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ホットチョコレート

 それは、まだわたしが西洋のイベントに疎かった頃のこと。


 晴れた空がまぶしく、吹きつける風のちょっと冷たい、とある冬の日。

 わたしはふらりと散歩に出、そのついでにスーパーマーケットに立ち寄った。けっこう新しそうなスーパーで、外観もきれいだった。平日の午後にも関わらず、存外賑わっていて、盛況な様子だった。

 別段入用のものがあったわけではないけれど、せっかくだから紅茶を買っていこう。ちょうどダージリンの茶葉が少なくなっていた覚えがある。幸いお財布は持ってきてる。

 財布は、わたしの「ご主人様」とでも言うべき人、ユエル様が持たせてくれた。

「何かほしいものがあるのなら、いくらでも買ってきて構わないよ」

 そんなことを言われても、「では遠慮なく」と頷けるはずもないのだけど。  でも、生活用品を買いこんでくるのはわたしの役割になっていたから、財布はわたしが預かっていることが多い。中身は……いつの間にか足されていたりするから、そのあたりのユエル様のさり気なさには、本当に頭が下がる思いだ。


 店に入ってすぐ、広々と場所取っている特設の売り場に目がいった。

 派手で華やかな飾り付けが施してあるその一画、棚には様々に包装されたチョコレートが陳列されていた。

 ずいぶんと賑わっていて、お客さんの年齢層はバラバラだけど、圧倒的に女性が多かった。

「……?」

 わたしは首をかしげた。

 チョコレートの特売日……なのかな?

 それにしては高級そうなチョコレートが割引もされずに売られている。その一方で安価なチョコレートもあって、とにかくいろいろな製菓チョコレートが所狭しと並べられていた。

 チョコレート、かぁ。

 興味が湧いて、わたしはついふらふらと特設の売り場に足を向けていた。


 わたし達(吸血鬼)は固形物を食べられないから、チョコレートって食べたことがなかった。

 前々からチョコレートには興味があって、どんな味がするんだろうと思っていた。

 香りから察するに、きっと甘いお菓子なのだとは思う。

 ユエル様は、

「チョコレートといっても、今は様々な味のものがある。甘いものがほとんどだが、そうでないものもある。硬さも色も様々だ」

 と言っていた。

 ユエル様も食べたことはないはずだけど、チョコレートに関する知識は豊富なようだった。主にカカオ豆から作られるお菓子なんだそうだ。

「それじゃぁコーヒーみたいな味がするんですか?」

「そう……ココアの甘さを濃厚にしたような感じ、かな。いや、コーヒーを甘くした感じに近いかもしれない」

「ココアとコーヒー、ですか」

 ユエル様は、コーヒーは愛飲なさっておられるけど、ココアはあまり飲まない。

 甘ったるい飲み物はどちらかといえば好まないようで、コーヒーも砂糖も牛乳も入れずに飲んでいる。ブラックコーヒーをお好みだ。だけど、ごくたまにシナモンコーヒーやキャラメルジンジャーコーヒーといったスパイスのきいたものを飲むこともある。ユエル様は、ただ甘いだけのものより、ちょっとスパイシーな甘さのものを好まれるようだ。

 コーヒーにもいろんな飲み方があることを、ユエル様から教わった。そして最近、紅茶やコーヒーなどの、飲み物専門のレシピをユエル様に買っていただいた。必要な器具なども揃えてくれた。

 本に載っている、ユエル様が好みそうな飲み物を一通り作ってみたいというのが、今のわたしの小さな野望だったりする。野望というにはささやか過ぎるけれど。それにお酒の種類とかにはまだまだ疎いから、その野望も達成するにはかなりの時間を要しそうだ。


 ――ああ、そうだ! ピンッとひらめいた。

 そういえば、買っていただいた本の中に、たしか『ホットチョコレート』なる飲み物のレシピが載っていたような気がする。ううん、たしかに載ってた。

 せっかくたくさんのチョコレートが売っていることだし……作ってみようかな?

 ユエル様、ココアはあまりお好きでないようだけど、ホットチョコレートはどうだろう?

 甘さを控えめに作れば、飲んでもらえるんじゃないかな。

 それに、わたしもちょっぴり飲んでみたいし……。

 材料って、チョコレートの他に何が要ったろうか。牛乳の他にも何かあったかな?

 でもたしか、そんなに入れるものはなかったような気がする。たぶん、チョコレートさえ買っていけば事足りるはず。

 記憶は不確かだったけれど、ともあれチョコレートだけを買っていくことにした。

 チョコレートはユエル様のお口に合うよう、できるだけ高級そうなものを選んだ。


* * *


 翌日、わたしはそそくさとホットチョコレートの製作に取り掛かった。

 本当は買ったその日に作りたかったのだけど、時間がとれなかった。

 できればユエル様にナイショで作って、驚かせたかったから。

 そして現在、午後二時。わたしは、いざホットチョコレートなる飲み物を製作すべく、キッチンに立っているという次第だ。

 ホットチョコレートの作り方は存外簡単で、材料も手元にあるもので足りた。

 チョコレートと牛乳が、基本材料。そこにスパイスを加えるかどうかは、お好みで、ということらしい。

 小鍋に牛乳を入れ、沸いたところで細かく刻んだチョコレートを投入。それを木べらでゆるゆるとかき混ぜて、チョコレートを溶かしてゆく。チョコレートが溶けたところで、スパイスを入れる。入れるのは、シナモンとブラックペッパーにした。他、とうがらしやピンクペッパーを入れてもいいみたい。

 それからラム酒も少量入れた。アルコール分が少しでもある方が、ユエル様の気にいってもらえるかな、と思って。

 所要時間はおよそ十分。とっても簡単にできた。

 味見もしてみたけれど、我ながら美味しくできたと思う。

 ココアよりとろりとして、甘いには甘いのだけど、スパイスがきいて、舌にぴりっとした辛味を感じる。甘さと辛みが程よくまざりあい、思ったより口当たりがさっぱりしている。

 わたしは出来上がったホットチョコレートを持って、急ぎ、ユエル様の私室を訪ねた。

「ユエル様!」

 鍵などかかっていないドアを開け、そこにいるはずのユエル様を呼ばわった。

「ユエル様、入ってもいいですか?」

「どうぞ。というか、もう入ってるよね、ミズカ」

 ユエル様の緑色の瞳が細められ、優しいまなざしがわたしに向けられる。艶然とした微笑が美々しい容貌を彩り、まぶしいくらいだ。

「あっ、そうですねっ。つい、気がはやってしまって! えぇっと……その、すみません」

「まぁいいよ。ミズカなら、別にいつでも入ってきてくれて構わない」

「……はぁ……」

 かく言うユエル様は、わたしの寝室に勝手に入ってくることがたまに……ほんとにごくたまにだけどあるので、困ってしまう。

 わたしが起きているとはっきり分かっている時は、きちんとノックをしてから入ってくるのだけど、ぐっすり寝ている時に忍び込んできて、わたしを驚かせ、焦らせる。

 それは、わたしが寝坊をしてしまう時に限ってのことだから、ユエル様なりに心配して様子を窺いにくるのかもしれないけれど。

 ……けど、顔を真っ赤にして焦りまくるわたしの様子を楽しんでいるとしか思えない。

 嫌だから、とかではなくて、寝起き顔を見られるのは恥ずかしいのでやめてほしいと何度も言ってるのに、ユエル様は「はいはい」と笑うだけで、言う事を聞いてくれたためしがない。

「そ、それはともかくですね、ユエル様!」

 ユエル様は皮張りの大きな一人掛けソファーにゆったりと身を沈め、分厚い本を読んでいた。

 そしてテーブルには白ワインの瓶と、ワイングラス。

 まだ日も明るく、やっと午後三時という時間なのに。アルコール摂取には早過ぎる時間なんじゃぁ……

 そりゃぁ、お酒は夜飲むものだと決められているわけではないのだから、いつ飲んだって別に構わないだろうと言われれば、たしかにその通りで反論できなくなってしまうんだけど。

 だけど、やっぱり窘めてしまいたくなる。

「こんな時間からお酒というのは、どうかと思いますよ?」

「紅茶を頼もうと思ったんだが、ミズカは、なにやら忙しそうだったからね」

 ユエル様は手にしていた本をテーブルに置くと、額にかかった長い銀の髪をかきあげた。その仕草も微笑みも、目がくらむ程に優艶だ。胸が、ドキドキする。

「あ……、それは、すみませんでした」

「いや、いいよ。……それを作っていたんだろう?」

 ユエル様はわたしの持っているお盆に乗っているグラスに視線を移した。

「はい、そうなんです。あの、ユエル様、よかったら飲んでくださいませんか? ホットチョコレートを作ってみたんです」

 わたしはテーブルにお盆を置いた。耐熱性のグラスに淹れたホットチョコレートから、甘い香りが立ち上っている。

「…………」

 ユエル様は、ふっと小さくため息をこぼした。

「あ、あの……やっぱり甘いものはお好みではありませんでしたか……?」

 おそるおそるわたしが尋ねると、ユエル様は頭を振って、グラスに手をかけた。

「これ、ラム酒が入っているね。シナモンがきいていそうだが」

「はい。シナモンは、お好きでしたよね?」

「……ミズカ。今日は何の日だか知ってる?」

「はい?」

 唐突に訊かれ、わたしは目を瞬かせた。

 ユエル様は水色のエプロンを着用しているわたしを、じっと見つめている。このエプロンも、先日ユエル様が買ってくださったものだ。飲み物のレシピ本と一緒に。

「えぇっと、今日は……二月十四日で……。何か、祭日でしたか?」

 わたしは首を捻った。考えてみたけれど、思い浮かばない。

「二月三日は節分で、十一日は建国記念日でしたよね」

「そう」

「…………」

 実のところわたし、祭日ってちゃんと憶えていない。ユエル様に教えていただいたんだけど、学校に通うでもなければ勤めに出ているわけではないから、祭日とか休日とかって、わたし達には意味のないものだ。

 それに、わたしにとって「休み」といえば、盆暮れ正月で、あと他に思い浮かぶ休みといえば……――

「あ、薮入り……?」

「薮入りは一月だね。一月十六日と七月の十六日」

「そうでしたね! えぇっと、じゃぁ……何の日なんでしょう?」

「…………」

 ユエル様は微笑まじりにため息をついた。

「そうか、教えていなかったね。まぁたしかに教えるほどの日でもないが……。しかしよりにもよって今日チョコレートを持ってくるとは……」

 ユエル様は声を低くして、呟いた。呆れるような口ぶりで、吐き出されたため息は深かった。

 ややあって、わたしの心配げな視線に気がついたユエル様は、ユエル様はまだ熱いだろうホットチョコレートを口にした。そして二口、三口、味を確かめるようにして飲んだ後、ユエル様は微笑んで「美味しい」と言ってくれた。

「甘すぎず、程よくスパイスが効いて、とても飲みやすいよ、ミズカ」

「そうですか! よかった!」

「それでね、ミズカ。確認したいんだが、チョコレートはどこで買ったのかな? 近所のスーパー?」

「え? はい、そうです」

 なんだろう。ユエル様、「チョコレート」にこだわってる?

「じゃぁそのチョコレートの売り場に、何か書いてなかった?」

「え……」

 わたしは首をかしげた。

 ユエル様は、ホットチョコレートを飲みながら、何かを期待するようなまなざしをわたしに向けていた。

「はっきり憶えてないですけど、そういえば看板とかに、何か書かれていたような……」

 注意力散漫すぎだな、わたしって。

「クリスマス」のような雰囲気の字面で何か書かれていた記憶はあるけれど、英語で書かれていたものは読めなかったし、カタカナで書いてあった言葉も、ちゃんとは見てなかったから、はっきり憶えていない。

「バレンタインデー、ではなかった?」

「あ! それです! たしかそんな単語でした!」

 そうそう! なんとかデーと書かれてあった。チョコレートではなく、「バレンタイン」って書いてあったっけ!

「ユエル様、今日はその“ばれんたいん”の日、なんですか?」

「そう。バレンタインデーだ」

 ユエル様は含み笑いをしている。なにやら言いたげな様子だ。

「バレンタインデー」とやらがどういう日なのか、わたしにはさっぱり分からない。なんとなく聞いたことがあるような気もするけれど……。日本は節操なく西洋の祭日というか祝日を取り入れてるから、ややこしい。

「あ、ユエル様。もしかして、チョコレートの日なんですか? チョコレート記念日とか、そんな感じの?」

 あてずっぽうで訊いてみた。

 ユエル様は頷きかねるといった微妙な顔をしたけれど、否定はしなかった。

「まぁ、確かにそれはその通りだが。バレンタインデーとチョコレートの日では、少々意味合いが違うんだよ」

「……はぁ……?」

 よく分かりませんけど……。

 わたしは不思議がって首を捻るばかりだ。

 ユエル様はそんなわたしを見、微笑んでいる。緑色の双眸が、いつになく優しい光を湛えていた。

「が、チョコレート記念日という響きはいいね。今日は、私達の“チョコレート記念日”にしようか。ミズカがホットチョコレートを初めて作ってくれた、その記念日ということで」

「…………」

 ユエル様の甘やかなまなざしを受け、ほわっと、頬が熱りだした。

 ユエル様は、いつの間にかホットチョコレートを飲み干してした。けれどホットチョコレートの香りは室内に残って、わたしの胸の中にもその残り香が沁み込んでくるようだった。

「とても美味しかったよ、ミズカ」

「そ、そうですか。なら、よかったです」

 顔の熱りを気にしつつ応えると、ユエル様は美妙な笑顔をさらに深めた。

「ありがとう、ミズカ」


 結局、ユエル様はバレンタインデーの意味を教えてはくれなかった。

「いずれ分かるよ」と、ユエル様はなにやら意味深に笑っている。

 そしてその意味深な笑顔をさらに悪戯っぽくやわらげて、独り言のように呟いた。

「お返しを、何か考えておかないとね」

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