンが大きく膨らみ、はためいた。洗濯物が、全部ではないけど吹き飛ばされる。わたしは片手で髪を押さえた。
「ユエル様っ、窓閉めてくださいっ!」
慌てふためくわたしを見、ユエル様は愉しげに笑っている。すぐに窓を閉めてくれたけど、たたんで重ねておいた洗濯物まで床やらソファーやらに散らばって、しわくちゃになっている。
「もう、ユエル様!」
わたしはちょっと怒って立ち上がり、文句をたれた。
「さっき掃除機かけたばっかりなのに、またかけなおさなくっちゃ!」
風とともに、土埃と薄紅色の花びらが、室内に入り込んた。青緑色のカーペットの上に、数枚の花びらが落ちていた。
ユエル様は悪びれた風もなく、「ごめんごめん」と笑う。
「これも風の姿の、ひとつだ。力強く、確かな存在だろう?」
ユエル様は風に乱された銀髪を指で梳く。
それから優艶な微笑をわたしに向けて、言った。
「私にとっても、そういう存在だよ」
「――え?」
散らばった洗濯物を拾い集めていた手が、止まった。中腰の姿勢を直し、まっすぐに立った。さっきより近くに、ユエル様がいる。
わたしがユエル様に近づいたのではなく、ユエル様がわたしの傍に来ていた。
ユエル様は、何気ない仕草で、わたしの髪に手を伸ばした。ユエル様の指がこめかみに触れ、思わず身を竦めてしまった。
ユエル様は摘み取った花びらをわたしに見せてくれた。
「桜、だね」
「……は、はぁ」
我ながら、間の抜けた返事だった。もっと気の利いたことを言えないのかと、情けなくなる。
それに、ドキマギして、ユエル様の顔をまともに見られない。ユエル様の体温を感じられるくらい近い距離に、戸惑ってもいた。
だけど、身をひけなかった。離れられなかった。……離れたくなかった。僅かの時間でもいい。こうしていたかった。
ユエル様は綽然とした微笑を湛えている。強風に吹かれても薙ぎ倒されないしなやかさが、ユエル様にはある。
「部屋を散らかしたお詫びに、お茶を淹れてこよう」
ユエル様は桜の花びらをわたしに手渡してから、身を翻し、キッチンに向かって歩き出した。
「えっ? いえっ、いいですよ、そんな!」
わたしは慌ててユエル様を追いかけた。
「いいから座ってなさい、ミズカ」
「でも」
「掃除機をかけなおすのは、後にね。――洗濯物でもたたんで、待ってて」
ユエル様の美麗すぎる微笑は、わたしに口答えをする余地を与えない。
「……はい」
ユエル様の好意に、素直に頷いて応えた。
本当は、訊き返したかったのだけど……。
――「私にとっても、そういう存在だよ」――
わたしが――、いったいユエル様にとってどういう存在なのか。それを、ユエル様が言いかけた気がしていたから。
でも、わたしは吹き荒ぶ風を懼れていた。
桜の花びらを、手の中に包み込んだ。――風に飛ばされないように。
ユエル様が淹れてくれたルビー色をしたフレーバーティーは甘酸っぱくて、とても美味しかった。……なんだか、泣きたい気分になってしまうほどに。
「熱くて、やけどしそうです」
眦に浮かんだ涙を拭いつつ、笑ってごまかした。
「でも、美味しいです。……ありがとうございます、ユエル様」
「どういたしまして」
ユエル様は優しい笑顔で応えてくれた。
どうかいつまでも、このままで。
今だけはそれを望んでもいいでしょうか。
切なく揺れながら、それを願い、ユエル様の微笑を見つめ返した。
風が縮めたわたしとユエル様の距離にとまどいながら。