「リーナ」
ディロンの胸で思い切り泣いた後、エカテリーナは思う。こんなに泣いたのは初めて。世の中には、私の中には、こんなに悲しいと思う感情があったんだ。
こんな思いを誰かにさせるのは……やっぱり嫌。たとえ、自分とは関わりの薄い人でも。
ディロンを見上げる。彼は、表情から感情が読めない。嬉しいとか悲しいとか怒ってるとか、全然見せてくれない。でも、なんだかんだ私を助けてくれる優しさがある。
気遣いの男、ディロンの頭の中では多くの思考が素早く、複雑に巡っているのだが、それもエカテリーナは知らない。
「落ち着いたか」
「私は……」
「どう生きればいいか、解らないか?」
こくり。解るはずもない。知性の成長が早い種族とはいえ、まだ5歳の幼い子供なのだ。年齢的には、遊ぶことやわがままを通すことばかり考えているのが普通。
生き方を考えるなど、そもそも早すぎるのだ。ディロンとて、それは感じていた。
「リーナ」
「……? リーナ?」
「お前のニックネームだ。……嫌か?」
「リーナ……」
「エカテリーナ」だから「リーナ」とは、安直とも言えるネーミングだ。しかもこのタイミングでニックネームを付けるというのも不自然ではある。
不器用な男は、彼なりに少女を落ち着かせようとしていた。ニックネームというのも、「俺はお前を嫌わない。ちゃんと友人だから、ここからの話は安心して聞いてくれ」という意思表示のつもりで……つくづく面倒で不器用な男である。
「リーナ……イイです。すごくイイです」
「そうか」
エカテリーナの目の周りは赤く腫れている。それに、子供があれだけ泣いたのだ。かなり疲れているだろうことは想像に難くない。
「リーナ。お前は……子供は自分に素直に生きればいい」
「でもそれじゃあパパとママが……ディロンさんが……っ」
「……バーカ」
「バ、バカ?」
そんなことを言われたのは初めてだった。子供にしては賢い子だから親もそんなことは言わないし、歳の近い友達もいないのだから当たり前だが。
「頭が悪いってことだ」
「そ、それくらい知ってます!」
「……いいか、リーナ。お前は今、困っている」
気だるげな印象を与えるその司書は、誰に対しても等しく気だるげに接する。あくまで、表面上は。
「自分が困っているくせに、他人を気にするな。他人に幸せを与えたいなら……まずお前が幸せになれ」
「私が……?」
「例えば、お前の家が貧しかったとする。親が我慢して、自分達が腹を減らしながらもお前に飯をやったとして、お前はそれを素直に喜べるか?」
「……いいえ」
到底、喜べない。もし、それを知らずに受け取ったとしても、無理をしていたと解った時には辛い気持ちになるに違いない。
「大人は自分に降りかかる迷惑なんか自分でなんとか出来る。……子供がそんなこと気にするな」
「ディロンさん……」
幼いエカテリーナにも、ディロンが自分を元気付けようとしてくれているのは解った。ディロン本人は気付いていないが、彼は今かなり素直に思いを口にしている。
「ありがとうございます。ディロンさん」
「…………」
エカテリーナは微笑み、礼を言う。大人にとっては小さな悩み。けれど、子供にとっては大きな悩みを、1つ消してくれた。そんな素敵な男性に。
エカテリーナはまだ知らない。世の中には、多くのしがらみがあることを。「自分を信じて生き続ける」ことが、どれほど難しいことなのかを。悪意に満ちた世界で、「優しい」ということがどれだけ枷になるのかを。
そして、今後彼女が壁にぶつかり、悩む度、エカテリーナはディロンのことを思い出すことになる。
「他人に幸せを与えたいなら、まず自分が幸せになれ」
この言葉は彼女の人生の大きな支えとなり、彼女の人生に、大きな影響を与えていく。だが、それもまだ彼女は知らない。
「……疲れただろう。今日はもう帰れ」
ディロンは気だるげだ。今回ばかりは彼も本当に少し疲れている。不器用なりに、考えに考えたのだ。エカテリーナの為に。
「……はい。ありがとうございました」
いつものように、ペコリとお辞儀をする。5歳の小さな子。立ち上がっていても、椅子に腰掛けるディロンより低い位置に頭があるくらい。
さようなら、と残して去ろうとするエカテリーナ。彼女が扉に手をかけた時だった。
「リーナ!」
「はい?」
黒服の司書が呼び止めた。思わず椅子から立ち上がりながら。何事かを口にしようと開きかけたが、それは声にせず諦め、
「明日も、ちゃんと来い」
「……はい!」
結局、彼は言おうとしていたこととは違うことを言ってしまった。再び座り、窓に目を向ければ、非常に遅くはあるがもうほとんど普通に飛べているエカテリーナが見えた。
図書館に独りでいる男は、ため息をつく。
「子供に向かって……バカと言ってしまった……」